16話

 髪を梳いてもらうのが心地よくて、眠くなりそうだった。姉はにこにこしながら楽しんでいて、髪を乾かし終わったところでリビングに行く。


「妹だし、ひざに乗せちゃうぞー。ほら乗って」

「いいのかなぁ」


 言いながら乗ると、後ろからきゅっと抱きすくめられた。胸をふにっと当てつつ、肩にあごを乗せている。


「このマシュマロ感、たまらんわぁー……ぐへへ。下乳が最高なんじゃあ」

「言ってることがおっさんくさいよ……」


 暖かくて気持ちいいのに、せりふでちょっと緊張が増す。言うわりに変なことはしていないけど、脇腹の上あたりをむにむにされていた。


「ちょっと前まで弟だったのにーとか、思わない?」

「小学生までお風呂いっしょだったし。だいたい、こんなにされといて反応が薄すぎないかなー? おへそとか太ももとかやったろか」

「やだよ」

「わかってるよ」


 友達でも兄弟でも、それこそ恋人でも、ここまで濃い接触なんてしなさそうなのにな、と思っている。姉の距離感はいつも近いけど、今日は近すぎるくらい近かった。


「カルヤ、そういえば名前はどうするの」


 母さんが料理しながら言った。なんとなくで聞いた言葉が、じわっと入ってくる。


「え? あー、そっか……変わるんだよね、名前」

「そうよ。男の子っぽい名前だもの」


 性潜性児の出現で、戸籍情報の変更届を出すハードルはそれなりに低くなっている。性徴顕化が起きた旨の診断書はあるので、名前と性別を変更すればそれで処理は終わる。この時期になるとものすごく増える処理なので、市役所は戦々恐々としているらしい。何かしら心境の変化があると、性徴顕化が起こる――卒業や入学、そして遺伝子のスイッチが入るタイミングは、不思議なほど一致しやすいのだそうだ。


「か、えっと……カリナ、とか?」

「カリナ、うん……いい感じじゃない? どう、お母さん」

「いいと思うわ。元からあんまり変わってないから、呼びやすいし」

「決まり?」


 ちょうど料理ができあがったタイミングで、父さんも帰ってきた。


「ただいま! おっ、ちょうどご飯か」

「おかえりなさい!」


 元はプロゲーマーで配信者だったという父さんだけど、結婚してからはプロデューサーやテストプレイヤーに回った。すごい激務だから、二日三日と家に帰ってこないこともある。心からゲームを愛している、俺が尊敬するゲーマーの一人だ。


「男がおれ一人になったなぁ。寂しいよ」

「こらー、カリナはこんな美少女になったんだしさー、喜べおやじぃ!」

「そうか、そう……カリナか。現代っ子だもんな、TSもするよなぁ」

「私たちの同級生もけっこうTSしてたじゃない」


 ここ五十年の話題なので、性潜性児は父さんたちの世代にもいたはずだ。見ていると、父さんは「そうなんだよなぁ」と語り出した。


「おれの世代だと、まだ中性的な制服がきっちりできてなくてなぁ。先週までセーラー服着てた女の子が益荒男になったり、詰襟がカッコいいやつが深窓のご令嬢みたくなったり。今だと申請したらユニセックスでいいんだろう? カリナは着てなかったけど」

「いや、だって分かんなかったし……」


 擬性器デミジェニタルと呼ばれる未発達のペニスのようなものがあるので、性潜性児は「生まれたときから一次性徴ができあがっている顕性男性」と勘違いされることも多い。尿がそこから出たり、睾丸が体内にある男性とみなされたりもするので、余計にややこしいのだ。遺伝子検査をするのがいちばん手っ取り早いが、潜性だと分かったところで、「それらしくない子供」をどう扱うかはいまだ頻繁に取りざたされる話題だ。


 父さんの言った中性的ユニセックスファッションは、ある意味で救済措置のような気もするけど、結局自分が何なのかは「決まるまでそう見えにくい」ままだったりする。言ってしまえば、性転換なんて起きていない……分かりにくい「潜性」が、見た目に分かりやすい「顕性」へと急激に変わるだけのことだった。


「女の子にはなれそうか? ゲームはどっちでやった」

「ん……『ナギノクイント』は、体形あんまりカスタムしてないよ」

「そっちで慣れていく方向か。お前なら友達もすぐできるだろうし、VR空間でなら現実より抵抗も少ないからな……」

「そ、そこまでは考えてないけど」


 いつものように、父さんは「アバターを信じろ」と言った。


「あれはな、ゲームをやるときの心構えってだけの話じゃないんだ。現実じゃ絶対できないことをやれるからこそ、「先へ進む」ってことができる。こううまくは行かないってことも分かったうえで、練習できるツールだ」


 ゲームが大好きで、好きが高じて仕事にした人の言葉だった。


「こうだって考えたらこう動く、こうかもってことを現実よりずっと簡単に確かめられる。それに、別人だけど自分なんだ、アバターは。こうじゃないかもしれない、と思えることがいくつも出てきたら、それも相談してくれ」

「うん。今のとこちゃんと動けてるけど、何かあったら言う」


 着流しというファッションは、そこまで違和感を生じていない。あのぴっちりスーツも、性能目当てで当然のように着ている人はいくらでもいた。そういうものを見ると、俺もゲーマーとしてはまだまだだなと思う。今後追加されるフィルムがどんな見た目でも、今より強いことは間違いない。試練はすぐそこだ。


「お夕飯にしましょう。ご飯、よそわないとね」


 何日かぶりに家族が揃った、楽しい夕飯が始まった。

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