第7話
この部屋は訳があって安価だったとはリスティが言っていた。値引きされただけの理由について、この夜は何も起こらなかったのか?いいや、起こった。それは夜だった。異地の様式に倣って、藺草の床板に寝具を敷き、横になる。
「これ、背中痛くならない?」
少し間を空けて同じようにして寝ているリスティに彼は訊ねた。
「財布よりは痛くならないんじゃない?」
その返答に彼は唸る。
「ベッドで寝たら?」
異文化に興味があったのだ。しかし布のさらに下に硬さを感じる。それが窮屈だった。
「大丈夫。ここにする。初めてだし、気になるから」
「ああ、そう」
彼女は冷淡だった。そしてすぐに寝入って様子だった。反対にアルスはなかなか寝つけなかった。心も身体も疲れきっているはずだ。しかし……
点けておいたままの間接照明が急に弱くなった。一瞬、消えたのかとさえ思った。彼はそのとき、まったくこの部屋が安上がりであることを忘れていたし、先程のリスティの言い回しについても軽く受け流していた。
ふと気配を感じた。上下にある寝具の狭間から這い出て、横棚奥の居間のほうを見た。卓の脇に何者かがこちらに背を向けて立っている。アルスはわざと物音をたててみた。しかし振り返ることもなく
物盗りかと身構える。厄介だった。寝つけはしないが疲れているのは事実。今度は音を殺して近付く。その人物は何かを漁っている様子はなかった。それどころかまったく身動きなどとっていない。不自然なほど微動だにしなかった。ただただ静かに
アルスはあの者をどう捕縛するか想像する。そして型が決まる。この点に関して、彼はよく仕込まれていた。王子の成り代わりとして保身の術、或いは一側近として潜めば本物の王子の警護も必要になる立場にあった。普段は剽軽者を装ったふうな柔和な目付きが、獲物に狙いを定めた野生動物のように爛々と危うげな光を灯す。
しかし彼に教えられたのは一撃必殺である。つまり物盗りを相手にするのなら加減が要る。そしてその加減を彼は知らなかった。自覚はある。苦手意識が働くと、途端に弱くなる。
距離を詰める足取りが鈍った。さらにはこのとき、後方で眠っているリスティが寝返りをうった。立ち尽くしていた人物がやっと振り返る。アルスは接近をやめた。後退る。
侵入者は彼を真正面に捉えた。渋い色味の長い丈の外套を身に纏った髭面の男で、しかしまだ若いように見えた。首の辺りがじっとりと濡れ、双眸は虚ろ。直感がアルスに告げた。生きた人間ではないと。その者は物盗りではない。だが生きた人間でもない。色の悪い唇が開いた。真っ暗な空洞の中に歯や舌は認められなかった。この者は口周りすらも首元同様に濡らしていた。赤黒く。
アルスは立ち竦んでしまった。動くことも忘れてしまった。動くという選択肢があることも忘れてしまったのだ。
物盗りと思われた者はアルスのほうへ手を出した。黒いリボンが乗せられている。それは女物のように思われた。アルスに差し出そうとはするけれど、当の受け取り手が硬直したままでいた。だが、物盗りと思われたがそうでない人物は、彼のその様子に構うこともない。ただひたすらに渡そうとするのだった。やがて、その掌からリボンが落ちる。花が枯れたときのように床へと叩きつけられる。
アルスの気が、落下物へと逸れた。ほんのわずかな時間。すでに物盗りを疑われていた者は消えていた。周辺を見渡せど見つからない。彼は足元のリボンを何気なく拾ってしまった。だが気味が悪くなってしまった。寒気がした。しかし王都育ちの彼は行儀が良いのだった。拾ってしまったそれをもう一度床に落としておくということができなかった。花瓶に一輪、花の挿してあるのが置いてある卓に託す。そして寝具に逃げ込んだ。リスティは隣でよく眠っているようだった。
慣れない文化であったが、一度寝入ってしまえば睡眠は深かった。軽快に起きられないほど。叩き起こされる。アルスは寝具から転がり落とされながら肩凝りや首凝りを悟った。
「船出るらしいわよ、アルスくん」
眠気に抗いきれず、彼は
「アルスくん、置いていくからね」
揺り起こす手が却って心地良かった。余計に眠りを助長する。
「アルスくん?その黒い布切れ、忘れないでね。多分絶対忘れると思うけど」
黒い布きれ。リボンだ。彼はすぐにぴんときて、強く反応を示した。枯草の編まれた床材を転がっていたところを跳び起きる。夢のようで、夢ではなかった出来事が急に生々しく目の前で甦った。首の辺りを、赤い果物を引き千切ったみたいにぐずぐずにした髭面の若い男が、まだ近くにいるような気がした。
「待って、リスティ。ちょっと、待って……」
彼は怖くなった。すでに出ていこうとしているリスティを呼び止め、急いで身支度をする。
「アルスくん?だからあの黒いの……」
彼は忘れたのであろうか?いいや、卓の上のそれについて、敢えて回収しようとはしなかった。だがリスティという女は気が利くのだった。
「このリボンって……アルスくんの?」
仕方がないとばかりに彼女はその故意的な忘れ物を手にした。アルスは咄嗟に彼女の手の上の物を打ち払いたくなったが堪えた。彼女は意外にも、それをまじまじと眺めていた。
「違うけど」
「じゃあ、誰の?」
「前に泊まった人のじゃない?」
リスティは首を傾げた。
「こんなの、あった?」
「夜に見つけて、そこに置いておいたんだよ。どうして?」
「結構、昔のものじゃない?戦争とかあった頃の」
「戦争?」
今度はアルスが首を傾げる番だった。しかし相手は眉根を寄せ、呆れている。
「アルスくんってもしかして王都生まれ王都育ちだったりする?」
「生まれは分からないけど育ちはそう」
彼はたじろいだ。いくらか批難と軽侮の色を読み取ってしまった。
「王都の人って、ちょっと教育が特殊よね」
「そうかな」
「戦争のこと教わらないらしいじゃない。そうよね。気拙いものね」
しかしそうだった。アルスはリスティのいう「戦争」について知らなかった。物語に出てくる悲惨なものということしか知らないのである。
「昔いっぱい国があったのを、ぜんぶフェメスタリアにした統一戦争っていうのがあったの。知らない?海向こうとか、山向こうとか、昔はフェメスタリアなんて国じゃなかった」
「昔いっぱい国があったっていうのは知ってる」
「じゃあ、そういうこと」
彼女はそれ以上話すつもりはないらしかった。アルスはそれなりの教育を受けてきたつもりでいた。あまり優秀な成績を修められはしなかったけれど、城の定めた教育課程である。しかし王都の外に出た途端、世間知らず扱いをされるような教育だったのである。生まれと育ちについて以外にも世間とのずれを感じた。彼は嫌になってしまった。リスティのことも嫌になってしまった。
「戦争で配偶者が亡くなったときに配られるやつよ、これ」
彼女は臍を曲げたアルスに気付くこともなく、黒いリボンを返した。
「でもあなたのじゃないなら、帳場へ持っていきましょう」
そのあとの彼はリスティについていくのみだった。帳場の店主は渡されたリボンを
アルスは店主の手に渡ったリボンをリスティの後ろから見詰めていた。あれが国のために死んだ者へ配られる品だとしたら……国のために死んだ、言い換えれば国の所為で死んだ。当の本人か或いは遺族か、国つまりは象徴となる王城に恨みを募らせるのはそう不自然な成り行きではない。昨日の城の襲撃と何か関係しているのではあるまいか。彼ははたと目を見開いた。そして前にいるリスティを押し退けた。
「すみません、オレの思い違いでした。これはオレのです」
「え?」
店主よりも先にリスティが驚いた。店主のほうは特にどうという反応もなかった。ただ彼へ、例の品を返すだけだった。
「ちょっと、アルスくん?」
「
しかし何故、故郷の友人は戦争寡の証明など彼に持たせるのか。
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