第25話 セロの飛翔
夜明け前の学舎は、ひっそりと静まり返っている。一夜が明けた訓練場には、夜襲の傷跡がいたるところに散らばっていた。
正門には見張りの学生たちがいるが、外れた扉は砂地に横たわったままだ。足元を見れば、松明の炎に焦げた砂が、地面に黒い染みをつくっていた。
早朝の肌寒さに身を震わせて、タークは訓練場の中央で約束の時を待っていた。他のドラゴン乗りの邪魔にならないよう、隅で練習している彼にとって、今日の訓練場はいつもより広大に感じた。
「こんなに広かったなんて……知らなかった」
感嘆の声をもらして、タークは辺りをぐるりと見渡した。薄い霧が地を這い、景色がぼんやりと白く霞んでいる。早朝の訓練場はなんだか幻想的で、雲の上にいるような感覚になった。
――ドス……ドス……
背後から、重たい音が聞こえてくる。
タークは背筋をすんっと伸ばした。腹の底に響くこの音は、ドラゴンの足音だ。力強く大地を踏みしめて、こっちに近づいて来る。
わくわくしてふり返ると、黒い髪の青年と青いドラゴンが歩いて来るのが見えた。
宿舎で寝ている人たちを起こさないよう、タークは声を出さずに大きく手をふった。飛翔用のゴーグルを着けたセロが、軽く手を上げて答える。
「危ないから、そこで見ていてくれ」
タークに声をかけると、セロは素早くドラゴンに跳び乗った。ドラゴンの翼が力いっぱい広げられ、バサッと乾いた音を響かせる。
「ディノ、行けるか?」
セロの問いかけに、ディノは首を下げた。ディノの頭が、乗り手の目線よりも低くなる。これは、ドラゴンが従う意思を示す仕草だ。
「よしっ、行くぞ!」
ディノは頭をしなやかに振り上げ、力強く踏み切った。
タークは固唾を飲んで見守る。
門で見張りをしていた学生たちも、興味深そうに様子を眺めていた。
ドラゴンが飛翔体勢に入ったとき、タークはお腹の下がくすぐったくなって、力が抜けてしまう。どうしても、ふわふわと宙に浮かぶ感覚に慣れることができないのだ。
ディノの後ろ足が砂を蹴り、一気に舞い上がる。軽やかに飛翔するドラゴンは、空へ向かってどんどん上昇し、翼の音だけを残して行ってしまった。
ディノが羽ばたくたびに、身体に力が込められていくのを、セロは頬を打つ風の中で感じていた。
風が耳元で唸りを上げ、学舎はみるみる小さくなっていく。ゴーグルがなければ、目を開けることすらできないだろう。
低く垂れ込める雲を突き抜けると、山脈の峰が雲上で輝く世界が広がっていた。
白く尖る山脈に向かって進み、セロは雲の隙間から漏れ出る太陽の光に、そっと目を細める。
夜明け前の一瞬しか、見ることができない景色。
ドラゴン乗りでなければ、見ることのできない世界。
だが、セロはこれだけでは満足しない。ディノの首に沿って体勢を低くすると、張っていた手綱をゆるめた。
ディノは力を失い、翼の飛膜がふにゃりとしぼんでしまう。空中でゆっくりと傾いたドラゴンは、そのまま落下を始めた。
ごうごうと唸る風が、セロとディノを何度も引き剥がそうとする。雲上の世界に別れを告げて、あっという間に雲を抜けると、そこには天地が逆さになった世界が広がっていた。
森の緑が視界の上半分を覆い、流れる白い川が稲妻のように大地を切り裂いている。ディノはちぎれた雲をまといながら、氷柱のように垂れ下がる山脈に向かって落ちていく。
「ディノ、頼んだぞ!」
セロは手綱を鞍に結んで、鐙を脱いだ。
手綱を放したセロはディノから引き離され、広大な大地へ吸い込まれていく。
空っぽの鞍を乗せたディノは翼を広げると、低く垂れ込む雲のなかへ消えてしまった。
セロは空中で逆さまになり、朝焼けに染まる世界を眺めた。ブーツが赤い空を踏み、空に立っているような、不思議な感覚になる。
この技は、かつて彼の兄が得意としていたものだった。ドラゴンとの信頼関係がなければ、成功することはない大技だ。
『本当の信頼っていうのは、お互いの命がかかっている状態になって、初めてわかると思うんだ』
兄は時折こんな無茶をしては、見る者の寿命を縮めたそうだ。
「セロさーんっ!」
このまま落下し続けたら、セロの命はない。地上で見守っていたタークが叫んだそのとき。一筋の輝きが雲を突き破って、セロの元へ流れていった。
ディノだ。
ディノは落下するセロに合わせて降下している。セロは手綱を捕まえて体を引き寄せると、素早く鞍にまたがった。
ディノが翼を広げると、減速の衝撃が体にのしかかってくる。押し潰されそうな重みに耐えたセロは、少し手綱を繰った。
ディノが一回転して、景色もぐるりと回る。
セロが違う合図を送ると、ディノは地面に触れそうになるほど低く飛んだ。安定した心地よい速さで、森の木々が視界の端を通り過ぎて行く。
セロはゴーグルを首まで下げて、ほっと息をついた。
彼らの下を流れる草は朝露に濡れ、山脈から登る朝日に輝いている。風に波打つ野原は、深緑のエメラルドが散りばめられた海のように美しかった。
手を伸ばしてディノの首をなでると、尖った青い耳がこちらに向いた。
「ありがとう。よく頑張ったな、ディノ。タークは今頃、すごく驚いていると思うよ」
ウォンッと短い咆哮を上げるディノに、セロはにこりと微笑んだ。
「さあ、帰ろう」
学舎の周りを一周してから、セロは正門のある東側の壁へディノを導いた。そこから先は指示しなくても、ドラゴンは自分で壁を飛び越えてくれる。
なだらかに下降していたディノは、ぽつんと立っているタークを見つけて、着陸の構えをとった。
「ちょ、ちょっと!どうしてこっちに来るんですかあーっ!」
タークが慌てて逃げたのと同時に、ディノは砂ぼこりを巻き上げて訓練場へ降り立った。
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