第6話
「注意をひいて」
アルスは弾くように撥ねられて尻を地面につけていた。そこは濡れていたが、雨にうたれていた身体では今更のことだった。リスティは振り向いて、虚空に掌を構えた。白い光が集まり、そこに現れる剣を投げた。それを腰を上げる力を使って宙で受け取った。
「桟橋があるから。わたしが誘導するわ」
伸びてくる触腕を、彼女は手で打ち払った。そして魔火玉を
「走って!」
アルスは剣を握ると、すぐ近くの桟橋へ急いだ。その間、巨大海洋生物は空中に描かれた魔法円環から降り注ぐ火の粉によって焼かれていた。そしてリスティもまた敵の意識を自身に向けさせながら桟橋のほうへやってくる。海が荒れ、
アルスは巨大イカが十分に近付くと、桟橋を蹴って斬りかかった。そして柔らかな躯体をまた蹴って戻る。
怪物は弱ってきているようだった。リスティは空中に描いた魔法円環から火の雨を降らせていたが、それが雷撃へと変わり、討ち倒すにはもう少しといったところだ。
剣を構える。素手だった掌には肉刺ができ、薄皮が剥けている箇所もある。慣れない柄であったし、巻かれた布の地合いはまだ新しく、固い。
次で決めなければならない気がした。海水をかぶり、色を変えた木板を爪先で蹴る。柔らかな躰へ白刃を振り落とすのと、彼の胴体へ触腕が伸びるのはほぼ同時だった。しかし、ややアルスのほうが速かった。巨大怪物に魔術によるこれまた巨大な氷塊が落ち、それが決めてだったらしい。妖海物は昏い海に沈んでいく。そして海側へ薙ぎ払われたアルスも藻屑と化すらしかった。
「ありえない!」
感情を昂らせた女の金切り声が聞こえるのと、彼が激しく揺れる水面へ消えていくのはほぼ同時だった。
リスティは頭を抱えたが、直後にゆとりのある上着を脱ぎ捨て、海へと飛び込む。
彼の寝泊まりする邸宅は確かに無事であった。だが広義での「家」については崩落してしまった。幼馴染は傷を負い、信じられないことに亡友が生きていた。そしてそれは喜ぶべきことか否かも判断できずにいた。王子は何故仮死状態へ陥ってしまったのか。この疑惑のために。
考える間も与えられず、次にはすでにやることが差し迫っている。王子に成り代われという一言が彼の耳にはこびりついていた。何不自由なく不平と不満ばかりの平穏と退屈な日々から脱却しなければならないのだろうか。あれは飽き飽きとして幸福だったというのに。
おそらくこれらの混乱、戸惑いが悲しみの正体に違いなかった。理由をつけるとするのなら、それしかないのである。
感情の自覚とともに彼は咳き込んだ。
「世話が焼けるわね」
肺から水気を排することに満足すると、アルスは現状を思い出した。
「ごめん。あと、」
「いいわ。どうせ安物だし」
リスティは彼の言葉を引き取った。剣は広大な海へ、あてのない旅へと出ていってしまった。
「でも、大切なものだったんじゃ……」
「あら、そんなことを言って、あれが100万ガルンするって言ったら弁償してくれるの?」
アルスは彼女を見遣り、視線が
「ごめん」
「出世払いで赦してあげる。育ちいいでしょ、あなた。見る目はあるのよ、あたし」
「そんなことないよ……でも、返済するつもりは少しだけ、ある」
「いいわ。手伝ってくれたし。嬉しかったわよ、心配して駆けつけてきてくれたんでしょう?」
海水を含んだ布を絞りながら、彼女は悪戯っぽく笑った。アルスはふと、腿にあたる異物感に気付き、衣嚢へ手をやる。
「りんごでいい?王都産のだから、美味しくないのは申し訳ないけど、とりあえずのところは」
「ふぅん。これがそのうち金のりんごに成ることを祈って……ね」
彼女はりんごを受け取った。この果物を買ったのが遠く昔に思えた。どうにかあの瞬間まで戻れないものだろうか。あの瞬間からどうにかすれば、或いは今のようなことにはなっていなかったのではなかろうか。そんな考えが彼の脳裏を掠めていた。
「このままじゃ結局泊まるしかないわよ。武器も持ってないんでしょう?徒歩っていったって、夜じゃ魔物が危ないわ」
悪天候であることを差し引いても空はすでに暗くなってきていた。
「ロレンツァは遠いなぁ」
その嘆息を彼女は気にかけた。いくらかしかつめらしい顔をする。
「でも、セルーティア市長なら、着いたらすぐ見つかると思うわ。診療所まで、わたしが案内してもいいし」
「ありがとう。慰めてくれてるんだ?」
「そうしてほしかったんじゃないのかしら」
彼はけろりとして、人を喰ったような愛想笑いをみせる。リスティは背を向けてしまった。
アルスは彼女から宿を紹介されて面食らった。
「君の連れって恋人か、旦那さんなんじゃないの」
「……そうだけど?」
「いいの?」
寝台の2つ並んだ部屋は値段の割りに広かった。王都から近いために、人の出入りはそれなりに多かろう。しかしそれにしては安価だった。
「この部屋だと安いんだけど、2人部屋なの」
「どうして?」
「訳ありの部屋だからに決まってるじゃない」
遠方の異都で使われている枯草を編んだ床材が南側の一間に敷かれていた。これは宿の店主の趣味らしい。
「あなたは?困る人がいるの?後ろめたく思う人が?」
彼女は訊ねながら、草の編まれた床の上では靴を脱いだ。そうするものらしい。そして窓を開ける。彼女に倣って靴を脱ぎ、アルスも風変わりな床を踏む。
「湯でも浴びてきたら」
人工クリスタルというのは画期的な代物だった。生活に必要な資源すらも容易に生み出すことができるのだから、人々の暮らしは快適で豊かになったものだ。
「君が先に入ったほうがいい」
「そう?覗かないでね。高くつくわよ」
「そんなことしない」
「ふぅん。いい子。あと、さっきの問いの訂正だけど、連れは旦那じゃないし、あなたにはそういう子がいるように見えた。なんとなく。でも平気よ。平気でしょう?」
彼女はアルスのほうを振り向くこともなく、勝手なことを言って浴室へと入っていった。
アルスは窓から天気の悪い外を見ていた。水平線が望める。だがロレンツァとは反対方向である。ロレンツァは比較的王都からは近い都市であるけれど、今ほど遠く感じられたことはなかった。そして今日ほど1日が長く感じられたことも。
彼は死んだと思い込んでいた旧友から渡された紙片を所在なく眺めた。意味のあるものなのだろうか。濡れていたが記されていた絵は海水に滲むことなく刻まれている。それが魔術による筆記法なのだろう。ただの覚書のような絵であった。魚に突き刺さるのは角張りを帯びた柱のようである。その上に被さるような、乗っているような球体になりきらぬ球体が描いてあった。魚に突き刺さった柱のようなものと球体か円形と思しきものとの接した部分には斜線が並んでいる。らくがきに思えないこともなかった。だがらくがきだろう。このような魚を、彼は図録でも見たことがない。聞いたこともない。城には各地の珍品が持ってこられるけれど、このような魚も絵もやはり覚えがない。
浴室の扉が開いた。髪を拭きながらリスティが出てくる。
「出たわよ」
「ああ……うん」
「何それ?恋文?」
「違う。多分。友達の……手紙?暗号化も」
「怪文書ってこと?」
アルスは彼女に紙片を見せた。奇妙な絵だと嗤われるものと思っていた。
「どこかで見た」
「え?知ってるの?」
「どこだったかしら。壁の絵だったような。こんな魚はいるわけないって話したの。寄生虫のいる魚なんじゃないかって。そんな話をした覚えがあって……ああ、診療所だわ。ロレンツァの。あなたの探してる、セルーティア市長の」
彼は呆気にとられた。そしてそこに必然性を見出さずにはいられなかった。ロレンツァに行かなければならないのはリーザの意思でもあるのではないか。
「ありがとう。助かった」
だとすれば、まだリーザについて希望が抱ける。城の崩落も王子の仮死状態についても、何か誤解があるに違いない。
リスティは声を上擦らせたアルスに怪訝な様子をみせた。
「多分よ、多分……」
そして彼は浮つきながら浴室へと入っていった。
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