ぼくらの森

ivi

第一章 はじまり

第1話 プロローグ

 学舎の遥か彼方には山が峰を連ね、山脈の頂きだけが、まだ見ぬ日の光を受けて白く輝いている。まるで山の峰だけが宙に浮いているかのようだ。


 早朝の静けさを貫いて、学舎に慌ただしい鐘の音が響き渡る。


 薄闇のなか、青い制服に身を包んだ学生たちは、黒くそびえる物見塔を見上げた。訓練場で朝の稽古をしていた者たちも次々と剣を下ろし、その音に耳を傾けている。


 短く、そして甲高く鳴り響く鐘の音は、いつもの起床の鐘ではなかった。


 「遠征軍が帰ってきたぞー!」


 広大な訓練場のどこかから、そう叫ぶ声が聞こえてくる。


 帰って来た……帰って来たんだ!


 学生たちの間に喜びが広がっていく。


 魔界軍を征伐するため、西の大草原へ遠征に行っていた仲間が、ついに帰還するのだ。


 学生が一斉に歓喜の声をあげると、鐘の音はたちまち掻き消されてしまった。


 学舎の奥にある赤い屋根の宿舎では、あまりの騒がしさに窓から顔をのぞかせる者、寝間着姿のまま訓練場へやって来る者、ついには一階の窓から外へ飛び出す者も現れた。


 人から人へと喜びの輪は広がり、朝の学舎はあっという間にお祭り騒ぎになる。


 「門を開けろーっ!急げ!」


 物見塔から響く声に突き動かされ、学生たちが我先にと正門へ走って行く。集った彼らの手によって、木で造られた大きな扉がゆっくりと開き始めた。


 そのとき。


 狭く開いた扉をすり抜けて、一頭の馬が勢いよく飛び込んで来た。暴走する馬は我を忘れ、広い訓練場を縦横無尽に走り回っている。


 牛柄の小さな馬はひどく興奮し、桃色の鼻を広げて苦しそうに息をしていた。よほど怖い思いをしたのだろう。黒い瞳は恐怖で見開かれ、体中から滝のような汗を流している。


 数人の学生が、走り回る馬を捕らえようと必死になる一方、傍観者の目は馬の背に釘付けになっていた。


 なぜなら、そこには本来いるべきはずの騎士の姿がなく、乗り手のいない鞍だけが乗せられていたからだ。


 ぶらぶらと揺れる鐙が腹にあたるたび、怯えた馬は後ろ足で空を蹴った。


 思うように馬を捕まえられず、学生たちの息が切れ始めたとき。


 馬が躓いて、もんどり打ってひっくり返った。胸を地面に叩きつけるようにして倒れた馬は、苦しみに唸りながら足をばたつかせている。


 駆けつけた学生は、砂まみれになった馬をロープで捕らえ、急いで鞍を外す。奇跡的にかすり傷ですんだ馬は、やかましくいななきながら立ち上がると、蹄鉄を履いた蹄で激しく地団駄を踏んだ。


 いくら小柄であるとはいえ、パニックになった馬を押さえるのは一苦労だ。


 「一体、どうなっているんだ……?」


 学生たちは突然の出来事に呆然としていたが、再び打ち鳴らされた鐘につられてふり返った。


 青年が物見塔から落ちそうになるほど身を乗り出して、何か叫んでいる。


 「気をつけろ!ドラゴンだ!」


 訓練場にいた学生が、朝靄にかすむ空を見上げたのと同時に、大きな影が頭上をさっと横切った。


 影は学舎を囲む壁を越えて、訓練場の中央へ降り立つと、衝撃で四散した砂塵からさっそうと姿を現した。


 砂埃を千切って飛び出してきたのは、青い鱗のドラゴンだった。


 ドラゴンは翼を振りさばき、体にまとわりつく砂をなぎ払う。ドラゴンが動くたびに長い尻尾が鞭のようにしなり、近くにいた学生が慌てて退いた。


 しばらくして、ようやく翼を折りたたんだドラゴンは、しなやかな首を伸ばして頭を掲げた。辺りを見回すように、ゆっくりと顔を動かして、周囲を囲む人間を静かに眺めている。


 高まる緊張を物ともせず、一人の男が人混みから進み出た。背の高い赤毛の男は、ロープを構える学生を片手で制すと、ドラゴンの正面へ臆することなく歩いて行く。


 男の手が手綱をつかんでも、ドラゴンは身じろぎ一つしない。他のドラゴンと比べて大人しく、人間に従順なその姿に男は見覚えがあった。


 「こいつは……間違いない。ディノだ」


 男の言葉に、周囲がざわめいた。


 「乗り手はどうした?……ジアンはどこにいる?」


 男はたずねる。


 しかし、ドラゴンが答えることはない。ただ、青く澄んだ瞳で彼を見つめているだけだ。


 学生たちは動揺し、互いに顔を見合わせた。気まずい沈黙を破るように、風がドラゴンの鐙を虚しくゆらして、冷たい金属音を鳴らしている。


 遠征に行ったドラゴンの背に、なぜ乗り手がいないのか。その理由を説明できる者は、誰一人としていなかった。


 嫌な結末が、全員の頭をかすめたそのとき。


 「あれを見ろ!」


 少年が指差す壁の上。見上げた視線の先には、巨大な黒いドラゴンが宙に浮いていた。


 巨大な四つの翼が空を覆い隠し、訓練場に暗い影を落としている。ドラゴンが羽ばたくと、低く垂れ込める雲は無惨に引き裂かれていった。


 学舎のドラゴンでは、到底敵わないほどの大きさだ。


 悪夢のような光景に、馬は甲高い悲鳴を上げ、ディノの青い瞳は怒りで歪む。


 嫌な予感がした男は命じた。


 「ディノを抑えろ!」


 男が叫ぶと同時に、学生たちが素早くロープを投げた。


 日頃の訓練で鍛えられた、彼らの投げ縄から逃げられる獲物はいない。翼と頭を押さえられたディノは悔しげに吠え、壁へ降り立った黒いドラゴンを鋭く睨みつけている。


 巨大なドラゴンの重みによって、崩れた壁の欠片がパラパラと降り注ぐ。壁に走る亀裂は今この瞬間も岩が砕けるような音をたてて広がっている。


 学舎の小さな砦は、もう崩壊寸前だ。


 ドラゴンの背から、小さな人影が壁の上へ飛び降りる。黒いフードマントをまとった人影は、直立不動の姿勢で眼下に広がる訓練場を眺めた。


 フードを深く被ったその顔に、表情はない。風になびくマントが不気味な雰囲気を醸し出し、その姿を見た者は騒然となった。


 「不死身の少女……!」


 学生たちが一斉に剣を構え、周囲の緊張が一気に高まる。鞘から剣を抜く音が訓練場に反響して、耳鳴りのような余韻を残して消えていった。


 一瞬の静寂のあと、少女は学生たちに応えるかのように右手を高く上げた。白い手袋をはめた手には、見覚えのある帽子が握られている。


 「……ジアン!」


 ゴーグルのついた白い飛行帽は、空の英雄ジアン・オルティスがいつも身につけていたものだ。


 不死身の少女に立ち向うつもりなのだろうか。固まる人々の合間を縫って、三頭の馬が門に向かって駆け抜けて行く。


 しかし、彼らの後に続こうとする者は誰もいない。


 無謀な彼らを引き止める者もいない。


 魔界軍を征伐するために出陣した遠征軍の末路。


 その結末を想像した者の頭に、最悪の情景が重くのしかかる。


 学生たちの心が絶望で染まっていくのを、不死身の少女はただ黙って見下ろしていた。

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