せかいで一番ナツいアツ

なしごれん

第一回

「セックスをするのはこういう日に限るね。初めて来た店のカウンターでゆっくりカクテル呑んでたら、たまたま隣りに居合わせた中国人が敵のチームで、気づいた頃にはもう手遅れ。みんな取っ掛かり始めちゃってね。うん。でもこういうのってなんだか新鮮だなぁ。俺はもう長いこと人なんて殴っていなかったから、下顎骨が軋んで拳にめり込んでいくあの感覚っていうのが、子供の頃嫌いな奴のオモチャを壊していくのと似ていて楽しいんだよ」



店員が僕を睨んでいる。話しているのは目の前のこいつなのに。店員は僕と目が合うと決まずそうな顔をして、焦げ茶色の帽子を被りなおすと、反対の配膳卓へと歩いていった。



「それからどうしたんだよ」



「どうもこうもないって。みんな血だらけだよ。まあ夜中の一時だったし、場所も裏酒場だったから、なんとかイセザキには見つからなくて済んだけど、それでもアイツらの管轄が狭まるまでこっちはじっとしておかなくちゃいけないんだ」



「それは白我組に言われたことなのか?」



「ああそうだ。リーさんがこっちからは手を出すなって言ってね。でも今日のはさすがに暴れすぎたな。沙汰になってもおかしくなかったね」



カビゴンは牛丼特盛と叫んだ。また食うのかこいつは。店員は「はい」と元気よく答えたが、目は怯えているようで、網膜がくるくると回っているように思えた。



「スズキは何してたんだよ。お前もカビゴンと一緒だったのか?」



「いや、俺は横浜にいたんだ。『漢民』って西口のゲーセンが閉店するから、友達と最後を見届けてたんだよ。それでいつものゲームバーで飲んでたら、カビゴンから電話がかかってきて、すぐに阪東橋へ来てくれって。あんまり息が切れてるもんだから、俺てっきりやられたのかと思って、すぐタク呼んでこっちに来てみたら、豚みたいにピンピンしてるんだ。俺の心配返してくれよ」



左目が少し中央に寄っているスズキは、笑うとその瞳が上を向くようになるので、初対面の人には怖がられる。長年見てきた僕だって、久々に眺めると異様だと思うのだから、他人からすればなおさらだ。



「悪かったよ。でもなぁ、あんときは本当に死ぬかと思ったんだぜ。何せ見知らぬ中国人のグループが、半狂乱になって俺たちのこと追ってくるんだ。先に信号渡って振り返ったら、あいつら二手にわかれて囲むようにしてきたんだ。そんなのもう無理じゃん。俺だって手は出したくなかったよ」



カビゴンはそう言って右腕を掲げた。皮膚にへばり付いた赤黒い血痕が、固まって電球に光っていた。



「何対何?」



「向こうが六、俺たちが三」



「三って言うと、翔希と優成か?」



「いや、優成は彼女とデートだからって、昨日から大阪に行ってるんだ。もう一人は竹田って言う後輩だ」



「噂のリー先輩のやつか?」



「ああそうだ。俺たちの二つ下。中華学院の三年でちょっとバカなやつなんだけど、これがまた相当のツワモノで、俺が一匹殴って周り見たら、アイツいっぺんに五人とやり合ってるんだぜ。隣にいた翔希が加勢しに行った頃には、もうあらかた片付いていて、死んでんのか気絶してんのかわからん状態になってたんだ」



牛丼が運ばれてきた。特盛なのだから、丼ぶりが他のものよりもデカい。盛られた牛肉の山が零れるのは、中央に躊躇なくレンゲを差し込んで、底にある白米を掬うようにして持ち上げるから、両端のまだ肉しか見えない部分が取り残され、まるで地層の断面のように、肉、米、といったふうに丼ぶりに残る。レンゲに収まりきらない牛すじは上から順にこぼれてゆき、カビゴンの口に入るころには三分の一ほど量が減っている。



「殺してはないんだろう?」



「俺はやってねーよ。でも竹田が手加減したかは知らねーぞ。アイツは五人を相手にしたからなぁ。暗闇で誰を殴ったかなんてわかんないから、一人ぐらい脳挫傷になったやつがいてもおかしくはないね」



レンゲを持った手とは逆の手で、カビゴンは正拳突きのポーズを取る。

スズキはカビゴンの話に聞き飽きたのか、携帯で何かに見入っている。







僕は頬杖を突きながら二人と向かい合って座っている。カビゴンから突然電話で呼び出されたのだから、寝ぐせで側頭部の髪が跳ねている。ガラス窓に映し出された自分の顔は、ものすごく疲れているように見えるけど、深夜の牛丼屋を横切る者はいないので、暗闇の住宅街をバックに、ただ自分の悄然な顔がそこにあるだけだった。



牛丼を平らげたカビゴンが、卓上の紙箱から一本を抜き取り、それを口にくわえると、黙って僕の前にもう一本を置く。「いらない」とジェスチャーしてみせるが彼は微笑んで、隣のスズキに勧める。スズキは「ありがとう」とも言わずに自然にそれを口へ運ぶ。



「なしごはいつになったら吸うんだよ」



濁った油みたいな息を吐きながら、赤くなった先端を僕の方に向けてカビゴンが言う。



「吸わない。匂いが好きじゃないんだ」



「そんなこといって、身体に悪いとか寿命が縮まるとか。本が好きなヤツってのはほんとつまらないよなぁ。自分から世界を縮めちまってるんだぁ」



カビゴンは笑うとニンニクから二センチばかりの鼻毛が出る。それは中学時代から変わっていない、彼が彼である唯一の象徴めいたものだ。僕はその鼻毛が、上下左右に揺れて弛んでいるのを眺めては、太い鼻穴の底に、朱色のゴキブリみたいな闇が潜んでいるのではないかといつも思うのだ。



「僕は本が好きなんじゃなくて本が書きたいんだ。そのために読んでるって言っても過言じゃないね。上手く書くには山ほど読む。それしかないんだ」



「だったら好き勝手に書いてろよ。個人事業主ってのは日が当たらなかったら終わりなんだから」



「ああそうするつもりさ。飽きるまでね」



僕は声を出して笑った。視界の端にスズキの笑顔が見えた。



「なしご。もうすぐ誕生日だろ、なにが欲しい」



「お前らに欲しいモノ頼んで、その通りにくれたためしがないじゃないか。俺は欲しいモノは自分で買う」



「そうはいったってなぁ。今度のは特別だぞ」



「何てたってハタチなんだからなぁ」



いつのまにか二本目を口にしていたスズキが、店員にアイスコーヒーと叫ぶ。

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