ジャスティスへのレクイエム(第4部)

森本 晃次

第1話 女と男のこと

「この世の正義は唯一、戦いによって支配されるものである」


 シュルツとチャールズがチャーリア国を建国した頃に時代は遡る。ちょうどその頃、チャールズが国王だった頃の妃と側室は、ジョイコット国に亡命していた。

 ジョイコット国はチャーリア国建国のための、

「隠れ蓑」

 として武器弾薬、さらには兵をかくまう目的で利用されていたが、王妃や側室をかくまうという意味でもジョイコット国は貢献していた。

 シュルツもチャールズも、チャーリア国を建国し、国が落ち着いてくれば、王妃のマリアと側室のマーガレットをチャーリア国に招き入れて、今まで通りの生活が戻ってくると思っていた。

 しかし、チャーリア国の建国に関しては、さほど困難なこともなくうまく行ったのだが、建国に力を入れている間にマリア王妃とマーガレットは行方不明になっていた。

「ジョイコット国から他の国に行ったということはないと思います。あの国は入国よりも出国の方が難しい国で、二人が国外退去したのであれば、分かるというものです」

 と、シュルツの腹心の部下がそう言った。

「ということは、まだジョイコット国に滞在しているということか。いつの頃まで二人の状況を把握していたんだ?」

 とシュルツに聞かれ、

「三か月前くらいまでは確かに行方は分かっていました」

「ということは、チャーリア国に武器弾薬も兵も入国させることに成功した頃のことだな?」

「ええ、そうです。別にうまく行ったので油断していたわけではないのですが、急にその存在が不明になったんです。忽然と姿を消したとしか言いようのない感じですね」

「しかし、住んでいたところは分かっていたのだろうから、生活の様子から、少しは何かが分かるんじゃないか?」

「そう思って、私も住んでいた部屋を探ってみたんですが、まったくそこに誰かが住んでいたというような形跡がないほどに片づけられていたんです。故意に存在を消したとでも言えばいいんでしょうか」

「どういうことだ? それじゃあまるで二人が示し合わせて姿を消したとでも言いたいのか?」

 シュルツはいつになく狼狽していた。

 政治的なことになれば、自分の経験から自信のない姿を見ることができないシュルツだが、こと政治以外のことになると、本当に臆病になっている。

――この人も人間なんだ――

 と普段からの冷静沈着なシュルツからは信じられないような、それでいて人間らしい微笑ましい姿になってしまうほどのギャップに、驚きと安心の両方を感じるというのも面白いものだった。

 示し合わせて姿を消したのかどうか分からないが、どうやら最悪の状態ではないというのが、腹心の部下の話だった。

 最悪の状況というのは、二人の正体を知った誰かが、二人を拉致監禁しているという状況である。しかし、もし拉致監禁したのであれば、その理由は身代金要求なのか、何か政治的な事情からの拉致なのか、どちらにしても、三か月も経って何も言ってこないということは、その可能性は極めて低いと言わざるおえないだろう。

 だが、最悪の状態としてもう一つ考えられる。

 国内が混沌とした、静かとはお世辞にも言えない状態のジョイコット国なので、密かに誰かに呼び出され、そして殺されていたというのが、最悪の状態であった。

 いくら調べても、ある地点から二人の行方はビッタリと消えてしまった。それは、殺されてどこかに埋められてしまっていると考えられなくもない。

 だが、二人はそんなに簡単にやられるような女性ではなかった。マリアの方はか弱い女性そのものであったが、マーガレットの方は、武道にも護身術にしても、一通りのことはこなす。その腕前は婦警さんとそん色のないほどであり、少々中途半端な強さを持った男性なら、すぐにマーガレットなら片づけることができるほどだった。

「マーガレットは、きっとマリア妃を守ってくれるだろう」

 というのが、シュルツの思いだった。

 マーガレットは、学生時代から英才教育を受けてきた。武道や護身術、さらには兵器の扱いまで、そのあたりの男に比べれば、よほどの能力を持っている。だからと言って、男勝りというだけではない。女性としての品格も兼ね備えていて、だからこそチャールズの側室になれたのだ。

 マリアが妃になったのは、元々許嫁からであった。つまりは、先代の国王が健在の時からすでにチャールズは元服を済ませ、結婚していた。そのため、まだ国王に即位していない間の妻ということで、

「妃」

 という称号が用いられていたことで、チャールズが国王になってからでも、マリアのことを「妃」をつけて呼ぶことになっていた。

 マリアは実におとなしい女性で、自分から意見を言うこともなく、生まれながらの、

「お姫様」

 だったのだ。

 マリアの家系は、実はアクアフリーズ王国出身者ではなかった。アクアフリーズ王国が存在していた頃に一番親密にしていた国からの王妃候補だったのだ。

 ただ、その国の国王は先代の国王とは遠い親戚ということもあり、昵懇にしていたが、王国としての権威を世界に知らしめていたアクアフリーズ国とは違って、その国はまだまだ小国だった。そういう意味ではこの結婚に大いなる意味を感じていたのは、相手国の方だったのだ。

 だからといって、先代が乗り気ではなかったわけではない。先代がマリアと会ったのは、マリアがまだ十歳くらいの頃で、その頃になれば、相手のことをある程度は分かるのだと先代はタカを括っていた。

 女性は男性に比べて発育も早ければ、頭の成長も早い。そう思って見ていると実に聡明なお嬢さんに、マリアが見えてきたのだった。

 マリアは黙っていると実におとなしいが、その心根に潜む気の強さは、かなりのものだった。気の強さに限って言えば、

「私も敵わないわ」

 と、あのマーガレットにそう言わしめただけのことはあった。

 どこが気が強いのかというと、マリアには潔さがあった。

 人は潔さを発揮するのは、開き直った時だろうと思えたが、マリアの場合は絶えず気の強さを醸し出していた。そのことに気付かないのであれば、その人はまともにマリアの顔を見ていないからだろうと思わせるに至った。

 ただ普通の人は潔さからいきなり気が強いという結論を見出すことはないだろう。相手がマリアだからそう感じるのであって、マリアがお嬢様で、お妃候補だから余計にそう見えたに違いない。

 マリアは結婚するまでに母国で英才教育を受けていたが、その半分は途中で挫折していた。

「もう、どうして私がこんなことをしなければいけないの?」

 と、少しでも嫌なことであれば、そう言って反発した。

 その思いは、

「少しくらいの嫌なものでも、少々我慢して続けてみると、意外と楽しく思えてくるものもある」

 ということが分かっているからだった。

 マリアの場合は、少々の我慢ができない環境に置かれていた。彼女の家庭教師として選ばれた女性は、完全な完璧主義者だったのだ。

 それを国王は、

「頼もしい」

 と感じ、マリアの家庭教師にピッタリだと思っていた。

 しかし、彼女には発想力が乏しく、そのせいで頭の中にニュートラルな部分を作り忘れてしまうのだ。国王は娘の姿を表面だけしか見ずに、親として、さらには国王としての意識から、完全な上から目線になってしまっていた。

 だが、チャールズは違った。

 マリアはいくら気が強いとはいえ、どうしても、

「井の中の蛙」

 と同じで、自分の殻の中でしか、気の強さを発揮できないことを分かっていなかった。

 それを感じたのは、やはり初めて他の国に赴いた時が最初だっただろう。チャールズ皇太子の下に嫁ぐことが決まって、実際に輿入れしてしまうと不安が気の強さを凌駕していた。

 もし、チャールズが気の弱い男性であったら、マリアはどうだっただろう? チャールズは思っていたほど坊ちゃんの甘えん坊ではなく、芯のしっかりしたところがあった。

――自分だけが気が強いわけではないんだわ――

 と思った時、自分の機の強さは虚勢であることに気付いた。

 普通ならそこでさらに落ち込むのだろうが、元々の機の強さに芯が通っていたので、一度落ち込んでしまったことで自分がそれ以上の落ち込みようのないところまで行っていて、

――落ちるところまで落ちたのかしら?

 と感じさせたことで、急に気が楽になったのだ。

 マリアとしては、自分でも理解できない感情だったが、そのおかげで開き直りができたのかも知れない。自分だけが突出していることが本当の快感ではないことに初めて気付いたと言ってもいいだろう。

――自分だけが突出していることに快感を覚えるというのは、それだけそれ以外のことで自信がないということを裏付けていることになる――

 と感じたのだ。

 マリアにとって、アクアフリーズ王国の皇太子に嫁ぐことは、ずっと昔から決まっていたことだった。英才教育では妃としての品位を求められ、相手が決まってからは、相手を想定したうえでの英才教育が新たに始まった。

――教養と、経験――

 それが英才教育の肝であった。

 経験することは難しいが、環境をできるだけ整えることはできる。今までと変わってしまう環境に、いきなり飛び込もうとされてしまうと、不安が頭から離れずに、ホームシックにかかってしまうだろう。

 まだまだ子供だということを考慮すれば、一人で知らない国に嫁ぐのだから、それも仕方のないことなのだろう。

 マリアの母親は、おとなしい女性だった。

 最初、国王は母親を見ているから、マリアがおとなしいのも母親に似たのだと思っていたようだが、実際には全然違っていた。

 マリアの母親は性格的におとなしい人で、彼女は見た目とイメージが一致していたことで、一目見ただけで、

「この人はおとなしい女性だ」

 と誰もが感じたことだろう。

 しかし、マリアは違った。

 マリアのおとなしそうな雰囲気を見て、

「彼女はおとなしい女性だ」

 と感じるのは、半分がやっとだろう。

 もし、おとなしい女性だとすれば、行動に矛盾が感じられるということを、男性なら気付くことだった。

 意外と女性にはそれが分からない。一番分かっているとすれば、マーガレットであろう。

 マーガレットは、同じように英才教育を受けていたが、見た目はまったく違う性格だった。同じ英才教育を一緒に受けていたとすれば、お互いに反発しあっていたか、あるいは競争相手としての意識を深める中で、ライバル視をしていたに違いない。

 では、同じようにライバル視をお互いにしていたとすれば、その意識の強いのはどちらであろう?

 もし、マーガレットであれば、それはマーガレットの目が節穴だということだろう。そしてもし逆にマリアの方であれば、マリアとすれば、自信過剰の身の程知らずだと言えなくもないに違いない。

 どちらにしても、マリアとマーガレットでは育った環境も違えば、性格も違っていた。だが、そんな中で二人はうまくやっていた。その秘訣としては、

「私は、彼女になら気を遣わなくて済むから」

 というのが、お互いの気持ちだった。

 ただ、身分としては妃としてのマリアと、側室として入ることになるマーガレットでは上下の差がハッキリしている。だが、マリアはマーガレットに全幅の信頼をおいているし、マリアの方もマーガレットに対して自分よりも身分が上だという意識がさほどないことで、お互いに気を遣うことはないのだろう。

 マーガレットがこのように男勝りでありながら、女性としての品格を持ったまま成長したのは、家系に原因があるのかも知れない。マーガレットの父親は誰あろう、シュルツであった。アクアフリーズ王国のナンバーツーとして君臨してきた軍部の最高長官であるシュルツの娘が側室というのは、きっと他の国から見ると、

「なんてもったいない」

 と思われることだろう。

 しかし、マーガレットは側室でこそ、その才能を発揮することができる。王妃に収まってしまうと、身動きが取れなくなる可能性があるからだ。

 マーガレットは才女ではあるが、元々ここまでしっかりした女性ではなかった。父親がシュルツだということもあって、いつもまわりから少し遠慮された目で見られることがずっと嫌だった。

――私って、嫌われているのかも知れないわ――

 十歳にも満たない女の子だったマーガレットは、その頃に母親を亡くしていた。

 シュルツは、生涯妻はマーガレットの母親だけだった。マーガレットは、母親の思い出を大切にしていたが、父親が再婚することを別に嫌だと思っていたわけではない。

「お父さん、どうして再婚しないの?」

 と一度聞いたことがあったが、その時のシュルツの何とも言えない表情に、マーガレットは何も言えなくなった。

 まるで苦虫を噛み潰したような表情は、何でも即決で決めてきた父親が初めて見せた戸惑いのようなものが含まれていた。

 マーガレットが再婚の話をしたのは、十三歳の頃だった。まだ幼さの残る女の子であったが、女性としての十三歳は、この時代の王国では成人に近い感覚だった。

 女性は男性に比べて発育が早いと言われているが、結婚の年齢に制限はなかった。実際に王室では、国王がまだ十歳にも満たないのに、即位を見越して婚姻させることがあった。どこかの国の姫を娶ってくるのが一般的だったが、先代の頃から世界情勢が慌ただしくなり、外国から王妃を招き入れるという風習はなくなるのではないかと目されていた。

 実際にはそんなことはなかったが、そんな情勢よりも先に、王制の滅亡を見ることになるとは、亡くなった先代も浮かばれないかも知れない。

 マーガレットは、国際情勢に詳しかった。

 学校でも歴史が好きで、父親が軍司令官をしている関係もあってか、軍に関しても興味があった。

 女だてらに、

「学校を卒業したら、軍に志願しようかしら?」

 と言っていたほどで、ただ、こんな話を父親に言えるはずもなく、実現はしないだろうと思っていた。

 十五歳になる頃には、学校でも成績は優秀、主席で中学を卒業した。この国は、高校という制度はなく、いきなり大学か、専門学校に入ることになる。まず大学に入学し、歴史学を専攻し、勉学に励んでいた。

 その時に知り合ったのが、将来一緒に行動することになる運命の相手であるマリアだった。

 二人は、意気投合していて、お互いに尊敬しあっていた。女性同士で相手を尊敬しあえる関係というのは、なかなか存続できるものではないと思っていたマーガレットにとって、やはりマリアとの出会いは運命だったに違いない。

 マリアも歴史に興味を持っていて、いつも歴史の話に花を咲かせていた。だが興味のある時代に共通性はなく、古代文明に興味があるマリアに対して、マーガレットは現代史に興味を持っている。それはそのまま二人の性格にも結びついているというべきか、幻想的なことが好きなマリアに対し、現実的なイメージが強いマーガレット、やはり誰が見てもしっかりして見えるのはマーガレットの方だろう。

「へえ、お父さんはあの軍司令官をされているシュルツさんなんですね?」

「ええ、そうなのよ。あまりお友達にお父さんのことは話さないようにしているんだけどね。相手がマリアだと何でも話せる気がするのよ」

「どうして、お父さんのことを話そうと思わないの?」

 とマリアは純粋に聞いてきた。

 マーガレットも普段なら、

――何を当たり前のことを聞いてくるのよ――

 と思うのだろうが、マリアの透き通るような興味を持った目で見つめられると、金縛りに遭ったかのようになり、ついつい怒りがこみあげてくるようなことはなかった。

「お父さんの話をすると、まわりが私に気を遣うのよ。きっと腫れ物にでも触るような気持ちになるんでしょうね。余計なことを言わないようにしないといけないと感じるのかも知れないわ」

「それは分かるんだけど、そんなにシュルツ長官の威圧ってすごいのかしら?」

 と、マリアは言った。

「えっ? そうじゃないの? 軍司令官というと、私の父親でもなければ、まるで雲の上の人って感じがして、その親族を相手にする時は、細心の注意を払わないといけないと思うんじゃないのかしら?」

 とマーガレットがいうと、

「そうかしら? 私はマーガレットさんの考えが極端なんじゃないかって思うのよ。あなた自身が必要以上に父親を意識するから、まわりの目が気を遣っているように見えるんじゃないかしら?」

 これも普通ならムッとくるような言われ方だが、相手がマリアだったら怒りが込み上げてくることはない。

「マリアに言われると、まさにその通りって思えてくるから不思議だわ」

 とマーガレットがいうと、

「ふふふ」

 と、マリアが含み笑いを見せる。

 この関係は、マーガレットを知っている人が見ると、何とも異様に感じることだろう。

――あのマーガレットが、他人の話に従順になっている――

 と感じるのだ。

 マーガレットは自分の意見に絶対的な自信を持っているようにまわりは感じていた。それが男勝りなところを感じさせ、その背後に父親であるシュルツ長官が見え隠れしてくると、彼女の自信の裏付けは、それだけで証明されたかのように感じるのだろう。

「マリアって、本当に不思議よね。いったい、どういう人なのかしらね?」

 とマーガレットも不思議だった。

 実は、マリアは隣国の姫であり、当時皇太子だったチャールズの許嫁であった。そのため英才教育を兼ねて、大学はアクアフリーズ国で通わせることにした。自分が皇太子の許嫁であることはほとんど誰も知らない。大学の教授でも一部の人が知っているだけだった。

 もちろん、その時のマーガレットもそんなことは知らない。自分が軍司令の娘に生まれたことに運命的な嫌気が指していたのを見て、マリアは冷静に、そして客観的にマーガレットを見ることができた。

 マリアは、相手に対してもそうだが、自分に対しても冷静で、そして客観的に見ることができる。これはマリアの特技の一つであり、姫として小さい頃から英才教育を受けたうえで培ってきたものと、生まれついての性格から培われたものとが絶妙なバランスを持ってマリアの中に存在していた。だから、マリアは相手が誰であれ冷静になれるし、おとなしく見えていても、その芯の強さは、きっと誰にも負けなかっただろう。

 そんなマリアは自分の冷静な目で、マーガレットが自分と同じ種類の人間であることを看過した。その予想はまんまと的中し、同じ歴史を学びながら、共通の話題に乏しく、さらには性格的に正反対なところがある二人を結びつけることになったのだ。

 マーガレットは、絶えず自分が主導権を握っているように思っていたが、実際にはバランスがここも絶妙で、マリアに不快な思いをさせることはなかった。お互いに知らないことがあったとしても、知り尽くしていることが多すぎることで補っても余りある二人だった。

「マリアは、将来何をしようと思っているの?」

 と何も知らないマーガレットはそう聞いた。

「そうね。まだ何とも言えないけど、マーガレットさんはどうするんですか?」

 と聞き返してきた。

「私は、できればこの大学に残って、歴史の研究を続けたいわ。もっというと、軍事的なことにも興味があるので、そっちの研究もしたいわ」

「じゃあ、大学院に残るということ?」

「ええ、そしてゆくゆくは教授になって、何か名前の残るような研究をして、博士号なんか取れればいいわね」

 というと、

「それは壮大な計画ね。私もすごいと思うわ」

 マリアのその時の顔には、微塵も軽蔑の表情はなかった。絶えず興味を持っているかのような顔を正面に向けて接してくれるマーガレットに、今まで一度も軽蔑の意識を持ったことはなかった。

――今までに出会った女性の中で、マーガレットさんほど素直で、芯が強い女性はいないわ――

 と、マリアに思わせた。

 マリアはさすがに国王の娘、生まれながらに相手を全体的に見る癖がついているのか、細かいところを気にしないかわりに、すぐに開いての合否を結論付けるところがあった。だから、嫌いな人に対してはとことん相手をしないし、逆に気に入った相手に対してはしつこいくらいに付きまとうところがあった。

 今まではそんなマリアを誰も咎める人もおらず、平気な表情で付き合ってくれた。だが母国にいる間、ずっと国王の娘であることを黙っていたが、中学に入学する頃から、

「まわりの人とどこかが違う」

 と言われて、次第に自分のまわりから人が遠ざかっていくのを感じた。

 この時の寂しさは今までになかったものであり、

――あの時の思いに比べれば、それ以降の感情の起伏は、大したことなんかないんだわ――

 と感じさせた。

 マリアが、英才教育のためとはいえ、外国に留学できたのはタイミング的にもちょうどよかった。あのまま母国にいたら、きっと引き籠ってしまい、王宮から出ることもなく、実際にそこかに嫁ぐにしても、婿を迎え入れるにしても、一悶着あったに違いない。

「姫の教育は、本当に難しい」

 王家の執事は、王室と同様、ずっと世襲で賄ってきた。

 マリア付きの執事は誠実な人で、マリアは彼を見ていると苛めたくなるところがあった。

――私ってサディスティックなところがあるのかしら?

 と思った。

 きつい命令をすればするほど、自分の中で快感に目覚める。しかも相手はきつい命令でも抗うことなく忠実に命令を実行している。

――これって異常な関係よね――

 と感じ、その頃からマリアは、SMの本を読むようになった。

 自分がSの気があることに気付いていたが、お姫様としての品格が、Sになろうとする自分に歯止めをかける。歯止めがかかってしまうと普通ならどこか違和感があるというものであるが、マリアに関して違和感はなかった。自分に掛けられる歯止めは、Sの部分を凌駕しているのだろう。やはり王室としての血が、そうさせるのかも知れない。

「マリア様、もうすぐ留学されるんですね」

 と執事は、それまで見せたことのない寂しそうな表情を浮かべた。

「ええ、そうよ。どうしたの?」

 と聞くと、

「いいえ、何でもありません。私にもどうしてこんな気持ちになるのか、不思議なくらいです」

 マリアは、彼に同情した。

 マリアが今にも後にも誰かに同情したというのは、彼だけだった。それだけに、最初は自分が同情しているなどという感覚はなかった。

「マリア様との時間が、このままずっと続いてくれるものだと思っているはずもなかったのに、実際に別れが近づくとなると、こんなにも切ないものだとは思いませんでした」

「あなたは、誰かと別れたことってないんですか?」

「そんなことはありません。好きだったお母さんが亡くなった時は、本当に寂しかったです。まるで自分一人がこの世に取り残されたような気がして、そして、世界を刻む時間は、私だけを置いてけぼりにしているんだって思ったりもしました」

 という執事に対し、

「あなたのその表現、私は好きよ」

 と、彼に告げた。

「ありがとうございます。私はこれが普通の話し方だと思っているのですが、こういう口調で話をしていると、言葉は次々と出てくるんです。これって不思議ですよね」

「そうかしら? 私にもそういうことってあるわよ。でも私はあまり人と話をしないので、余計に話が分かる相手とめぐりあうと、思わず言葉が口をついて出てくるのよ」

 というと、

「じゃあ、私もそうなのかも知れませんね。私もほとんど誰ともお話する機会はありませんからね」

「もっとあなたからいろいろ教わりたいわ」

 とマリアがいうと、執事は、

「もったいないお言葉です。私なんかに」

 というと、マリアは急にムッとした。

「私なんかって言わないで、立場的には私は王女であり、あなたは執事。私もついついそういう目で見てしまうんだけど、そう思うとあなたのその綺麗な言葉だったり、礼儀正しさに暖かいものを感じるのよ。これはきっとあなたにわざとらしさを感じないからなんじゃないかって、最近やっと感じるようになったの」

 とマリアが言った。

「暖かさは私もマリア様には感じていますよ。一緒にいて楽しいと感じるからこそ、言葉も饒舌に出てくるんでしょうね」

 と執事が答えた。

 この会話は付き合っている男女の普通の会話ではあるが、二人の立場を考えると、実に異様な会話だった。だが、二人はそのことを意識しない。いや、他を知らないので、分からないと言った方が正解だろう。

 彼がいたから、マリアは外国に留学しても寂しい思いをすることもなく、冷静沈着になれるのだろう。そういう意味ではマリアはまわりに寄り添ってくれる相手に対して、恵まれていたのかも知れない。

 マリアはマーガレットと知り合って、自分にはない才覚と、人を惹きつける力に魅了された。それを感じたのは、マリアが母国から連れてきた執事が、マーガレットのことを気にし始めたからだった。

「マリア様、マーガレット様というのはどういうお方なんですか?」

 と聞かれて、

「ああ、彼女はこの国の軍司令官の娘さんらしいのよ」

 とマリアがいうと、

「どうりで……」

 と、彼は呟くように言った。

 呟きくらい、今までであれば気にしたこともなかったが、今回の呟きはどうしても気になった。

「それはどういうことなの?」

 と聞かれた執事は驚いたように動揺を隠せずに、

「あ、いえ、しっかりされているので、血筋かな? と……」

 と答えた。

 彼の返答は、至極当然の返答であったが、マリアが求めていた回答ではなかったので、マリアとすれば少し不満だった。

「何? あなたは彼女に興味がおありなの?」

 というと、

「ええ、マリア様のお友達に興味がないわけないじゃないですか? 私はそれだけマリア様を気にかけているということですよ」

 これもありきたりな返事だった。

 今までなら、こんなありきたりな返事をまともに聞いて、

――やはり彼は私のことを守ってくれているんだわ――

 と、王女冥利に尽きるというものだったが、今はそんなありきたりな返答がつまらないと思えてならなかった。

 ただ、今までが素直に言葉を受け取っていたことがおかしいのであって、言葉だけを聞いているとありきたりでつまらない返事に、どうして満足していたのかというのが、王女の王女たるゆえんに思えてならない。

 男性を好きになったことのないマリアは、本当のお嬢様だった。学校でも男性がそばにいることはなく、すべてが女子の学校だった。先生も女性の先生ばかりで、王女や王室に限らず、国家の要職に就いている人の娘が通う学校は専門にあった。

 そんな学校があるのは普通であり、どこの国も同じだと思っていた。学校ではあまり他国のことを深く習うことはなかった。歴史に関してもあくまでも自分たちの国中心の考え方で、隣国と言えど、詳しいことは学校で教えてもらえなかった。

 隣国に留学が決まってからすぐに、マリアは急遽隣国について勉強しなければいけなくなった。その先生を引き受けたのが執事の彼だったのだが、彼は一度子供の頃、数年間だけアクアフリーズ国で生活をしていた。

 両親から離れての生活だったが、国家から派遣されたというVIP待遇だったので、何ら不自由はなかったが、それもいずれマリアがアクアフリーズ国に留学することが決まっていたことから逆算して、その時期の滞在となった。

 言葉も文化も習慣も、彼はその数年間でしっかりとマスターした。だが、実際にはアクアフリーズ国には表と裏の面があって、そのことに気付いてはいたが、表立って言葉にすることはなかった。いくら王家の執事で、国家のVIP待遇だとはいえ、いつ暗殺されるか分からないような事態に陥らないとも限らなかった。

 そんな執事は、母国に戻ると、今度は自国の王家に対しての英才教育を受けた。自国の歴史、王家の歴史。すべてを叩きこまれたと言ってもいいだろう。マリアが今まで育ってきて知ることのなかったことを、執事の彼が知ることで、全面亭なサポートができるというわけだ。

 つまりはマリアにしてみれば、自分の知らないことをすべて知っている執事は、執事という立場ではあるが、心の底では尊敬している。信頼と尊敬が彼への気持ちとなって、どちらかというと自分の感情を奥に隠すタイプのマリアは気持ちを顔に出すこともなかったことだろう。

 だが、その信頼と尊敬は絶対だった。口や態度では自分が主であり、彼は従者だった。しかし心と言動や行動とに矛盾を生じている。その中途半端な感情が、見えていなかったが確かに存在していたよく分からない感情に変化していった。

――これって、恋なのかしら?

 と感じるようになったのは、マリアがマーガレットと出会ってからだった。

 マリアが知らないことをすべて知っているはずの彼であっても、マリアが知っていることであっても、彼が知らないことが存在するという快感が芽生えると、背筋がゾクッとする感覚に、震えが止まらない気持ちになっていた。

 マリアも恋という言葉は知っていたが、具体的にどういうことなのか、知る由もなかった。

 自分の知らないことを彼なら知っていると思っても、迂闊に聞くことのできるものではない。しかし、彼がどんな返答をするのか興味があって、

「ねえ、恋ってどういうものなの?」

 と聞いてみた。

 別に模範解答を求めたわけではない。彼が狼狽し、どう答えようかと悩むのを見てみたかったからだ。

「恋とは、一言では言えないものではないでしょうか? 人の数だけ恋が存在すると言ってもいい。いや、恋の数はもっともっと多いかも知れませんよね」

 と、彼がいうと、マリアはなんとなく違和感があった。

 その違和感がどこから生まれてきたものなのかすぐには分からなかったが、彼の顔を見ると、

「してやったり」

 というしたり顔をしているのを癪に触って感じたことからだった。

「多いってどういうこと? 同時期に複数の人を好きになる人もいるってこと?」

「ええ、それは言えると思います。男女の関係は、一人誰かを好きになったからと言って、実際におつきあいをしてみたり、結婚でもしていない限りは、他の人に目を奪われて、別の形での恋を芽生えさせても、一向に構わないと思います」

「ええ、それは思うわ。でも、一人に決めたら一途なんじゃないの? 他の人に目移りなんて、好きになった相手に失礼よ」

 とマリアは言った。

 言った後で、

――これこそ、当たり前のつまらない回答なんじゃないかしら?

 と感じた。

「お嬢様らしいご回答ですね」

 と言われ、マリアはムッとした。

「それはどういうこと? まるで私が世間知らずのオンナのように聞こえるけど?」

 とわざとふてくされたようにいい、彼の口から、

「そんなことはございません」

 という言葉を引き出そうという意図が見えた。

 すると、マリアの意に反したかのように、

「その通りです。お嬢様はオンナとしては世間知らずでございます」

 と言われたので、また一段階、頭の温度が上がった。沸点に近かったかも知れない。

「どう世間知らずだっていうのよ」

 と、完全に因縁を吹っかけていた。

「人の心というのは、そんなに一刀両断で割り切れるものではありません。同じ人を好きになることだってあるでしょうし、それが親友同士であれば、まず親友関係は同じ人を好きになった時点で解消したと言ってもいいでしょうね?」

 というと、

「ちょっと待って、親友関係の解消は、好きになったということがバレた時に発生するものではないの?」

「表向きはそうです。でも、実際の解消の原因は、やはり同じ人を好きになったという時点ですでに起こっていたことになると思うんですよ」

「じゃあ、あなたは原因というのは、誰もが見ていて分かる事実に直面した場合でも、その起源はもっと前にあったということをいいたいのね?」

「そういうことです。浅い視点で見ていると、判断を見誤ってしまいますからね。起源をしっかりと捉えることは、その後の可能性がどのように広がろうとも、その時点から見れば、必ず線のようなものが続いていることに気付くはずです。そして、気付くことができる人が限られていることから、このような説は世間一般的に受け入れられないんだと私は思います」

 と執事は言った。

「同じ人を好きになると、その時点でライバルになるわけよね。でも世間的には、どちらかが折れて、親友関係はそのまま継続するという人も知っているわ」

 というと、

「果たして、それが正解なんでしょうか? 私はこの問題に正解はないと思っています。つまりは、いかなる可能性を秘めているので、末広がりの放射状にすべての可能性が秘められているとすると、すべてが正解であり、すべてが不正解だという結論を導き出すことができるんです」

「難しく聞こえるけど、実は簡単なことなのかも知れないわね。逆に簡単に聞こえることが難しいというkともあるんでしょうね」

「マリア様の発想にはいつも感服させられます。その通りです。私もそう思いますよ」

 と言われて、マリアは皮肉を言われているのかと思った。

 彼はそれを見て言葉を続けた。

「別に皮肉ではありません。マリア様の発想は奇抜に感じられ明日が、実は分かっている相手だと思うと、数段先を行くという発想になるんだと思います。まるでささやかな抵抗をしているかのようですね」

 また皮肉に聞こえた。

「やれやれ、どういえば分かっていただけるのか。でも、マリア様のそんなところが私は好きなんですよ」

 と言われて、顔を真っ赤にするマリアだった。

 マリアの母国では、執事が恋をすることは表向きは禁止されていた。特に王女を相手にしているので、他の女性には目が行かないようになっているだろう。彼も恋が禁止なのは当然分かっている。だが、恋もしなければ、王女を守ることなどできないというのが執事の考えだった。

――待てよ? じゃあ、俺のおやじは、どうやって俺の父親になれたんだ?

 という疑問を感じた。

 この国の執事が恋愛を禁止されているというのを聞いた時、とっさに思ったことであったが、すぐに別のことを考えたので、一瞬考えたにとどまった。すぐにこの感情は忘れてしまっていたのだが、マリアと二人きりで話をしていると、急に思い出してしまうこともあった。

 その頃から執事は、恋というものに対してだけは、一般の人たちと同じ目で見ることにしていた。

 本屋で恋愛ものの小説を買ってきて読んでみたり、テレビの恋愛ものを見てみたりしたが、その題材はどうしても「多重愛」に終始しているように感じた。

 小説やドラマなどは面白くなければ売れないので、そういうシチュエーションをさらに輪をかけて描いているのだろうが、実際にそんなことが横行しているのかどうか、ハッキリとは分からなかった。

 いろいろ知らないことを調べるための特殊機関を執事は持っていたが、さすがにこの疑問調査に国家の特殊機関を使うわけにはいかない。彼は自分の感性を信じることにした。

 すると、多重愛を否定することはできないという結論に達した。つまりは、

「多重愛を含めての愛情を、恋だというのだ」

 という結論に達した。

 そう思うと、マリアや自分が今まで感じていた恋というものが、実に薄っぺらくて、わざとらしい言葉でつづられているものなのかということを感じた。

 マリアはしばらくそんな彼と距離を置いてみようと考えた。別に付き合っているわけでもなく、それぞれに立場がしっかりしている相手なので、マリアの方から距離を置いたとしても、問題はないと思ったのだ。

 彼はマリアのそんな気持ちを知ってか知らず科、普段通りだった。いつもつかず離れずの距離にいて、何かあれば一目散に飛び出してくるだけの力を持っていた。

 今までにマリアは身体の危機に陥ったことが何度かあった。

 二回ほど、実際に襲われかかったことがあり、早急に飛び出してきた彼の活躍で事なきを得てきたが、実際には目に見えないところでマリアを襲撃しようという人がいないわけでもなかった。

 もちろん、マリアを王女と見て、拉致しようとしている輩たちなのだが、彼らにもそれなりに訓練を受けるだけの存在は、バックにあったようだ。

 そのバックが大きければ大きいほど、襲撃する連中のレベルも高い。攻撃すれば、少々の目的は達成できるはずなのだが、中には彼らでもどうにもならない相手もいる。彼らには執事がそんな相手に見えたのだ。

「あんな奴を相手にすれば、計画の失敗は目に見えている」

 と感じた。

 危険性があれば、正直に危険を組織に通告し、やめることもできる。ただ、その場合、組織の中での地位は著しく低下するのは仕方のないことだが、やめずに攻めてしまうと、まず間違いなく返り討ちにあると分かっていることに猛進するほど、彼らもバカではないだろう。

 そんな連中にマリアは遭遇したが、執事の目の黒さで、未然に凶行を防ぐこともできたのだ。

――やはり彼は偉大なんだ――

 と、マリアは結局彼にシャッポを脱ぐことになった。

 マリアの執事は。マリアの護衛というだけではなく、別命を密かに受けていた。実際にはこれが彼の本当の任務でもあるといってもいいだろう。彼自身はマリアの護衛もあるので、実際に別命を成し遂げるためのサポートとして、母国から彼のサポート役がやってきていた。

 彼は名前をジャクソンと言った。先祖は黒人のようで、少し名残は残っているが、そのあたりが男性として魅力的なのか、学生時代から女性によくモテた。

 ジャクソンは、そんな自分への自愛は強くなった時期があったが、それを執事と大学時代に出会ってから、改心するようになった。だから彼は執事に頭が上がらない。しかし執事は彼のそんな態度を謙虚と感じ、何かというと目を掛けていた。彼を自分の部下にして手足のごとく扱えるのも、そんな感情があったからだ。

 ジャクソンは自分から何かをするというよりも、他人から言われたことに対して忠実に仕事をすることに長けていた。そのことをいち早く理解した執事は、自分の部下として彼を重用できるよう、取り計らっていたのだ。

 ジャクソンもありがたいと思った。就職活動ではことごとく不採用の通知が来て、半分やけになりかかっていた頃だったので、執事の誘いはまさに、

「捨てる神あれば拾う神あり」

 であった。

 ジャクソンは、この国にやってきて、まず政府高官と接触した。特命を帯びているので、ジャクソンがジョイコット国の政府高官と接触できるようには、最初から手筈は整っていた。別に非公開の訪問でもないのだから、人脈さえ通せば接触することくらいは難しいことではない。

 ジョイコット国には、母国の公使館があった。

 実はジョイコット国と母国との間では、完全な国交は結ばれていなかった。それはかつての政治体制に問題があった。

 母国とジョイコット国は地理的な問題からか、しばしば戦争に巻き込まれていた。しかもそれぞれの政治体制の違いから、お互いに敵国同士というのがこの両国の宿命だった。

「別にジョイコット国のことを悪くは感じていないのだが」

 と母国の元首も嘆いていたが、それはジョイコット国の元首も同じであった。

 お互いに仲良くしたいという気持ちはありながら、なかなかそうは現実は許してくれない。仕方がないので、国交を樹立しない状態で、断絶もせず、公使館だけでも設置するという関係にあったのだ。

 逆に母国とアクアフリーズ国、ジョイコット国とアクアフリーズ国とは仲が良かった。そういう意味でアクアフリーズ国、つまりは先代の国王に、それぞれの国を仲介してもらうようにしていたのだ。

 アクアフリーズ国では、両国間に完全な国交が樹立されていないことを憂慮していた。この三カ国の地位としては、一番強大な国としてはアクアフリーズ国だった。その次に母国となり、その次がジョイコット国である。特にジョイコット国はその国の存続に、アクアフリーズ国の存在が不可欠で、クーデターにより王国が滅亡してしまったことは、ジョイコット国にとっても由々しき問題であった。

 チャールズやシュルツを受け入れ、チャーリア国の建国に貢献してくれたのもそのためであった。ジョイコット国としては、チャーリア国の繁栄もさることながら、アクアフリーズ国が元のチャールズによる統制のとれた国であってほしいというのが本音であった。

 チャーリア国は国が安定してきて、急進している国家ではあったが、まだまだ国家としては生まれたばかりという感じで、他の国の運命を握るだけの強大な力は有しているはずもなかったのだ。

 そんなジョイコット国に母国から派遣された二人の男、執事とジャクソンだが、二人に特命を下したのは、国家元首であるが、その後ろにはシュルツが控えていることを知る由もなかった。

 二人にシュルツが関係していることを話してもよかったのだが、執事はマリアを警護しているという任務も兼任している関係上、マリアのそばにいるマーガレットという自分の娘を巻き込むことになるのを恐れたのだ。

「娘には政治に関係のないところで幸せになってもらいたい」

 という親心だった。

 執事への特命は、順調に進んでいた。もちろん、特命の最終目的は、母国とジョイコット国の国交の樹立であった。だが、それまでには解決しなければいけない問題が山積していて、それを一つ一つ解決していくには、お互いの協力を必要が不可欠なのに、表向きには樹立されていない国交の中では難しいところが多かった。

 要するに公にできない仕事も多々あるということであった。

 その仕事で、秘密裡にできることはジャクソンが指揮を摂って行ってきた。だが、ジャクソンだけでは実現できない国家に関わることは、人脈を使って、政府要人を動かす必要があった。そのために今は人脈を増やすことを重視しなければいけない。人脈さえできてしまえば、後は行動させるだけで、実はっそれほど難しいことではない。むしろ人脈を築く方が難しく、ジャクソンも執事も、そのことに力を注いでいた。

 ジャクソンはその面持ちから女性を操ることにも長けていた。そのおかげで彼は秘密裏の行動の裏に、絶えず女性が絡んでいた。幾人も女がいて、彼女たちに協力させる。それも彼の特技の一つと言っていいだろう。

 こういうと女たらしの卑劣な男性のように聞こえるが、実際に国家間の間で秘密任務を持った人は、どこの国にも存在し、彼のように女性を使うエキスパートは少なくもない。中には血も涙もない、まるでロボットのような感情しか持っていない特務員もいるが、ジャクソンはそこまで卑劣ではない。むしろ彼女たちをその時々で本当に愛していたのだ。

 だが、愛しているという気持ちを抑えることができない彼は、女性を完全に安心させることもできた。これも彼の特技なのだろうが、思い入れが激しい女性に対して、彼も感情移入してしまうことがないわけではなかった。その都度乗りきってきたのは、ジャクソンの執事に対しての主従の気持ちが強かったからかも知れない。

「彼のことを考えると、女性に対して非情にもなれる」

 と、ジャクソンは自分に言い聞かせた。

 ジャクソンと執事の計画は順調に推移してきた。段階は十段階ほどあり、半分くらいまではさほど時間が掛かることもなくこなしてきた。

 そんな時、チャーリア国にアクアフリーズ国が先制攻撃を加えたという情報が入ってきた。

 ジョイコット国も他人事ではなかった。一応中立の立場を国際社会には示したが、いざとなったらチャーリア国に援助も厭わない気持ちでいた。

 援助していることが世間に発覚した場合は、ジョイコット国はアクアフリーズ国に宣戦を布告するというところまで閣議で決まっていた。

 執事とジャクソンは、そんなことをさせてはいけないという特命を帯びていた。せっかくのジョイコット国とアクアフリーズ国との国交が崩れてしまうと、せっかくの計画が最初まで戻ってしまうからだ。

 マリアはすでに亡命し、ジョイコット国に入っていたが、マーガレットは行方不明になっていた。

 表向きには、執事もジャクソンも、

「マーガレットのことは知らない」

 ということになっていた。

 しかし、実際にはジャクソンがマーガレットを匿っていたのである。マーガレットはマリアがチャールズに嫁ぐ前からジャクソンと面識があった。二人は知らない者同士ということだったのだが、二人は密かに会っていた。

 元々マーガレットは執事のことが好きだったのだが、執事はマーガレットに興味を持っていなかった。執事の悪いくせなのだが、男性の親友に対してはあれほど熱い態度を取るのに女性に対してはけんもほろろの状態だった。それがマーガレットを深く傷つけたのだ。

 マーガレットというのは、執事とは逆で、同性に対しては冷静沈着で、

「これ以上頼りになる人はいない」

 と思わせてきたが、男性に対しては、自分を委ねる気持ちが強かった。

 それも相手による。マーガレットがしっかりしているだけに、軟弱な男性に対しては冷静に対処してきたが、相手が自分よりもしっかりしていると思うと、その尽くし方はハンパではなかった。

 そんなマーガレットに対して執事の取った態度は、マーガレットからすれば、

「ありえない」

 と思える言動だった。

 思い詰めたマーガレットは、自殺まで考えたほどだったが、そのことをいち早く看破したのがジャクソンだった。

 執事に対しては並々ならぬ尊敬の念を抱いているが、そんな彼にも欠点があったということをマーガレットを見ていて初めて気づいた。そして、執事に対しての怒りを抑えるために感じた思いは、

「マーガレットへの想い」

 へと変貌していった。

 いや、これが本当の健康な男子の感情なのかも知れない。執事とジャクソンが普通の思春期の男性とはかけ離れた任務を持っているということは分かるが、感情まで違っているというのは、やはり二人ともに持って生まれた性格が起因しているからに違いない。

「なあ、俺と一緒に暮らさないか?」

 失意のマーガレットにそういうと、ジャクソンは彼女と一緒に暮らし始めた。

 マーガレットと暮らし始めたということを極秘にしたいと言い出したのはマーガレットの方だった。ジャクソンは否定するはずもなく、まもなく二人は極秘に蜜月に入って行った。

 マーガレットはその表向きな性格からは想像できないほどに男性に尽くした。元々が気の付く女性なので、かゆいところに手が届き、ちゃんと男性を立ててくれる。もし、付き合っている男性がジャクソンでなければ、マーガレットの優しさに甘えてしまって、いわゆる、

「ダメ男」

 になってしまうかも知れない。

 ただ、ジャクソンにも気が引ける部分はあった。相手がシュルツ長官の娘だということだった。尊敬するシュルツ長官の娘と極秘とはいえ、一緒に暮らしているのは、シュルツ長官に対しての重大な裏切りに感じられたからだ。

 ジャクソンはこれまでに恋愛をした経験がない。自分の職務を分かっていたからだ。しかし、今はマリアの嫁ぎ先であるアクアフリーズ国にクーデターが起こり、自分やマリア、そして執事やマーガレットの運命は、まったく変わってしまったのだ。母国からの特命もすでになく、アクアフリーズ国とは国交も断絶してしまったことで、自分たちは追われる立場になっていたのだ。

 幸いジョイコット国という受け入れ国があり、シュルツとチャールズの力によって新たなチャーリア国が建国された。まだ落ち着いていないので受け入れは難しいのだろうが、そのうちにマリアはチャーリア国に招かれることであろう。

 そう思うと、自分とマーガレットははじき出されることになる。自分はともかく女性のマーガレットには辛い思いをさせたくない。

「これが私の運命なんだから、甘んじて受け入れる」

 とマーガレットは言いそうなので、想像してしまうといじらしくて溜まらなくなった。

 執事は特命がなくなったにも関わらず、ジョイコット国でいろいろと策を弄している。きっとこれからの自分の立場を確立するためなのだろうが、ジャクソンにしてみれば、もうどうでもいいことに思えた。

「これからも私を助けてはくれないか?」

 と執事に言われたが、

「無理」

 と一言で執事を一刀両断にしてしまった。

 ジャクソンの思いは、

「マーガレットの気持ちにもなってみろ。お前を慕ってきた女性を、お前は切り捨てたんだぞ」

 と言いたいくらいであったが、グッと堪えて言葉を飲み込んだ。

 不謹慎であるが、

「お前がフッてくれたおかげで、俺に運が回ってきたんだ」

 という思いもあった。

 執事に対してそんな複雑な思いを抱いたまま、今までと同じように協力などできるはずもない。

「無理」

 という二言を絞り出すだけでやっとだったのだ。

 アクアフリーズ国で九データーが起こった時、実はクーデターの企ては、ある程度まで宮中では分かっていたようだ。混乱の中とはいえ、うまく四人がジョイコット国に亡命できたのも、その情報が役に立った。もし、完全に奇襲としてのクーデターが成功していたら、シュルツ、チャールズ、マリアはもちろんのこと、マーガレットも執事も、そしてジャクソンも囚われていたに違いない。

 それでもクーデターが企てられているという情報はあっても、いつ、どのようにという具体的なことは完全には分かっていなかった。逃走経路だけは確保していたので、たとえ離れ離れになったとしても、最終的には空港に入れればよかった。

 しかもその空港というのも、以前まで使っていて、今は使用禁止になった旧国際空港跡地だった。今はそこを軍部の練習場に使われていて、クーデター側からすれば、盲点だった。

 実際のクーデター発生時、想像以上の混乱に、やはり皆はぐれてしまった。他の人がどうなったのか分からなかったが、マーガレットのそばにはジャクソンがいた。

 マーガレットはそれを偶然だと思っていたようだが、実際にはマーガレットを守りたいという彼の気持ちだった。

――将来、国家から罰せられても仕方ない――

 という思いも強かった。

 それ以前に、ここで命を落とすかも知れない可能性が高かったからだ。後悔するくらいなら、自分の気持ちに忠実になりたいと思ったのだ。

 普段のジャクソンならそんなことは感じなかったに違いない。

――国家に逆らうなどありえないこと――

 と思っていたからだ。

 だが、今までにない緊張感と混乱を身を持って味わっている状態で、ジャクソンの中で何かが弾けたのだ。これまで国家のため、あるいは執事のためと思って行動するのが当たり前だと思っていて、この仕事が自分のすべてだとも思っていた彼にとって、マーガレットの存在は、そんな自分の気持ちを揺るがすに十分だった。

――どうしてこんな感覚になんかなるんだろう?

 自分が男であるということに気付くと、見えてくるものはマーガレットしかなかったのだ。

 マーガレットの方は、ずっとマリア妃に寄り添ってきた。二人は禁断の恋の中にいたのだが、それが本当の恋なのかどうか、疑問に感じていた。

 誘ったのはマーガレットの方。マリアは最初は躊躇していた。しかし、一度嵌ってしまうと、マリアの方がマーガレットから離れられなくなった。マーガレットは自分の征服欲が満たされたことで、達成感を感じていたが、そのうちに物足りなさも感じるようになった。

――私は征服欲だけでは物足りないんだ――

 と感じ、自分の貪欲さにウンザリしそうにもなっていた。

 だが、マリアを見ていて、それまで感じていた愛おしさを感じることができなくなっていた。これは、征服欲だけの問題ではなく、一つのことに満足してしまうと、急に冷めてしまうというもう一つの悪しき性格を持ち合わせているからだろう。

 それは貪欲さという言葉で表すには語弊があった。

「マリアが何かを教えてくれているんだわ」

 と思うと、マリアをこれ以上愛することができなくなった。

 その理由は本当は別にあった。

 マリアの中で執事への恋心が芽生えていたからだ。

 マーガレットはもちろんそんなことは知らない。人の心を読むことに長けているマーガレットだったが、こと自分が経験したことのない恋愛感情まで読めるわけではない。読んだとしても、実感が湧かないのだから同じことである。

 マーガレットにとってマリアへの思いが差檀されると、マリアはまるで解放されたかのように明るくなった。

 マリアの好感度は急に上がった。女子力もついてきていて、急に男性からモテ始めたのだ。

 もちろん、チャールズとの結婚前のことだったので、マリアには女性としての魅力が溢れていて、見る者を魅了するに余りあるだけの存在感があった。

 マリアに対しての求婚は増えていった。マリアは断り続けていた。最初こそ、チヤホヤされることで、さらに明るく振舞っていたが、ここまで求婚が激しくなると、男性に対して優越感を感じるようになっていった。

「逆ハーレムというのもいいわね」

 とマリアは思ったことだろう。

 相手を男性として見るわけではなく、まるで召使のように見ていると、これほどの快感はない。

――私って、Sっ気があるんだわ――

 いまさらながらに気付いたようだが、マーガレットには最初から分かっていた。

 だから、マリアのそんなSっ気を画し、自分だけのものにしたくて、マリアと関係を持った。Sのマリアを自分の前だけでは主従関係を確立させて、支配したいと思ったのだ。

 だが、マリアもそんなマーガレットの気持ちに気付いたのか、それとも根っからのSっ気が気付かせたのか、マリアはマーガレットを避け始めた。

 マーガレットも、その頃にはマリアに飽きを感じていた。

――ちょうどいい頃合いね――

 と感じたのも事実で、マーガレットには興味を感じなくなっていった。

 かといって二人の関係まで崩れたわけではない。大学を卒業したマリアは、そのままチャールズと結婚してしまった。

 マーガレットはマリア妃のおつきとして宮中に雇われ、マリアに尽くしていた。

――どうして私はこんなことをしているのかしら?

 マーガレットは自分の運命が自分でも分からないところで何かにあやつられているのではないかということに、その時気付いたのだ。

 だが、マーガレットもマリアの世話をするのを苦痛には思わなかった。Sっ気のあるマリアは宮中では、そのSっ気を発揮していた。他の召使の中には少なからず嫌な思いをしている人も多分にいたのだった。

「ねえ、マーガレット。私こんなんでいいのかしら?」

 Sっ気を表に出している時のマリアは、まるで別人だった。二重人格であることは間違いなく、そのために我に返って、マーガレットに自分の状況を聞いていた。

「別にいいと思いますよ」

 とマーガレットは答えた。

 これ以外の返答を思いつかなかった。もし思いついたとしても、それをマリアに告げることはしなかっただろう。

 けんもほろろに見える態度ではあったが、マリアはそれに対して何も言わない。ただ、自分に怯えているようだった。

「マーガレットは、本当に私のそばにいてもいいの?」

 マリアはたまにそう言い始める。

 この言葉がマーガレットには一番嫌であった。

――なるべく触れたくない過去の傷だ――

 と思っているからで、そのことに触れられると、心のどこかに痛みを感じた。

「いいわよ。私が選んだんですからね」

 と、こんな時でも虚勢を張っている自分をいじらしいというか、愛おしく感じるマーガレットだった。

 マリア妃は、チャールズから愛情を注がれているのは分かっていた。しかし、マリアが見ているところでは、その愛情に対してマリアはいまいち答えられていないのではないかと思った。

――チャールズ様は、よく我慢できるわね――

 と感じたのだが、マリアが果たしてチャールズの前でSっ気を出しているのかどうか分からなかったので、必要以上なことを考えるのは時間の無駄だった。

 マーガレットはたまにシュルツと会うことがあった。シュルツも娘のことを気にしていたようで、

「いいのか? このまま王宮にいて。お前には普通に結婚して普通の幸せを掴んでほしいんだ」

 まさに親心である。

 シュルツの本当を知る人だったらこの言葉を、

「シュルツ長官らしい」

 と思うのだろうが、それ以外の中途半端にしか知らない人であれば、

「意外だわ。シュルツ長官も普通に人の親だったということね」

 と感じることだろう。

 シュルツという男は、親密になればなるほど、分かりやすい性格だと言えるが、中途半端な付き合いの相手には、敢えて自分を悟られないようにしていた。

「それが国家の要職に就くだけの人間に器量というべきなのだろう」

 とシュルツは考えていた。

 さすがにマーガレットはシュルツの娘、その性格がそのまま遺伝しているようだった。

「マーガレットって、仲良くなればこんなに分かりやすい人はいないって感じるのよね」

 と、マリアは思っていた。

 実際にマリア以外にマーガレットの分かりやすい性格を知る人はいないと思われたが、実際にはジャクソンも看破していた。マーガレットと一緒に暮らすようになってからというもの、

「本当に分かりやすい性格だ」

 と言われ続けている。

「ねえ、私がこんなに分かりやすいっていつから気付いていたの?」

 とマーガレットがいうと、

「そうだなあ。結構前からだよ。大学時代からなんじゃないかな?」

「えっ、ビックリ」

 大学時代というと、ジャクソンと知り合ったのは大学卒業少し前だったので、ほとんど初対面の頃から看破されていたということになる。

――私のどこがそんなに分かりやすいのかしら?

 と感じたが、分かる人には分かるのだろう。

――欺こうとして欺ける相手とそうではない相手がいるんだ――

 と、気付いたことで、マーガレットはさらにジャクソンの気持ちを受け入れようという気持ちが強くなった。

 この頃には、ジャクソンの頭の中にはマリア妃のことはなかった。いかに目の前の女性を幸せにできるかということを考えていた。

――国家のことを考えるより、一人の女性を幸せにできるかどうかというのを考える方がこんなにも難しいなんて――

 とジャクソンはいまさらながらに、恋愛の奥深さを感じていたのだ。

 ジャクソンが初めて仕事以外で誰かを気にしたのがマーガレットだった。マリアにも気をひかれた時期があったが、それは錯覚であったと思っている。

 マーガレットに対しても、マリアに感じたような錯覚があったのかと思ったが、いつまで経っても、マリアに感じた時のような気のせいだという思いがこみ上げてこなかった。

――やはり私はマーガレットを気にしているんだ――

 と感じた。

 マーガレットは才色兼備で、誰からも好かれる性格だったが、逆に彼女のことそ嫌いになった人がいたとすれば、その根は深いのかも知れない。実際にマーガレットの近くに、彼女のことを嫌いになった人がいた。それがまだマーガレットが小学生の頃だったので、女性としての魅力というよりも、可愛らしさが目立つ年頃である。

 マーガレットは生育も早く、すでに小学生低学年の頃には初潮を迎えていた。四年生になる頃には胸も膨らみ始めて、同年代の人よりも年上の思春期頃の男の子からの視線が眩しかった。

 その視線はさすがに思春期の男の子らしく、いやらしいものであった。マーガレットは発育は早かったが、精神的な発育は他の女子と同じだったので、思春期の男の子の視線を気持ち悪いとしか思えなかった。

 その視線を感じていたのはマーガレット本人だけで、誰にも相談することもできず、一人で悩んでいた。マーガレットの今までの生涯で一番不安に感じていた時期がいつだったのかと聞かれると、

「小学生のこの頃だった」

 と答えるに違いない。

 そんなマーガレットのクラスメイトに、身体は幼かったが、精神年齢的にはすでに思春期に近い女の子がいた。彼女は心身のバランスが悪く、精神的に病んでいる時も身体に変調を起こしたので、何が原因なのか、医者にも分からなかった。精神的なことが原因であれば、それなりに治療法もあったのだろうが、まさか小学生低学年の女の子が思春期的な心を持っているなど、誰が想像できたであろうか。

 マーガレットは知らなかったが、彼女は中学に入る頃に父親が海外赴任となり、そのまま国外へと出て行った。その行先というのがジョイコット国で、父親はそのままジョイコット国専属になったことで、彼女もこの国に定住する形になった。

 今は何をしているかというと、ジョイコット国の軍に所属していた。

 ジョイコット国には女性の軍人も多く、彼女が所属していたとしても不思議ではない。中学に入った頃の彼女はすでに身体の方は成熟していて、同年代の男の子ではとても太刀打ちできるものではなくなっていた。

 当時のジョイコット国は、治安があまりよくなかった。女性の夜の一人歩きは危険であり、時々、都市圏では、

「女性の夜間外出禁止令」

 が出ているほどだった。

 ただ当時のジョイコット国は対外的には平和であり、戦争や紛争が近隣で起こっても、巻き込まれることはなかった。そのせいもあってか、国内の治安が悪かったのだが、本当は別の理由があった。

「ジョイコット国を制圧するには、外部から攻めるよりも、内部の混乱に乗じて攻め込む方がいい」

 という戦略をまわりの国は立てていたようだ。

 実際にジョイコット国を戦争に巻き込もうものなら、近隣の国が自国の防衛を脅かされるとして、ジョイコット国にどこかの国が攻め込めば、ジョイコット国の近隣諸国が団結して、その危機を排除しようとするからだった。

 だが、団結した国が明日は敵になる可能性もある。そんなリスクを冒してまでジョイコット国に侵攻するのはバカげていると、どの国も考えていた。

 そんなジョイコット国であるが、内部から揺さぶりをかけて、混乱を誘うというやり方は、いくつかの国で試みられた。クーデターを起こさせようとする作戦や、政府内にある隣国への派閥を敵対させることで派閥の一つを取り込もうとするやり方が考えられた。

 だが、ジョイコット国はそのたびに危機から逃れてきた。その時々で逃れ方は違うのだが、攻め込んでくる国が途中で路線変更を余儀なくされることが多く、初志貫徹できないことが作戦の失敗を招いていることがほとんどだった。

 そこにジョイコット国の国内スパイが存在していることが大きかった。まわりの国が送り込んだスパイをジョイコット国のスパイが仲間のふりをして近づき、スパイを翻弄する。他国のスパイはまさか自分が翻弄されているなどと思いもしない。スパイに来た国の中に、自国のスパイが存在しているなどと想像もつくはずないからである。

 ミイラ取りがミイラになったというべきなのだろうが、国内スパイも混乱させようとして送り込んだスパイから情報を得ていたが、それを使ってこちらから返り討ちにしてやろうなどと思うことはなかった。下手に動けば、自国のスパイ作戦が相手にバレてしまうからだ。あくまでも自国スパイという存在は、明らかになってしまってはダメであった。

 ジョイコット国は大きな国ではないので、自国に入ってきたスパイをミイラにしてしまうことはできても、他国にスパイを潜入させるような余力はなかった。だから、どの国から見ても、

「ジョイコット国に、スパイは存在しない」

 と思わせていたのだ。

 スパイを育てるには、それなりの施設や環境が必要だ。

 ジョイコット国は、それを軍部に委ねた。軍部の中でスパイを育てるという極秘部署が存在した。当然その中には成人男子だけではなく、女性や子供、老人までもが含まれていた。それぞれに教育を受けて、護身術のような訓練も受けていた。

 彼らは、かつてこの国に住んでいた、

「忍者」

 と呼ばれる人種と同じだった。

 存在を隠して、この世に潜んでいなければいけない。その存在が明らかになりそうになったら、自らで命を断ったり、密使によって暗殺されることを了承したうえで、彼らは任務を遂行することになる。

 したがって、彼らは家族からも拒絶され、本人は死んだことになっている場合も多い。天涯孤独の人がスパイになっているパターンも多いが、天涯孤独だというだけでなれるほどスパイというのは甘くなかった。

 訓練の中で脱落していくものもいて、彼らはスパイの存在を知ってしまっている、下手をすればその場で暗殺される運命にあり、暗殺されなれけれ、記憶を消去するという手術を受けさせられる事態になった。

 ジョイコット国で異様に記憶喪失の人が増えた時期があったが、それはスパイになれなかった人のなれの果てであり、交通事故が多発したのもこの時期だったのは、その理由をいまさらここで話す必要もないだろう。

 ジョイコット国で軍部に入隊した彼女は、入隊から二年後に失踪したことになっていた。家族はすでに国外におり、

「娘さんが失踪しました」

 と聞かされた父親は、

「そうですか」

 と答えただけで、探そうともしなかった。

 母親がちょうどその直前に亡くなっており、父親は放心状態になっていたからだ。父親はその後、その国で犯罪を犯し、留置されることになり、最後は獄中で病死するという運命をたどったが、彼女はそのことを知ることはなかった。

 失踪した彼女は、ジョイコット国のスパイになっていた。顔は整形していたが、身体は昔のまま、完全に男を魅了するには完璧だった。

「一度あの女の虜になると、死ぬまで忘れられなくなる」

 とまで言われた彼女は、闇の世界では有名だった。

 だが、彼女がスパイであるということは誰にも知られていないため、彼女が表に出てくることはない。彼女は伝説として言い伝えられる存在だった。

 それでも彼女は実在した。

 彼女が目を付けたのがマリア妃と執事だった。

 特に執事には他の人間にはない何か鋭いものを感じた彼女は、いきなり執事に近づくことができなかった。

 彼は生まれながらの執事であり、主に対しての従は、命がけそのものであった。もし彼に対して色仕掛で何かを仕掛けてきたとしても、まず靡くことはないだろう。

 そう感じた彼女は、まずジャクソンを仲間に引き入れようとした。ジャクソンは執事と違って、主と仰ぐ人はいない。確かに執事の命令に対しては忠実であるが、それはあくまでも命令に対して忠実なのであって、人に対してではない。彼女のような国内スパイが相手にするのは、人に対して忠実な相手ではなく、命令に対して忠実な人間をこちらの手中に収めることを任務としていたのだ。

 ジャクソンは、彼女と知り合ってから、それまで知らなかった世界を覗いた気がした。

 マーガレットを好きになってからの彼は、マーガレットに忠実になっていたが、それは今まで知らなかった愛というもののすべてがマーガレットの中にあると思ったからだ。

 ジャクソンは恋に関してはまったくの素人だった。マーガレットに対してが初恋だと言ってもいい。

 マーガレットも今まで誰かを好きになったということもなく、ジャクソンが初恋だった。お互いに恋に関しては不器用だったこともあって、そんなジャクソンを手玉に取るくらい、彼女にとては朝飯前のことだった。

――マーガレットに悪い――

 と思いながらも、

「身体に正直になればいいのよ。我慢することなんかないのよ」

 と耳元で囁かれては、さすがのジャクソンも太刀打ちできなかった。

――心さえ奪われなければいいんだ――

 と自分に言い聞かせたジャクソンは、それが一番嵌ってしまうキーワードであることを知る由もなかった。

 だが、ジャクソンは飽きっぽい性格でもあった。彼女に対して心身共に奪われてしまったのであれば話は別だが、身体だけが身を任せるつもりになっていたので、飽きが来る頃には、

――なんで俺はこんな女に夢中になっていたんだ?

 と感じていた。

 冷静になって考えると、彼女がなぜ自分に近づいてきたのか考えるようになった。普通であれば、自分を誘惑した相手を許せないと思い、絶縁状を叩きつけて、

「さよなら」

 と言って、踵を返して去って行けばいいのだろうが、ジャクソンはその時、一歩立ち止まったのだ。

――俺がマリアや執事と一緒にいるからなのかな?

 と考えると、すぐに彼女のそばから立ち去ることはできなかった。

――もう少し一緒にいて、彼女の真意を確かめてみよう――

 と思ったのだ。

 ジャクソンが冷静になってくると、今度は彼女がジャクソンに対して従順になってきた。彼女は今まで男を手玉にとってはきたが、自分に対して冷静になれる男などいなかったことから、ジャクソンが冷静になったということを分からなかった。ただそばにいて、

――こんなにしっかりとした逞しい男性だったのかしら?

 と、急に今までの自分の目線と違った目線で見直す気分になっていた。

 ジャクソンも、彼女が急に自分に下から見上げるような目線になってきたことに気付いていて、

――俺のことを尊敬のまなざしででも見ているのかな?

 と感じるほどだった。

 それからの彼女は、今まで言わなかったことを少しずつ話し始めた。もちろん、スパイなので、機密にかかわることやそれを匂わすようなことを言うはずもなかったが、言葉の端々で自分が今までと違った目で見ているのだということを匂わすように見つめていたようだ。

 彼女が子供の頃の話を始めた。それはマーガレットと同じ小学校に通っていた時の話だったが、彼女が自分たちの母国にいたことは伏せていた。だが、ジャクソンは勘が鋭く、彼女の出身国が自分たちと同じだということを看破していた。

――彼女は、マーガレットを知っているのでは?

 と感じた。

 だが、マーガレットを知っているというのは、子供の頃のマーガレットを知っているというだけのことなのか、それとも今、マリアや執事、自分と一緒にこの国にきたマーガレットを知っているということなのか。もし後者だとすれば、今自分と一緒にいるということまで看過しているというのとなのか、そのあたりの真意がまだ分かっていなかった。

 だからと言って、直接聞くわけにはいかない。あくまでも彼女が自分が国内スパイであるということを隠さなければいけない立場だということはジャクソンも分かっていた。

 ジャクソンはこの国に入るまで、そして彼女と知り合うまでは、この国にスパイが存在しているなど想像もしていなかった。特に彼女はジャクソンの知っているスパイというものとはかけ離れているように思えた。それは彼女だけがそうなのか、それともこの国に存在する国内スパイという特殊なスパイ活動のせいで、この国のスパイ皆がかけ離れて見えるのかというのも分からなかった。

 何しろ、彼女以外のスパイを知らないからである。

 国民の中に紛れているので探すのは困難だ。他の国であれば、必ず母国から潜入したスパイが元締めとなりスパイ活動が展開されているので、全体を見ればスパイはおのずと行動が分かるというものだが、この国では皆が同じ民族なので、それを看破することは難しい。

 それが、ジョイコット国という国の特徴であり、小国の生き残るうえで考えられた工夫ということなのであろう。

――彼女がマーガレットと接触することはあるのだろうか?

 接触するとどうなるのか、想像してみたが、やはりできなかった。

 マーガレットと彼女では、育ちがあまりにも違いすぎる。スパイの彼女はずっと影のように暮らしてきて、今でも影に徹している。彼女を見ているとその行動が誰のためのものなのか、まったく分からなかった。

――誰のためでもないのかも知れない――

 影というものは、意志を持っていいものなのか、ジャクソンは考えていた。

 影のように生活してきた人間を、ジャクソンはたくさん知っている。もっともそれは今の立場になってから知る機会が増えたからであって、子供の頃から影に徹していた人をまっすぐに見ることができなかった自分を意識していた。

――いや、目を背けていたくらいだった――

 と感じるが、子供の頃というのは見たくないものを見なくてもいい唯一の頃だったのかも知れない。

 子供の頃のジャクソンは、正義感に燃えた男の子だった。絶えず表に出ることを考えていた彼には、マーガレットやマリアがいつも眩しく見えていた。

 執事を見ていて、彼の存在を尊敬に値すると思っていたが、

――俺はあんな風にはなりたくない――

 といつも思っていた。

 自分が日陰に甘んじるなどありえないと考えていたからだった。

 また、ジャクソンは実直な性格で、曲がったことが嫌いでもあった。そんな彼を変えたのはマーガレットの存在だった。マーガレットはいくら亡命国王とはいえ、かつての国王であるチャールズの側室である。そんな彼女に恋をして、一緒に暮らしているというのだから、実直な性格のジャクソンにしてみれば、まるで自分に対しての裏切り行為にも感じられた。

 彼は必至でその思いを打ち消そうとしていた。普段から冷静沈着なジャクソンが、マーガレットと暮らし始めてから、どこか情緒不安定なところがあった。

 会話に一貫性がなかったり、人の話をまともに聞いていなかったりと、彼を知る人にとっては、信じられないような変貌ぶりだった。

 まわりの人はジャクソンがマーガレットと一緒に暮らしているのは知っていた。しかしそれは亡命先での側室の運命を少しでも和らげるための偽装同棲のようなものだと、まわりは解釈していたのだ。

 マーガレットとジャクソンの関係は、誰も知らないと言ってもいいだろう。マリアでさえ、二人が愛し合っているなどということを信じられないと思っていた。

 ジャクソンはマーガレットと暮らし始めて、今まで感じたことのなかった癒しを感じるようになった。

「俺も人並みの感情があるんだな」

 と自分に言い聞かせていたが、その思いはマーガレットにも伝わっているようで、彼を見るマーガレットの目はさらに細くなっている。

 そんな時、マーガレットの前にスパイの彼女が現れた。

「お久しぶりね。マーガレット」

 最初に声を掛けてきたのは、スパイの彼女だった。

 最初は誰なのかまったくわからなかったマーガレットだが、彼女がこぶしを握ったその後で、親指と小指を伸ばしたポーズをしたことで、

「あら、メルシーじゃないの。確か小学生の頃、一緒だった」

「ええ、それ以来ね」

「確かあなたは、小学校卒業して少しして海外に引っ越していったわよね?」

 というマーガレットに、

「ええ、よく覚えていたわね」

「ええ、海外に引っ越していく人なんて、そうはいなかったので、私には印象が深かったわ」

 というマーガレットの言葉を聞いて、

――そういう印象でしか私のことを覚えていないんだわ――

 と感じたが、ずっと影の存在であったメルシーには、そう言われる方がありがたかったのだ。

「今の私は改名して、ナンシーと名乗っているわ。だからナンシーと呼んでね」

 とメルシーは言った。

 彼女は普段はナンシーという名前で行動しているが、影となってスパイを重ねる時は、本名のメルシーを使う。それだけ本名であるメルシーを影の中に押し込んでおきたかったのかも知れない。

「分かったわ。ナンシーね」

「ええ」

「マーガレットはどうしたの? 確かあなたはアクアフリーズ国で王宮に入ったというウワサを聞いたことがあったわ」

 マーガレットが王宮に入ったということは、学生時代の友達には話をしていたので、別に非公開にしていたわけではない。ただ、国王の側室になっているということは誰も知らないだろう。

――木を隠すには森の中――

 ということわざがあるが、一つのウソは、それ以外の真実で隠すのが一番いいというわけである。

「ええ、あなたも知っているかも知れないけど、あれから軍事クーデターが起こって、私たちは亡命を余儀なくされたの」

 というと、

「それで、このジョイコット国に逃れてきたというわけね」

「ええ、そうよ」

 マーガレットは、いきなり声を掛けてきた、小学生の頃の記憶しかない相手が自分のことをどこまで知っているのかに興味があった。

 ずっと忘れていた相手の顔を覚えているわけもなかったマーガレットに比べ、十年以上も経ってから、しかも、幼少の頃と変わり果てている自分をすぐに分かったというのもおかしなことだった。

――前から私のことを意識していたのかも知れないわ――

 と思ったが、それならそれでどうして声を掛けてくるのが今のタイミングなのか、不思議だった。

――今声を掛けるだけの、何か理由があるのかも知れないわ――

 とマーガレットは感じた。

 マーガレットはメルシーにいろいろと感じるところがあったが、今このタイミングであれこれ聞くことはできなかった。相手が何を企んでいるのか分からないが、もし何か企みが本当にあるのだとすれば、今はそのことを悟っていると、相手に分かられるのは得策ではないと考えたのだ。

 マーガレットはメルシーとの再会を偶発的なものではあるが、今回で終わるはずはないと思っていた。敢えてお互いに連絡先を交換することはなかったが、アイコンタクトのようなものを感じた。

 それはお互いに、これが最後だとは思えないというもので、変なところで意識の共有を感じたマーガレットだった。

――ふふふ、これでマーガレットのことは意識し続ける必要はないわ――

 とメルシーは感じた。

 メルシーには自分なりの計画があった。それはスパイとしての計画ではなく、むしろスパイではない自分が考えた計画であった。

――スパイの私にはきっとできないことなんだわ――

 と感じていたが、メルシーは決して二重人格者ではなかった。

 スパイとしてのメルシーは、最後まで自分の性格を押し通したスパイだった。まわりの人が普段のメルシーとスパイのメルシーの両方を知っているとすれば、

「まさか、あの二人が同一人物だなんて」

 と思うに違いない。

 だが、それは見る人の立場が同じ立場だからである。角度がついてしまうと、見えない部分が目立つため、さらに角度をつけてでも見えやすくしようとするはずである。それがメルシーの人格掌握実の一つでもある。相手に錯覚を植え付けるというのも一つの方法だからだ。

 メルシーは、子供の頃から鏡を見るのが嫌いだった。だが、スパイになってからは毎日のように鏡を見る。

 それは、そこに写っている人が、知っている自分とはまったく違う人になっているからだ。

――これが本当の私なんだ――

 と、鏡の中の自分に言い聞かせる。

 すると、

「いいえ、違うわよ。私はあなたであって、あなたではないのよ「」

 と返事が返ってくる。

 メルシーは、

「そうだったわね。あなたはメルシー。ナンシーではないのよね」

「そう、あなたの知っているメルシーでは私はないの。そういう意味では、これが本当のあなたなのかも知れないわね。でも、それは私には永遠に分からないこと。私はあくまでも鏡に写ったあなたでしかないんですからね」

 と、鏡の中のメルシーは言った。

 その言葉は実に冷静で、笑っている顔なのだが、恐怖に歪んでいる顔にも見える。

――私なら、こんな表情できっこないわ――

 とメルシーは思ったが、鏡の中の自分だからこそできるのだとも言えた。

――夢を見ているのかしら?

 そもそも鏡を見るようになったのは、夢の中に鏡が出てきたからだ。

 夢の中で見た鏡の向こうに写っている姿、それは自分が知っているメルシーだった。

 だが、その性格はまったく正反対で、本当の自分を完全に毛嫌いしていた。

「あなたが鏡なんか見たりしなければね。私を知ることもなかったのに」

 と、夢の中で鏡の向こうのメルシーが言った。

 夢から覚めた瞬間、夢の内容は完全に忘れていた。だが、この言葉だけが印象に残っていて、自分が鏡に写った自分を見ていたという状況だけがこの言葉から推測できるのだった。

 スパイになってから、メルシーは夜寝るのが怖くなった。

――寝ている間に誰かに殺されるのではないか――

 という思いが根強くあって、普段は、

――スパイをすることに決めた時から、殺されるのも覚悟しているし、死ぬことへの恐怖なんてないわ――

 と感じていたにも関わらず、眠りに就く前のメルシーは、その時初めて恐怖がよみがえってくるのだった。

 元々スパイをしようと思ったのは、鏡に写った自分にそそのかされたからだった。

「あなたは、このままの自分でいいの?」

 普段から鏡を見ることを避けていたのに、その時は不覚にも目の前にあった鏡に目を奪われてしまった。その時、急に当たりが暗くなり、そばにいるはずの日との姿は闇に消えていった。完全に自分だけが別世界に入り込んでしまったのだ。

 その世界には影はなかった。

 いや、影がないわけではなく、すべてが影だと言ってもいいほどの暗黒の世界だった。何も見えないことでその空間がどれほどの広さなのか分からない。だが、不思議と恐怖はなかった。

――目が慣れてくるまでの我慢だ――

 ということが分かっていたからだ。

 メルシーは恐怖に陥ったりすると、急に開き直れることがある。冷静になって考えると、怖いと思っているにも関わらず、冷静に考えることができる。冷静にならなければ、まわりを支配している闇に自分の存在を飲み込まれてしまうと考えるからだろう。

――私は、スパイの自分を凌駕できなければいけないんだ――

 とメルシーは考えた。

 スパイというのは、いつ誰に殺されても仕方のない運命で、影の存在なのだから、戸籍もない。秘密裏に殺されても誰もその事実を知ることはない。

「じゃあ、どうしてそんな運命に身を任せるんだ?」

 と言われることだろう。

 影の存在を作り上げた政府のお偉方には、影の気持ちなど分かるはずもない。だから、彼らは影の存在に報酬を与えて、任務の遂行へ気持ちを高ぶらせられると思っていた。

 確かに任務に成功すれば、十年近くは遊んで暮らしていてもおつりがくるくらいの報酬を得ることができる。

 だが、影はそんな報酬につられるわけではない。かといって地位や名誉に興味があるわけでもない。何しろ存在すら明確ではない自分たちに、地位や名誉など、何の役に立つというのだろう。

――隔離できるんだ――

 メルシーはそう思うようにしている。

 では、隔離とは何から何を隔離するというものなのか、最初は本人にも分からなかった。

 ただハッキリしていることは、スパイを始めてから見る鏡の中の自分は、本当の自分を映しているわけではない。しかも、被写体になっているこっち側の自分も、本当の自分ではないような気がする。

――それが影というものなのか?

 自分でも自分を隠しているという意識を感じている自分と、感じていない自分の二種類がいることは意識していた。

 それは二重人格だという証拠ではない。むしろどちらも本当の自分ではなく、影に徹している時の自分が幻影となって表れているにすぎないとメルシーは感じた。

――ひょっとして写っていたのはマーガレットなのかも知れない――

 と思うと、無性にマーガレットに遭いたくなった。

 これがメルシーがマーガレットを訪ねた一番の理由だった。

 メルシーはマーガレットに近づいた理由は、シュルツからの情報を得ることと、マリアを監視することが目的だった。シュルツからの情報はさすがに難しいと思えたが、マリアを監視することはさほど難しくないと思われた。

 メルシーはすぐにマーガレットと仲良くなった。マーガレットはジャクソンと一緒に暮らし始めてから、急に自分の世界が狭くなった。別に結婚したわけでもないのに、家庭に収まってしまったような感覚は、それまでのマーガレットにはなかったものだ。

――なんとなく寂しい感じだわ――

 自分の行動範囲が急に狭くなると、そんな風に感じるのだが、行動範囲が広かった頃も絶えず寂しさを感じていたのを思い出していた。

 ただ感じる寂しさは種類の違うもので、行動範囲の広かった頃の方が、寂しさは少なかったように思う。その代わり、不安が絶えず自分の中にあって、その理由を今となって思うと、

「人と接していても、いつも冷めた目でしかまわりを見ていなかったからなのかも知れない」

 と感じていた。

 人と接するということは、どうしても打算的に考えてしまう。

――見返りは求めてはいけないんだ――

 という思いはあった。

 その思いがあったからこそ、余計に打算的に考えたのだろう。見返りを求めないという思いが自分を意固地にさせてしまったのか、自分が相手を探ろうとしているくせに、人から探られようという態度が見えると、完全に冷めてしまうからだった。

――冷めないようにするにはどうしたらいいだろう?

 その態度が表に出ているような気がして気になっていた。

 だが、最初から打算的にものを考えていれば、違った意味での冷めた目で相手を見ることになり、本当の意味での冷めた目を隠すことができる。

――木を隠すなら森の中――

 まさしくその言葉通りだった。

 ただ、普段から打算的に考えていると、自分が人よりも先に立って前だけを見ているような気がしてくる。つまりは後ろから見られていても、その視線を背中でしか感じることができないという思いであった。そのため、不安に陥るのではないかとマーガレットは感じていた。

 そう思うようになったのは、ジョイコット国に亡命してからのことだった。それまでは、マリアのそばにいて、王宮という場所に守られて過ごしていたので気付かなかった。クーデターはまさに青天の霹靂ではあったが、マーガレットクラスになれば、

――あらゆる場面を想像して――

 という意識を持っていたこともあって、その対処にしても、青写真はできていたはずである。

 実際に考えはあった。しかし、想像と現実ではまったく違う。刻々と変わっていく状況に、想像していたことなど、ついてこれるはずもなかった。気持ちだけは意識の中にあったとしても、最悪を想像するなど、そう簡単にできることではなかった。

 そういう意味では、マーガレットはメルシーほど訓練も受けていないし、覚悟も中途半端であった。今まで自分以上に覚悟や冷静に周りを見ることのできる人を見たことがなかったので、メルシーの出現はマーガレットにとっては衝撃だった。

 父親のシュルツは、覚悟も最悪の場合を考えることにも長けていた。そんなシュルツの娘だから、余計に自分もしっかりしないといけないと思う。

 しかし、実際にはそうもいかない。なぜなら、シュルツは自分の父親である。父親というと、どうしても娘に甘くなるのは仕方のないことだ。マーガレットが最後の壁を超えることができなかったのも、親子というどうしようもない関係が、マーガレットに甘さを残したのかも知れない。そのため、マーガレットは絶えず寂しさという壁を超えることができないでいたのだ。

 マーガレットは、ジョイコット国にやってきて、頼れる人はジャクソンだけだった。肝心の執事はマリアにかかりっきりで、自分の身は自分で守らなければいけない状況に陥りそうになったマーガレットだ。

 マーガレットは、ジョイコット国に来るまで、ジャクソンの存在は知っていたが、実際に話をしたこともなければ、どんな人なのかも知らなかった。要するに興味がなかったのである。

 だが、実際にそんなことも言っていられない状況になってきた。マーガレットも今はまだ自分がシュルツの娘であるということは幸いにも知っている人はごくわずかだったが、何か有事が起こったり、クーデターなどが起こりそうな不穏な空気になった時は、マーガレットという存在は格好の標的だった。

 マリアは元妃だということではあったが、国王が退位して亡命した瞬間から、その存在価値はさほどのものではなくなった。却って参謀であるシュルツの価値が上がってきたことで、戦略的なキーポイントになるのはマーガレットである。

 ジャクソンがマーガレットにメルシーを引き合わせた時、ジャクソンはどこか嫌な予感があった。会わせるまでは何も感じなかったし、引き会わせた時も、あまり何も感じなかった。しかし、二人きりにして、自分だけがその場所に取り残されたその時、嫌な予感が巡ってきたのだった。

 何かの根拠があったわけではない。二人を引き会わせて、自分が取り残されたという主観的な気分になった時、急に寒気のようなものが湧いてきたのだ。

 会った二人が自分たちだけの世界に入ることは往々にしてあることで、引き会わせた人が一人取り残されるのは別に珍しいことではない。ジャクソンも今までにも何度か経験をしたことだった。ただ、それは仕事という意味でのことであり、プライベートに関してのことは一度もなかった。

――そういえば、俺にプライベートなんて思い、ずっとなかった気がするな――

 子供の頃から国に尽くす人間になりたいという思いを持っていたジャクソンは、子供の頃から政治家になりたいと思っていた。途中で軍人になりたいと感じたこともあったが、軍人と政治家というのは仲が悪く、実際に国のためになっているとすれば、軍人というよりも政治家だという思いを強く持っていたので、軍人への道は自分の中で閉ざしてしまった。

 もう少し母国が軍国主義の国であれば、軍人に憧れたかも知れない。しかし、歴史が好きだったジャクソンは、母国の歴史を勉強しているうちに、

「軍人ではダメだ」

 と思うようになった。

 母国の歴史はクーデターが幾度か繰り返された歴史があった。その都度失敗している。軍隊によって鎮圧されたのだが、その軍隊を後ろで操っているのが政治家だった。

 母国の軍は、政治家によって動かされていた。

 他国から侵略を受けたり、国家非常事態ともなれば、国王に軍隊を掌握する権利が与えられるが、平時では国王が軍を動かすことはできなかった。

 だからといって、政治家がいつも正しいとは限らない。

 だからこそクーデターが頻繁に起こっているのだ。

 歴史を勉強すればするほど、その時代ごとの政治家が程度が低いことを思い知らされる。そのたびに政党が頻繁に変わっていて、国の体制が変わってしまうこともあった。

 母国はずっと王制を敷いてきたが、国王はある意味ほとんど名ばかりであり、象徴的な色が深かった。それでも時と場合によって、その権力は絶大になり、他の国の絶対王制の国王の権利よりもさらに広い権利が与えられたりもする。

 だが、そんな状態に実際になったことは、ほとんどなかった。クーデターが頻繁に起こっても、国王に軍を掌握する権利は、クーデターでは起こらない。最終的な決定権は国王になるのだが、そこまでに上がってきた政治家で決めた結論を、国王は承認するだけだった。

 母国には憲法というのが存在しない。王家の法律がある意味憲法に近かった。その法律は王家を取り締まる法律であり、国民はこの法律で裁かれることはない。逆に国王は私法で裁かれることはないが、王家憲章で裁かれる。私法に比べて王家憲章の方が圧倒的に厳しいものである。そういう意味で王家は、

「かごの中の鳥」

 同然と言ってもいいだろう。

 母国は、他の王国とは明らかに違った特徴的な国家であった。マリアもそんな王家で育ったので、少し変わっていたのだが、チャールズはそんなマリアを甘んじて受け入れていた。

「マーガレットでなければマリアの相手は務まらない」

 とまで言われたほどで、二人の関係は他の人が立ち入ることのできないほどのものとなっていた。

 マーガレットは、亡命してからマリアと離れ離れになってしまった時期があった。

「何とか早く、マリアを探さなければ」

 といろいろな手を尽くして捜索したが、混乱の中ではぐれてしまったのだから、そう簡単に見つかるわけもなく、亡命した他の人に紛れて、しばらくはおとなしくしているしかなかった。

 メルシーは、その頃、マリアと接触していた。マーガレットもジャクソンもマリアがメルシーと面識があったなど、知る由もなかった。命からがら亡命してきて、頼れるのはメルシーだけだったマリアとしては、完全に命の恩人であった。

 そんなメルシーのいうことは、できるだけ聞いてあげるしかないマリアだったが、メルシーもマリアに対してそんなに無理なことを言わなかった。

 メルシーのマリアに対しての気の遣い方は半端ではなく、マリアが不安にならないように絶えず工夫していた。

 ただ、それもマリアが自分に対して余計なことを考えないようにさせるための計算であり、こんなご時世だからこそ、余計にマリアはメルシーのことを信頼していた。

 マーガレットがマリアと再会した時、メルシーはマリアのそばにはいなかった。

「もうあなたは大丈夫なので、私がそばにいなくてもいいわね」

 と、マリアに別れを告げようとしたメルシーだったが、

「えっ? どうしたの? まるで私の前から消えるような言い方じゃない。私にはまだあなたが必要なのよ。どうしたっていうの?」

 と、マリアは焦ってメルシーが今の言葉を否定してくれるのを待った。

 だが、メルシーは否定するどころか、

「私は他にやらなければいけないことがあるの。またすぐに戻ってくるから、待ってて」

 と言って、しばらくの間、マリアの前から姿を消していた。

 その間にマリアとマーガレットは再会したのだが、マリアの目の前にマーガレットが戻ってきたことで、マリアの頭の中でメルシーへの思いが少しずつ変わって行った。

――マーガレットがいるから、メルシーがいなくても大丈夫だわ――

 と感じるようになったのだが、マリアはそんな風に感じてしまった自分に愕然とした。

 あれほど慕っていたメルシーへの思いが、マーガレットの出現で知りすぼみになってしまっているなどと考えると、

――私も女なんだわ――

 と思うようになった。

 マリアは、普段から自分をオンナだとは思っていなかった。

 女というと、どうしても弱いところがあり、男性にすがらなければ生きていけないという思いがあった。

 マリアはそんな女が嫌いだった。自分はそんな女ではないと思っていた。だから、マリアのまわりには女性が多く、マリアを慕っているように見えていたのだ。それは妃の頃のことであり、状況が変わった今でも同じことが言えるのかと言われると、自信が持てないマリアだった。

 マリアは、混乱に紛れている間、自分の強さをそこで証明しようと思っていた。

 実はマーガレットとはぐれたのは、マリアの計算でもあった。

――マーガレットがいれば私の本当の自分を永遠に見つけることはできないわ――

 という思いから、マーガレットとわざとはぐれたのだ。

 だが、それは浅はかであったことを、マリアは早い段階に理解し、後悔の念に襲われていた。

 クーデターによる混乱がいかにひどいものであるか、想像以上だった。

――死を背中合わせにしながら、どうやって生きていけばいいんだ――

 と、途方に暮れてしまった。

 クーデターが起こってしまうと、それまでの王妃としての立場も権力もゼロになってしまう。

 逆にクーデター分子からすれば、かつての支配階級の人間は、すべて排除対象になることを意味しているだろう。見つかってしまうと、処刑が待っているという状況に、すでに他人事ではないと気付いているマリアは、余計なことを考えないようにしていた。

――余計なことを考えるから、苦しいんだ――

 と思ったからで、自分が何を考えているか分からないふりをしていれば、審議に引っかからないとマリアは思っていた。

 メルシーが現れたことで、自分への死の恐怖が次第に薄れていった。完全にメルシーが築いてくれたマリアのまわりの見えない壁によって、マリアには生命の危険は目に見えないほどにまで小さくなっているようだった。

 メルシーが自分の前からいなくなったとしても、それは自分の存在を打ち消すかのように過ごしてきたメルシーに出会う前に戻るだけなので、それほど気にすることではなかったのだ。

 マーガレットと再会したとはいえ、二人の関係はかつてと比べれば完全に冷めきっていた。

――これでいいんだわ――

 と、マリアは一人でいても、他の誰かがそばにいたとしても、どっちでもいいように思えてきた。

――まるで他人事だわ――

 と、これがマリアの発想だった。



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