第3話
調弦が終わるのを見届けた葵は、しなやかにそして繊細に鍵盤に指を這わせる。そしてこちらを一瞥した。まるで合わせてあげるわよと言わんばかりに、その指とは真反対のあまりにも情熱的な視線は、少し背筋にぞくぞくとした興奮を感じさせるほどだった。
放課後だからだろうか、ヴァイオリンの赤がいつにも増して赤い。煌びやかとして宝石のようだ。葵の瞳に映るその宝石を信じることにした。
少しの静寂の後、ヴァイオリンを軽く抱きしめるように大きな、そしてゆったりとしたブレスから始まる。G線を大きく震わすように弓を走らせると、葵は直ぐに伴奏を始めた。
それはG線上のアリア。G線上のアリアは、バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」の序奏部分から派生したものぇ、美しい旋律と印象的なリズムが特徴だ。指先は繊細に弦を撫で、魂を込めて音色を生み出していく。ヴァイオリンのG弦から響く音色は、深みと哀愁を含んだ美しい音楽の世界を表現しているのだ。
ひたりと顎当てにじんわりと汗を感じる。ヴァイオリンを弾き始めるとどうでも高揚して体が暑くなる。
そしてそれは葵も同じだった。頬が赤く染まるのは高揚か夕暮れか。揺らめく髪と、情熱を感じるように激しく鍵盤を叩く指は、そして奏られるその音は魅惑的で、まさしく扇情的であった。
音に執着すると、それは聞こえが悪いがそう表現する他ないほどストイックに自分を追い込まないと出せない音がそこにあるのだ。
指先が鍵盤に触れる度に、音が弾けてまるで音符が踊っているようだ。自分のヴァイオリンの音色に絡みつき、だが正しくリズムを刻み、手を優しく引くようにリードされる。
あぁ、こんなにも揺さぶられるなんて、あまりにも幸せだった。間違いなく葵は誘っているのだ。俺がもっと全力を出すことを。
弾き始めてまだ1回目だと言うのにも関わらず強い一体感を感じていた。絡み合った音は聞くものを魅了する。まるで愛を語りかけられているかのような甘い演奏と、その奥に見え隠れする艶美な感情を、無意識に感じ取るのか。1つの音とまで感じられるほど息のあった演奏は、生まれてこのかた初めてだった。
演奏を終わる頃には呼吸すら同じタイミングに感じられるほど、お互いを理解し合うことになった。
肩で息をするほど上がったまま、楽器をおろし葵の方を向く。葵も弾き終わって鍵盤を少しな出たあと、目が合った。
「雄介君、泣いてるの?」
はっと手を頬にやると、確かに一筋涙を流している自分がいた。
「いやごめん、なんでもないんだ。感情が高ぶると泣く癖があるみたいで…最近はこんなこと無かったんだけどな」
少し物珍しそうにこちらを見つめた葵は、椅子から少し腰を上げ、今まで心を揺さぶってきたその指で涙を脱ぐうように、そのまま頬を撫でてきた。
「貴方が欲しいわ。私をここまで駆り立てて、虜にしたのは貴方以外居ないもの。」
そういって葵は俺にキスをした。
「あの時とは反対じゃないか。」
ヴァイオリンケースにヴァイオリンを置きながら葵に話しかける。
葵は微笑みながら、はっきりと自分の武器を理解してるのだろう。椅子から立ってさらに1歩歩み寄せてくる。
「これは賭けだったの。男の子っていつも私の体を見てくるわ。もちろん、貴方も含めて。」
言葉が詰まる。女子は男子の視線に敏感というのは本当だったのか、今一度頬を、だが違う液体が伝う。
「いいわ、貴方にだったら好きにさせてあげる。」
さらに言葉が詰まった。何とか絞り出した声は情けなく裏返っていたが、それでも伝えることは出来る。
「な、何を言ってるのかわかってるのか?」
「あら失礼ね、その目線に気づけば、何をしたいかだって分かるわよ。その先も。」
演奏よりも遥かに官能的に言葉を啄む。まただ、葵の言葉は俺の何かを縛り付ける。そして蛇が獲物を喰らう時のように、首筋に牙を突き立てゆっくり届くを流し込むように、その甘い声の言葉が脳を痺れさせて行く。
「そんなに怯えなくても私は処女よ。」
「そういう意味で固まってるわけじゃない!」
少し声を粗げて体の緊張を解すように言葉を返す。
「それに、はしたなくも無いわ。私は貴方が欲しい。使えるものはなんでも使う。今は、それだけよ。」
少し、ほんの少し影を感じる言い方をした葵に、気になっていたことを尋ねる。
「なぁ……何をそんなに焦ってるんだ?いや…なんだろうな…何を成したいんだ?」
「ふふっ、随分遠い言い方ね。いいわ教えてあげる。私が貴方を欲する理由を。」
葵は俺の腕を引いて椅子に座らせ向き合うように膝に乗ってきた。
「聞きなさい、私の理由を。」
教室の外では部活動をしていた生徒が手を止め、添削をしていた先生はペンを置いた。2人は気づかなかったが、この2人の演奏を聞いてきた人間は大勢居る。そしてその全てが魅了され、噂になることをまだ知らない。
青く奏でる えんぶりお @3mbryo
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