69話

 男の名は、記録に残っていない。ある幽霊画の裏側に残った「S.D」というサイン、それだけが男の生きた痕跡であった。


 絵筆を執る父の背中が、彼の原風景だった。ゆえに志はたったひとつへ向けて駆け、矢がまっすぐに飛ぶように、純粋に目指した――しかしながら、彼は何も得られなかった。芸術家になることはできず、名声を得ることもなかった。



――写実ならば写真でよい、切り口がないのならば人でなくともよい。

――万人に、あるいは通に届く“妙”がない。



 彼の受けた評は、「凡人である」という点を異口同音に唱えていた。


 彼は、彼自身の伝えるべきものを持たなかった。光量の変化を追うでもなく、同じ風景の移り変わりをグラデーションのように描くでもなく、新たな表現を模索するでもない。ただ学んだ技法のままに、目に見えたものをそのままに描いた。


 あるいは、歌人のごとくに素直さを評価されるのであれば、そのような絵画のありかたとして評されることもあったかもしれない。しかしながら、写真に劣る写実、あるいは感動を覚えることのない芸術は、何にもなり得なかった。だからこそというべきか、彼の作品は老境の……晩年の一作のみが残っている。


 彼は仕事に就き、そちらでも大きく名を残すことはなく、ただあくせくと働く日々を送った。芸術に携わるでもない日々にうっぷんが溜まっていく、ということもなかった。ぽっきりと折れた彼の心がもう一度芸術を志すことも、逃げ道に美の追求を見出すこともなかった。


 青年の日のこと、彼は学校で「いつか個展を開く」と豪語した。彼が芸術家の息子であると知っていた同級生たちはおおいに感心し、それを心待ちにしていた。年を追うごとに減っていく同級生たちに、同窓会のたびにせっつかれたが……彼が恋焦がれた少女は、老境を迎えることなくこの世を去った。情熱の火にくべる最後の動機まで失った彼は、ただ穏やかな日々を過ごした。


 人の実質労働が減り、予期せぬ形をとることもあるが、才あるものの手で芸術が芽生えることも増えた――ならば、凡中の凡たる己に役目はない。草原にあって緑化を考えるものはあるまい、当然の発想だろう。


 転機が訪れたのは、晩年……ほんとうに最期のことだった。


 仮想世界に空想の翼を広げるだけでなく、現実に宇宙まで進出した人類は、そしてあり得べからざる危機に直面した。なぜか別宇宙とのワームホールが開いたかと思えば、五つの地球がそれぞれ異なる周回軌道で回り、しかしとある座標にて完全に重なり合うという計算結果が出た。


 三百日。それが、突如として突きつけられた余命であった。


 実際には重力バランスが崩壊する数日前までに、人類は完全に滅びることになる。開発が進んでいたサテライトコロニーは、地球の重力圏から脱出するという賭けに出ることになった。最先端技術として研究が進んでいた、もはやファンタジーとしか思えない不可思議なものどもも、地球での研究を終えて実用化の段階に入った。


 表向きには、コロニーは「未知の惑星を探査する」という目的で作られたとされていた。一般人は何も知らず、滅びゆく星に閉じ込められた。


 わずかに良心の呵責があったもの、あるいは残酷な喜びを知りたがったものは、人に「明日死ぬとしたら、何をしますか?」と尋ねることがあった。いよいよもって地球同士の衝突が避け得ぬと知った一般人たちは狂乱し、泣き叫んだ。しかし、死ぬ定めを知って落ち着くものもあった。


 彼は、昔そうしたように絵を描いた。いつか見た絵を思い出しながら、ごくありふれたモチーフをたった一枚だけ書き上げて、そこで筆を置いた。死が迫った日に描くのが幽霊画などと、あまりにも悲観が過ぎる……そのように自嘲したものの、彼が思い浮かべるものはそれだけだった。


 志半ばで逝く自分と、ただ焦がれた女の姿。幸せな結婚、そして子宝にも恵まれた彼女は、自分を待ってなどいないだろう。未練をかけらも残さずに去った彼女の姿をこのように描くなど、冒涜だとも思えた。


 女に見たものと、モチーフに込めた思い。


 彼は、はじめて芸術を描けたと確信した。


 そして、地球は滅んだ。




 壊滅後の惑星から回収された芸術品は、時代の変遷こそあれど、正当な評価を受けた。ただ物珍しさから価格が高騰することもなく、アーカイブに残っていた品の本物がきわめて高いコストをかけた半永久的保存処置を受けるなど、適切な取り扱いがなされた。


「独自の観点を持った焼き直し」。


 彼の作品もまた、正当な評価を受けた。


 ところがある日、アーカイブの管理者は、この絵が増えていることに気付いた。電子データとしても保存され、物質としても博物館に寄贈されたそれが、なぜかある士官の部屋にも飾られていた。流通ルート自体に不審な点はなかったものの……大した魅力もない絵を模写して売ったという事実は、これが生活空間にそぐわぬことも加えて、より逸話に不気味さを添えていた。


 それからというもの、絵を飾るべき場所が増えるたび、この幽霊画は増えていった。旧時代に語られた呪いのように、それはいつの間にか増え、どこからともなく現れる。減らすことができず、実験や興味本位での試行を繰り返すたび増えていく。数百、数千と増えたそれを表現する言葉は、もはや「本物」以外になかった。


 霊を描き、霊を宿したそれは、ただひたすらに思考を続けている。


――この絵わたしは、いったいどのようにあるべきなのか。


 くすぶる疑念は、いま少女を焼いていた。

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