第44話

「この人は私の大切なお友達です。あなたがこの人を害するのなら、私があなたを刺し殺します。そうなる前に、私を刺しなさい。早く!」

 ベラム教授は煉瓦敷きに両膝を着くと、胸元の素肌を晒した。

 子供の目は潤みながら、差し出された小刀を見詰めている。

「何言ってんだよ!」

 アルスは叫んだ。

「こんな子供にそんな選択できるわけない!」

 彼は自身の幼少期を思い浮かべていた。どちらを選んだとしても、そこに大した考えなどないのだ。子供の思考に後先などない。

「刃物を他人に向けるというのはそういうことなのです。子供かどうかなんて関係なくなるんです」

 ベラム教授も声を張りあげる。

「あなたが自分と私の今後を決められるんです。あなたの愛しい父親はそうやって選び取り、選び取った結果、私に討ち取られました。私を刺すのなら、どうぞ、一撃で息の根を止めることです。助かってしまっては、私はあなたを危険因子だと判断し、消さなければなりませんから……」

 アルスは草臥れた中年男を凝らしていた。項垂れ、裁きを待っている。

「オレはそうは思いません!」

 彼はベラム教授の前に立ってしまった。子供が小刀を毟り取るのとほぼ同時だった。

「お前等のせいだ! お前等がぜんぶ悪いんだ! お前等がっ!」

 しかしアルスは、セルーティア氏のことを思い出した。咄嗟に氏に躍りかかった。小柄な体躯を煉瓦敷きに押し倒す。骨張った肉感を覚えた直後、天空に衝撃波が轟く。火花が散り、消えていく。人に当たれば、塵も遺さないだろう。

 頭上の爆撃に怯み、氏の上に伏せっていると、絶叫が耳とつんざいた。

 子供の腕が振り子よろしく肩からぶら下がっている。関節の可動域を越え、揺れている。

「強くなったらまた来なさい。自分で探し出すのよ。それが復讐というものだから。弱いやつにはこれで十分」

 リスティは氏の上で伏せたままのアルスの肩を叩いた。彼は戦慄した。跳びあがり、肩を押さえた。

「ひぇっ……」

「あなたのは外さないわよ」

「よ、よかった……」

「何よ、人を化け物みたいに」

 彼女は引き攣った笑みを浮かべるアルスを肘で打つと、子供を一瞥する。

「骨を砕かなかったのは、あなたがまだ何も知らない、まだなんにも決められない子供だから。分かった? 分かったなら去りなさい」

 彼女が凄んだとき、彼女の額に小石が飛んだ。

 子供に乱暴するなんて、なんて奴等だ!

 気付くと、人集ひとだかりができていた。

 投げられた石がアルスの眉の辺りに迫る。眼前が閃いた。石は彼の皮膚を掠めることなく、砂と化した。

 セルーティア氏が背を向け、アルスの前に立っている。リスティは片手で血の流れ出ている傷を押さえながら、氏をアルスのほうへ押しやった。

「市長、落ち着いて」

「セルさんに当たります」

 アルスは自身よりも金魚鉢が気になった。ベラム教授と店主を振り返る。

「色々ありがとうございました! じゃ、また会う日まで!」

 おそらく会うことはないのだろう。会う必要性がない。しかし社交辞令というものがある。身に沁みた社会性が彼の口を回す。早口に捲くしたて、セルーティア氏の細腕を引っ手繰たくる。街の出口は目と鼻の先、直進したところにある。金魚鉢を抱え直すと、全力で駆け抜けていく。

 門を出て、まだ暫く走った。小川を見つけ、立ち止まる。

「ろくなことがない!」

 疲れごと吹き飛ばすつもりで叫んだ。そして氏を放す。目も合わさなかった。それよりもアルスは金魚鉢を覗いた。彼の袖は濡れていた。溢している。

 眉目秀麗な幼馴染が、まだ落ち着かない波に揺れている。聡明だの小賢しいだの様々に言われていた王子とはとても似ても似つかない間抜けな面構えを、アルスは長いこと見ていられなかった。

「なんだよ、ろくなことって……」

 この緋鮒が無事であることくらいか。

「自問自答してどうしたの?」

 リスティは顔の片方を手で覆っていた。赤く染まっているのが見えたが、平然としている。

「ああ、リスティ。手当てしなきゃ……」

 けれども手当ての道具を彼は持ち合わせていなかった。

「僕がします」

 先程の殺意はどこへやら、氏は平生へいぜいの泰然とした調子でいる。 

「セルーティア先生、どういうつもりなんです」

 氏はリスティの額の傷へ掌を翳す。

「"どういうつもり"とは、何を訊いているのでしょうか。今後の予定についてですか」

「違います。相手は子供ですよ」

 言ってしまってから、彼は王都の一般的良識というものが通用しない相手であることを思い出した。

 王都では、子は宝であり、俗欲を解さない清潔な生き物とされていた。同時に信用のならない存在でもあった。それゆえに重罪は避けられたし、重要な契約に於いては保護者の同意なしでは無効の扱いだった。ロレンツァでは違うというのか。物の|理<ことわり》、世のことわりを悟った一人前の社会構成員と見做しているというのか。

「子供でも刃物を持たせれば危険因子です。セルさんもまた、刃物を前にすれば命の危機に瀕する肉体構造の持主です。そしてセルさんは今や国の存続に関わる人物です」

 鏡のような隻眼に自分が映っている。アルスは目を逸らした。

「あんな、街ごと爆破するような力じゃなくたって……」

 氏には力加減ができたはずなのだ。その手には杖もあったはずだ。

「一撃で仕留めなければ二撃目の可能性があります。二撃目でセルさんが絶命する可能性があるのなら、一撃目で仕留めなければなりませんでした。そしてまだ未成熟の子供といえども害意を示された以上、手加減するわけにはいきませんでした」

 おそらく氏の言い分は、アルスが幼少期に聞いた兵の話を合致していた。王族を狙った者は容赦なく斬り捨てるよう、指示があった。

 氏が掌を下ろす。傷の塞がったリスティは、アルスの肩を叩いた。

「公僕なんてそんなもんよ」

 彼は呆気にとられた。

「公僕って……」

 だが彼女は弁解もしなかった。

 南東に港町がある。予定ではテュンバロで馬車の手配をするつもりでいたが、今更引き返すわけにもいかない。話し合いの結果、近くの港町から船でロレンツァへ向かい、船を乗り換え王都へ向かうことになった。

 港町ギターレまでの道は丘陵が広がり、背の高い風車が建ち並んでいた。穏やかな風景に宥められているようだった。前を歩く、小柄な青髪の巻き毛は正しい。公のために働き、国に忠を尽くす者を責めるのは筋違いだ。

 言い聞かせる。言い聞かせるが、腹が立っていく。

 汽笛が鳴る。南方に広がる海を向いた。視界の果てに白い船がひとつ浮いている。しかし汽笛を鳴らしたのは、その白い船ではないようだ。

「あの船……」

 海風が呟きを彼へ届けた。

「何か言った?」

 セルーティア氏の声でも喋り方でもなかった。

「ううん。何でもないわ」

 しかしリスティの言葉を聞くやいなや、氏が立ち止まる。小柄な後姿にぶつかる。眩耀げんようを宿した片目が大海原を射している。

 アルスも海を見たが、見るものなど船しかない。隣にリスティが立つ。固唾を呑む声が聞こえた。彼女も船を凝らしていた。彼はもう一度、船を見詰めた。

「え……?」

 目を擦る。船が傾いているように見えた。

 セルーティア氏はリスティを振り向く。2人は目を見合わせていた。そして氏のほうは足取りを速めて港町へ向かっていった。アルスは追った。その後ろをリスティがついてくる。

 丘を下り、港町ギターレに辿り着く。セルーティア氏は何か思うところがあって焦っているに違いない。今すぐにも王都へ帰り、緋鮒を王子に戻るつもりでいるのだ。そうに決まっていた。まずやることは乗船の申し込みをすることなのだ。

 町の中は騒々しかった。大通りに出ている町民たちは一斉に海を見ていた。時折、汽笛が鳴っている。通り過ぎていく会話は陰気だった。内容は聞こえていなかった。けれども耳が拾っていく語気や、視界の端に入る表情がどれも重苦しい。

 海で何かあったようだ。地元民に問うてみたかったが、セルーティア氏は連れ2人のことなど気にも留めず、先へ先へと進んでいってしまう。小柄がゆえにそう長くはないであろう脚はそこまで速く進めるのかというほど回転している。

 海に近付くにつれ、通行人が多い。浜辺に続く遊歩道には人混みができていた。皆がみな、一斉に海を見ている。アルスも人集りに紛れ、浜辺へ近付いた。小舟が一艘浮かび、桟橋から発つ船を妨害している。汽笛が鳴っていたのは、この小舟のためだろう。乗組員はいなかった。櫂が浮き沈みしている。

 浜辺から嗄れた大声が聞こえた。アルスは小舟から目を放す。大声の主を探して練り歩く。さざなみの中に1人佇む人物がいる。濡れた身形から察するに、この者が小舟を乗り捨てたようだ。

 何かを訴えている。耳をそばだてる。けれども入ってくるのは、周りを囲む野次馬の威勢ばかりだった。罵詈雑言に掻き消された叫びは、アルスには届かなかった。

 

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