第4話
「アルスか。ちょうどいい」
ガーゴン大臣は莫迦息子無事の帰還だというのに居間のほうへ促そうとはしなかった。そしてその渋面に「ちょうどいい」などという感じはない。この小生意気な倅の帰還に安心したのは本当のようだった。だが同時に不都合でもあるようだった。
「よかった。ランタナ師匠に探してるかもって言われて来たんですけど」
「そうだ。お前に大切な話がある。国を左右するほどの、大切な話が」
この老臣は、色の浅黒く、痩身だが壁のような人物であった。鷲のような風貌で、若輩の頃より奸智によってここまで登り詰めたのがよく分かる陰鬱とした空気感を纏わせている。だが父を知らないアルスにとってはこの者が父親だった。
「そんな大事な話、オレにしちゃっていいんですか?」
この大臣におどけられるのもアルスくらいなものだろう。妻は淑やかだが生真面目な気質だった。
「お前にしかできぬことよ」
「オレ、やることあるんですよ。ロレンツァに行きます」
「誰から聞いた?」
食い気味に問われ、アルスは
「ランタナ師匠ですが……」
ガーゴン大臣は険しい顔をさらに険しく厳つくした。
「ロレンツァにいるお医者さんなら、レーラを治せるのでしょう?」
これはさらに幼少の頃から父代わりだった男を心配させる。
「治せる?治せるとはどういうことだ」
「ランタナ師匠から聞いたのです。ロレンツァの
また溜息だ。そこにあるのは呆れである。ガーゴン大臣は眉根を摘みはじめ、思い悩んでいる様子である。アルスはまるで異常者のような扱いを受けている気分になった。彼は比較的無鉄砲で無謀、わんぱくでやんちゃな子供ではなかったし、その時期も疾うに過ぎている。
「ランタナ女史が、本当にそう言ったのだな?」
「そうですけど……一体どうしたっていうんです」
わずかな沈黙があった。ガーゴン大臣は尻込みしている。眼差しは依然として厳しく、見定めるような視線をくれた。アルスは何か言ってやりたくなったが堪えた。
「アルスよ、よく聞け。王子は行方不明だ。生存は絶望的と言ってもいい。あの炎は自然のものじゃない。魔火だ。捜索をするにも犠牲が伴うだろう。あまりにも強力なのだ。すぐには消せん」
アルスも眉を顰めた。行方ならば知れている。ランタナ師匠が命辛々、仮死状態といえども肉体だけは運び出したと話していたではないか。すべてが解決したとき、その点についてランタナ師匠は労われなければならない。適当な褒賞を受けるべきことだ。たとえ擬似的な親子のような親密な二者であろうと、秘して建前を並べておかなければならない事柄なのであろうか。時折、城での会話にはこういう駆け引きが存在する。実利がないように思えるが、それが保身術であり処世術であるらしい。
「ロレンツァへ行きますよ、オレは」
「アルス」
厳父の叱責めいていた、と思うには彼は親というものを知らなかったけれど、街中で目に、耳にすることはある。
「ロレンツァに行くのなら、是非そうしてもらいたい。だが王子は行方不明なのだ。治すも治さないもないのだ。お前の目的はそうではない」
「目的がそうじゃない?それじゃあどんな目的で、ロレンツァに行ってほしいって言うんです」
頑固親仁は一歩踏み込んだ。そしてアルスの耳元に口を寄せる。
「運が拓けたぞ」
「は?」
「アルスよ、お前が王子に成り代われ」
彼はそれを聞いて立ち尽くす。アルス・セルの本業であり、存在意義こそ、まさに王子に成り代わることだった。そのためだけに、親のない、生まれも分からぬ、しがない孤児が城に住まわされ、何の不自由もなく遊んで暮らすことができたのだ。
「正気ですか」
「それしかあるまい。王位継承の儀はまだだった。国民たちにとって、フェメスタリアの次期王はお前だったし、私たちにとっては今日からお前になる。それだけのことよ」
とはいえアルスにはひとつ、王族に成り代わるには大きな欠点がある。それはガーゴン大臣も承知のことで、城に勤めてはいたが城の所属ではない部外者のランタナ師匠までも知っていることだった。
「正気ですか」
「それしかあるまい。王子がいなければ、王も尽きる。やがて均衡を崩す」
「オレはロレンツァに行きますよ。観光にね」
彼は憎まれ口を叩いた。ロレンツァは白色と金色を基調とした美しい景観の水上都市で観光地として有名だった。
「アルス。ランタナ女史とお前の間にどのようなやり取りがあったかは知らないが、お前が率先してロレンツァに行くというのはありがたいことだ。同時に、孤児のお前が成り上がる絶好の機会でもある。飼い殺しだの、野良狗だのと後ろ指をさされた輩を見返したいと思わないのか。お前はおそらく王子に成り代わることになるだろう。私がそのように運ぶ。だがアルス。何故お前はこの機を嫌がる?」
「いやだな、ガーゴンさん。そのために今までオレのこと可愛がってくれてたんですか?器じゃないんですよ。それに……オレ、意外とレーラと仲良いんですよ?」
頑固親仁相手に、彼はまたおどけた笑みを浮かべる。
「お前の意向は分かった。分かっただけだ。人は
「代役として適任じゃないですか」
気の利いた返しをしたつもりだったが、ガーゴン大臣の渋面は変わらない。
「ちなみに、犯人てもう分かっているんですか」
故人の名が返ってくるのを待っていたのか、いなかったのか、それは彼自身分からなかった。セレンは姿を見ていた。目撃者は多数いるのではあるまいか。ガーゴン大臣はその者を知っている。身体的特徴を挙げられれば特定はそう難しくない。
「断定できる段階にない。不明瞭な発言は秩序を乱す」
誤れば私刑も起こりかねない。義憤は何にも勝る娯楽であり、正義の行使は何にも勝る権力であった。王都とはそういうところである。
「そうですね。ではオレはロレンツァに行ってきます。セレンを頼みます。怪我をしているようですから」
アルスは踵を返そうとした。だが慌てたように視界の端で頑固親仁がふためいた。
「ロレンツァへはどう行くつもりだ」
「徒歩で行こうかと」
「船で行け」
王都のさらに北側に海がある。高く構えられた要塞によって海を臨むことはできないが、王都は海から近い。
「“次期王”に何かあっては大変だ。だがくれぐれも内密に」
ガーゴン大臣は小さな木の板を小倅の肩へ押し付けた。それが城の遣いという証明になる。それは文字通り押し付けであった。有無を言わせず、受け取り拒否の隙も与えず、話は終わったとばかりに大臣も踵を返し、明りの点いている居間へ戻っていった。丁重に見送る、見送られるという関係でも今更ない。
アルスは小さな木板を握り、外へと出た。
彼は城前広場に戻ることにした。幼馴染を預けた天幕に入る。自然公園の澄んだ浅瀬を思わせる双眸は瞬時にアルスの姿を認める。看護師長は他の負傷者の手当をしていた。
「アルス、おかえりなさい。忘れ物は見つかった?」
「うん。セレンは調子どう?」
「痛み止めを飲ませてもらったし、傷も手当してもらったから、もう平気」
肉体についてはそうかも知れない。大きな怪我ではあるが、重傷ではなさそうだった。四肢は無事なのだ。だが翼の片方が
「もう家に帰ったほうがいいね。送ろうか」
「大丈夫。もう少し、様子を看ていないといけないらしくて」
「そう。じゃあ、安静にね。オレはちょっとまた出ないとだから」
ロレンツァに行くことを彼は伏せた。彼女もついてきたがるだろう。それはおそらく観光のためではなく、事の発端としての責任感がゆえに。この幼馴染にはそういうところがある。彼女は負傷者だ。そして身体の一部を失っている。心身の休養が必要なのだ。三首狗だの闇禿鷲だの八つ又蛇だの影口を叩かれて恐れられるガーゴン大臣でさえも、アルスからみて疲労困憊の有様だった。
幼馴染をみて、彼は天幕をあとにした。心労の絶えない老父の顔を立て、徒歩ではなく船を選んだ。王都、そして今は瓦礫の山を化した城が背を向ける小さな港町を目指す。
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