2. Lilith
イルゼの一日は午前五時の起床から機械的に流れる。かつて厩だったものを倉庫にしたものを改装したもの、つまり寝食するにはあまりもお粗末な小屋がイルゼの家だ。窮屈で埃っぽい小屋の中に、花にも似た女の芳香が満ちている。アメリアはとろける紅茶色の赤毛をシーツに投げ出し眠っている。父の凶報が届く前、母と寄り添い眠った思い出が過り、胸が温かくも締め付けられた。
イルゼは音を殺して外に出た。二日続いた嵐が嘘のように、頭上には遥か遠く天色が広がっていた。イルゼは虫食いだらけのショールを肩にかけ直して、水道で桶に水を汲んで顔を洗い、小屋に戻って小さな薪ストーブの上で湯を沸かした。
司祭が信徒からもらったハーブティを飲み、硬くなったバケットに蜂蜜を少し垂らして齧っていると、アメリアが身を捩り呻いた。
「おはようございます、アメリア」
「起きるの、早……」
「昨日と同じ時間ですよ。嵐が明けたので司祭様がお越しになります」
「へえ、そりゃあ楽しみねえ」
大きく欠伸をして、ぐんと伸びをするアメリア。イルゼが貸したペチコートはつんつるてんで、彫刻じみて色味に欠け、均整の取れた四肢が惜しげもなく晒された。
「あの、司祭様には見つからないように、お願いします」
「お前は?」
「私はお仕事があるので」
お茶は好きに飲んでいいこと、パンは2切れまで食べて良いことをアメリアに伝えて、イルゼは小屋を出た。
礼拝堂の祭壇や調度品を拭き上げて回っていると、小一時間ほどで司祭が姿を現した。顎と口周りに灰色の髭を蓄えたこの初老は、薄暗い礼拝堂の中にイルゼを見つけると、片手を上げて挨拶をした。
「おはようございます、イルゼ」
「おはようございます、司祭様」
「嵐は大変でしたね。何事もありませんでしたか」
司祭がイルゼの小さな背中にぽんと手を添えた。イルゼはびくりと肩をすくめるのをどうにか堪えて声低く答えた。
「……いいえ、何も」
ふと視線を逸らした先で、聖母の彫像が物言いたげな憂いの眼差しをこちらに向けていた。イルゼはその目から顔を逸らし、司祭の指が背骨を掠める数秒が早く終わるようにと願った。
それから、イルゼは礼拝堂の掃除を終えると箒を持って通りに出た。
教会の正面からは、細く陰気なゲトライデ通りが川へと伸びている。嵐に置いていかれた風が通りをびゅうと駆け抜けていき、イルゼは顔をしかめて振り返った。教会は強風を物ともせずに鎮座している。蔦の這う重厚な石壁の奥からは、薄いはぐれ雲が風に乗って蒼穹を滑っていった。
束の間その空に見惚れるイルゼであったが、馬の蹄が石畳を叩く音で我に返った。邪魔そうに顔を顰める御者と、足踏みをする馬と目が合う。イルゼは顔を伏せ、石壁に沿うように道を空けた。
音楽の街ザルツブルクを観光に来た夫人たちが、こちらを見遣り哀れむように目を伏せつつも、一歩、二歩と距離を置いてその場を去った。子供の笑い声、それを嗜める親。一言も声をかけずに教会へと入っていく信徒たち。彼らの靴から跳ねた泥が、お古のワンピースに付着する。イルゼはそれを見ないように、石畳の隙間に入り込んだ枯れ葉や泥を箒の先で掻き出すことに専念した。
「お前は嫌われているんだね。こんなに健気なのに」
隅っこで雑草を毟っていると声をかけられ、イルゼは何時間ぶりかに顔を上げた。教会の時計は、もうじき正午を知らせようとしていた。
背を丸めて屈むイルゼの背後。アメリアがわざとらしく眉尻を下げて首を傾げていた。
「あの、あの、困ります。司祭様に……」
「大丈夫。それよりもさ」
イルゼが立ち上がると、アメリアが教会の石壁に肩を預けて物憂気な流し目でゲトライデ通りを見つめた。
「いつもこんな衆目に晒されているのね」
「皆さん、私を哀れんでいるだけです」
「それは少し違うよ。彼らは安心しているんだ」
アメリアの穏やかな声音がイルゼの胸を激しく揺さぶった。アメリアを見つめたまま動かないイルゼを、一対の翡翠がじっと捉えた。
「美しくうら若い乙女の、報われない献身を見てほくそ笑んでいるだけ。自分がお前じゃなくて良かったと、胸を撫で下ろしているだけさ」
「……」
イルゼが無言を返すと、アメリアはそっとその肩を撫でた。
「お前も気づいているんだろう。けれど、それなら尚更だ」
「何が……」
話が掴めずにぽかんとしていると、アメリアの表情が華やいだ。イルゼの背筋がぞわりと粟立つ。
遠く大聖堂から正午の鐘が鳴り響く。道ゆく人々がほんの一瞬足を止めた。
「お前も胸の空く思いの一つや二つ、してみたらいい」
次々と、大聖堂の鐘の音に続いて街の各地の鐘塔の歌声が重なり響く。その荘厳なコーラスに潜めて、アメリアがイルゼの耳元に唇を寄せて甘く囁いた。
***
「イルゼ、今日もご苦労様でした」
細い窓から斜陽が差し込む礼拝堂。一日の終わりにイルゼが祭壇を前に祈りを捧げていると、背後から司祭が労った。イルゼは振り返る前に、細く白い喉をごくりと上下し、ゆっくりと深呼吸した。
「さあ、一日の終わりに身を清めましょう」
司祭がイルゼの小さな肩を揉んだ。
「そして小屋で、主の御言葉のお話をして眠りにつきましょう」
百足が這うような囁きが少女の柔い耳の骨に触れた。イルゼはぎゅっと唇を噛む。真っ直ぐに下された小さな握り拳の中に、銀の棘がきらりと光った。
「痛っ!」
イルゼがその肩に置かれた右手に触れた途端、司祭が大袈裟に跳ねてイルゼから身を剥がした。彼は左手で右手を摩りながら、信じられないと言わんばかりにイルゼを凝視した。
「し、司祭様……」
イルゼは、自分がしでかしたことに怯えながら司祭と対峙した。先端が深紅に濡れた裁縫針を両手で握り、息を荒くしながら背を丸める。
「自分が何をしたのか、分かっているのか!」
司祭は憤怒に顔を歪めて詰め寄った。その怒号にたじろぎイルゼの瞳が揺れた。
「あ、わた、私は……」
「恩人に背くことは神に背くと言うことだ! 恥知らずの淫——」
「随分ご立派な御高説だこと」
凛としながらも甘ったるい声が、唾の混じった罵倒を打ち消した。
司祭の背後、正面扉の方から、アメリアが片手を腰に当てて首を傾けていた。細く差し込む強烈な斜陽が一糸纏わぬ女を照らす。イルゼは恐怖を忘れて息を呑んだ。
司祭は動揺に表情を引き攣らせ、音もなく歩み寄るアメリアを注視したまま動かない。
「こんにちは、いや、こんばんは?」
アメリアは司祭の隣に並ぶと、彼の右手を取ってイルゼに刺された手の甲にキスをした。
「或いはさようなら」
彼女の唇がそう紡ぐと、司祭がその場に崩れる。アメリアは一度、イルゼに目を向け悪戯っぽく口の端を吊り上げた。それから背を向け、浅く短い呼吸を繰り返す男に跨った。アメリアが首を垂れて覆いかぶさると、やがて彼の吐息が止まり、代わりにくぐもった呻き声が聞こえた。
「あ、アメリア……」
イルゼの背筋に冷たいものが走った。
夕日に負けず劣らず燃え輝くアメリアの髪が、彼女の背からずるりと流れ落ちる。ステンドグラスの色合いを映し出す白い背に、無数の蛇の紋様が蠢いていた。後退りをした表紙に、イルゼは踵を祭壇にぶつけた。
アメリアは司祭からゆっくり身体をどけると、血の気のない唇を拭った。
「神聖な教会に発情した豚は不相応だ。出ておいき」
すると司祭が不明瞭な何かを呟き、這い蹲って正面扉から飛び出して行った。
「彼に、何を」
「血も唾液も魂の一欠片。奪われ支配されないよう、お前も気をつけなさいな」
唇を撫でられて、イルゼはくすぐったくて肩を竦めた。
「貴女は……リリス?」
思わず尋ねると、彼女はきょとんとして、それから声を上げて笑った。
「聖書に登場した覚えはないな。けど悪い気はしない」
そしてアメリアは、陰り始めた日の光を背負い首を傾げてイルゼを覗き込んだ。
「気分はどうだい、イルゼ」
イルゼは黙って頬を綻ばせた。
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