シャーデンフロイデは舌の上

ニル

1. Ilse

 これは主の救い。私を救い給う嵐である。

 古都ザルツブルクを二つに分かつザルツァッハ川に横たわる、マカルト橋の真ん中。イルゼは鈍色の空を仰ぐ。小さな頭を覆っていた頭巾は、とうに乱暴な風に拐われた。代わりに、土砂降りにさらされたブルネットの髪が虚ろな表情を隠していた。強雨が、イルゼの頬を打っては、それを詫びるように肌をなぞり震えるローズの唇の隙間に入り込んでゆく。

 イルゼは目蓋を閉じた。告解室で繰り返し耳にした信徒の懺悔を反芻する。


 ——私は罪を犯しました。愛する女性を死なせてしまいました。あの日から何十年も、後悔に苛まれ続けています。どうか、どうかお赦し下さい。

 あの痩せ細った惨めな老爺が、司祭——みなしごイルゼの後見人——であったらどれほど爽快だろう。そんな夢想をしては生きる糧とすることにも、イルゼは疲れ果ててしまっていた。


 そんな不埒な考えを持つイルゼを、天声が閃光を伴い叱咤する。ごめんなさい。イルゼは心中で懺悔する。ごめんなさい。恩知らずな私を赦してください。ここから救い出してください。彼女は蜂蜜色の双眸を下ろし、救いを期待させる急流を臨んだ。

 荒れ狂う暴風に翻弄される吊り橋が、幾許もしないうちに己が運命を決めるだろう。

「ちょっとそこのお嬢さん」

 しかし、差し伸べられたのはその声だった。いつの間にか、数歩先に女の姿があった。彼女は袖や裾がぼろぼろに裂けた修道服に身を包み、翡翠の両目を柔らかく細めてイルゼの傍に寄った。

 頭巾の奥から垂れる一房の赤毛を薬指で撫で付けて仕舞い込み、女は冷え切ったイルゼの手を取り微笑した。

「あたしを助けてくれないかしら」



***

 女はアメリアと名乗った。

 イルゼは橋を降りるとゲトライデ通りを引き返し、アメリアを教会へと迎え入れた。

「リネンとお洋服はこちらを。お召替えは告解室をお使いください」

「ん、ありがとう。そんなことに使って、司祭様から叱られない?」

 と言いつつも、アメリアはキャビネットにも似た告解室の扉の奥に躊躇なく入った。その様子を見届けて、イルゼもまたもう片側の扉から告解室に入って着替えた。


「雨の日は、司祭様は膝が痛むのでお休みになられています」

「お前は?」

「……私は、教会の中庭の小屋に住まわせて頂いている、孤児です」

 板一枚を隔て、どちらのものとも言えぬ衣擦れの音を聞きながら着替えを済ませると、イルゼは告解室から出た。

 低く垂れる天井のせいか、細く狭いステンドグラスが外の光をまともに通さないせいか。礼拝堂はたとえ今日のような嵐でなくとも、いつも辛気臭い空気が漂っていた。

 アーチを象る柱が幾重にも連なり支える堂内の最奥には、十字に磔刑された御子や、そこから顔を逸らしているようにも見える聖母が鎮座している。その彫像たちは、イルゼの用意したランプが明滅するのに合わせてその影を不気味に揺らす。イルゼがそれをぼんやりと眺めていると、背後で扉を開ける音がした。

「着替えありがと。みなしごの——」

「……イルゼ=グラーツです」


 紅茶に似た豊かな長髪を鬱陶しそうに掻き上げ、アメリアは使い終えたリネンを差し出してきた。

「ありがとうイルゼ」

 彼女の微笑は、ステンドグラスを透過する仄明かりに照らされ婀娜っぽい。イルゼが呆けてその姿を見つめていると、彼女は不思議そうに目を瞬かせて、もう一度リネンを差し出してきた。イルゼは慌ててそれを受け取ると、惚けていたことがいたたまれなくなって彼女から目を逸らした。くすりと笑い声が耳をくすぐる。

「お前、どうしてこんな嵐の中で橋の真ん中にいたのさ」

「…………」

「さては、身投げかしらん」

 肯定するつもりで、イルゼは無言を貫いた。そしてアメリアに背を向けて、細く色鮮やかな窓を見上げた。色ガラスで象られた天使を囲む百合の花に、降りしきる滴の影が映し出されて、まるで露に濡れる本物の花のように見えた。


 アメリアは、黙り込んだイルゼを背後から抱き寄せた。司祭とは全く異なる、華奢でふんわりとした腕が、知らずこわばっていたイルゼの肩の力を解してゆく。

「家族は?」

「父は、先の大戦争で亡くしました。母は……2年前にスペイン風邪で。身寄りのない私を、司祭様が後見人となって引き取ってくださいました」

「優しい司祭様だこと」

「………ええ、本当に。私のよすが司祭様だけ。彼に身を捧げ追従するか、神に背き濁流に呑まれるかの一つに二つ。それが私に与えられた道です」


 青白い肌によく映える、イルゼの真紅の口元が凍えるように震えた。

「ねえイルゼ」

 囁きながら、アメリアが湿気を孕んだブルネットの髪を優しく梳き始めた。イルゼはそれを止めるどころか、心まで解きほぐすような指の感触にほうっとため息をついた。

「あたしがお前にもう一つ、道を示してあげよう。私をお前の小屋に入れておくれ」

 アメリアの熱い指先が、嵐にさらされ冷え切ったイルゼの頬を撫でた。

「でも、司祭様が……」

「大丈夫、雨が上がれば全てうまくいく。匿ってくれるお礼だよ」

 イルゼはまだ了承していない。それなのに、背後から肩に顎を乗せて愉快気に笑う声につられて、イルゼの口の端は緩んでいた。

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