六章 秋、はじまる
「ごめんね。急にこんなことになって」
スーツを身にまとった初老の男性が、申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。
「気にしないでください。いつかこうなると思ってましたし。それに、家族も恋人もいない僕が行った方が、皆に大変な思いさせなくて済みますから」
男性の顔は見ずに、自分のデスクを整理しながら言葉を返した。
「……君なら、あっちでも上手くやれると思うから。あんまり気負わないで」
男性の言葉は本心のようだった。
僕が捕まった時も、精神を病んだ時も、とある事件に巻き込まれた時も、部長にはいつも世話になってばかりだった。
今回の転勤が決まるまで、ここで仕事を続けてこられたのは間違いなく部長のおかげだった。
「とりあえず今日はもう18時だし、帰って続きはまた明日にお願いできる?」
「……分かりました。お先に失礼致します」
音楽をやめて、仕事に全力を注いで、人付き合いも増えて、僕は気づいた。
僕は、何もおかしくなんかなかった。
みんなと、同じだった。
頭の隅では分かっていたのかもしれない。
彼らは僕と同じ。
空っぽで、中身もないつまらない毎日をただ淡々と生きていた。
普通の人はこういう時安心するかもしれない。
みんなと同じでよかった、と。
でも僕は、そうは思わなかった。
「……ってぇな、どこ見て歩いてんだ!」
ぼーっと歩いていたせいで、目の前に現れた男に気が付かなかった。
「すみません……」
彼と僕は違う。
彼は、中身のない自分を受け入れていない。
空の自分を認めたくなくて、大きな声を出して、虚勢を張って、周りを威圧して。
僕は、違う。
空っぽの人生は面白くなかった。
今でもずっと、彼女のことを考えていた。
彼女がいなくても僕は生きていけないわけじゃない。
音楽がなくても、死ぬわけじゃない。
でも心に空いた大きな穴は、昔の空っぽだった心とは少し違くて、それがもたらす痛みも、苦しみも、昔とは何かが違った。
考えても無駄だと思った。
今まで生きていた中で見つけられなかったものが、今になって突然見つかるわけもない。
生きてる理由なんて、生きるため、それだけだ。
もし僕が今死んだら、彼女に会えるのかな。
また、音楽に会えるのかな。
彼女を失った時、なぜか父親の死を思い出した。
死を実感したとき、途端に孤独感が僕を襲った。
どうすればいいか分からなかった。
仕方がないから、目の前にあった仕事を淡々とこなした。
見捨てられたような気がしたのに、彼女に対しても、父親に対しても、憎しみとかそういった類の感情は湧かなかった。
分からないし、分かりたくもなかった。
家についた。
玄関をまたいで、もう少しで別れを告げなくてはならない我が家に、面倒くさいという感情以外は特に抱かなかった。
段ボールも、少しずつ増えてきた。
デスクに目をやって、パソコンの整理でもしようかと考える。
もう数週間、触ってすらいない。
梱包するついでに、データの整理もしてしまおう。
着替えもせず、夕飯も食べずに、数時間作業を続けた。
何年も使い続けたPCには意外にデータが残っていて、ごちゃごちゃになっているそれらをまとめたり、捨てたり。
ただ機械的に続けていた。
2つ、僕の知らないファイルがあった。
たぶん整理してなかったら、一生気が付かなった。
パソコンの奥の方で、当たり障りのない名前が設定されたフォルダに、そのデータは入っていた。
全くもって記憶にない、録音データだった。
恐る恐る、という程感情が揺れた訳では無いが、何が起こるのかと少し案じながらそのデータにカーソルを合わせた。
フォルダ名もそうだったように、当たり障りのない、ここで述べるべきでもないファイル名。
作成日は、どちらもお盆がすぎた頃、8月の最後だった。
ダブルクリックすると、すぐに音声が再生された。
彼女の、咳払いが聞こえた。
『パソコンのおくーの方にしまうつもりだから、これを聞いてる君は、もうおじいちゃんかもしれないね。
もちろんそれはそれで凄く! いいことなんだけど。
でも、なるべく早く見つけてくれると信じて、メッセージを残しておきます。
ななは今、多分私が急にいなくなって、すっごく戸惑ってると思う。
ごめんね。
でもね、耐えられなかったんだ。
あ、君のせいじゃないよ!
むしろここまで頑張ってこれたのはななのおかげだと思ってるんだ。
でも……、もう無理みたい。
もう遅いかもしれないけど、私を、探さないでね。
ななと一緒に音楽をやれて、とっても、とーっても楽しかった。
人生で1番、輝いてた。
ありがとう。
あの時、私を見つけてくれて。
あの時、私に声をかけてくれて。
あの時……、私を、救ってくれて。
ななには感謝してもしきれないな。
こんなこと言ったら、ななは怒るかもね。
でも、許してくれるよね、君なら。
じゃあ、またいつか、んー、できればずっとずっと先。
ななと一緒に、音楽ができることを祈ってます。
……ばいばい』
彼女の声はそこで途切れた。
いつもの明るい声だった。
だけど、それはどこか辛さを取り繕っているようでもあった。
耐えられなかった、と彼女は言っていた。
気づかなかった自分を、いや、気づいていたけど、何もしなかった自分を憎んだ。
彼女なら大丈夫だと心のどこかで思っていた。
完璧だと思っていた。
同じ人間、それどころか15も年の離れた子供のはずなのに。
彼女が完璧だと勝手に信じて、それが彼女を追い込むことに繋がった。
でも、自己満足でやっていたはずの音楽が彼女自身も支えていたと分かって、誇らしいような、幸福感もあった。
全く逆の感情に揺さぶられて、僕はどうすることも出来なかった。
お礼を言うのは、こっちのはずなのに。
彼女がいるのが当たり前になりすぎて、僕は感謝を伝えることを忘れていた。
伝えるどころか、感じることすらあまり無かった。
彼女が僕の曲を歌って、満たして、完成させて、一緒に音楽を作っているのが当然のようだったから。
気持ちが変わる前に、もう1つの音源も聞こうと考え、僕は頭に過ぎるいくつもの思いを無視して、再生した。
また、彼女の声が聞こえた。
少し恥ずかしそうで、さっきの小さな声よりもさらに小さい消え入りそうな声。
『ホントはここで終わらせるつもりだったんだけど、さっきすっごいもの見つけちゃったから、またとってます。
君の昔の曲。「
私が聞いたことないやつだったから、多分ニコニコにも投稿してないんじゃないかな?
没ってなってたけど、私これ、気に入っちゃった。
だから、最期に、歌うね。
曲名は仮だったから、私がつけちゃった。
聴いてください、キャンバス』
もう自分でも忘れてしまったほど、ずいぶん昔に作った曲だった。
出来が悪かったわけじゃない。
それでも何となく、誰かに聞かせてはいけない気がして、没にした。
彼女の歌声が耳に飛び込んだ。
家にある安物のマイクで録ったせいか、今までの曲に比べて音質は酷いものだった。
そもそも完成させた曲じゃないから、伴奏も全くもっていいものとは言えない。
でも、彼女の歌を聞いて僕は涙を流した。
自分の書いた曲で心が揺さぶられるなんて馬鹿げた話だ。
涙で視界がぼやけても、僕はただぴくりとも動かずに彼女の歌を聴いた。
歌声に、安心感すら覚えた。
包まれるような感覚に身を委ねる。
曲が終わっても、耳にはまだ、数週間ぶりに響いた音がこびりついていた。
考えることをやめて、何もする訳でもなく座っていた僕を起こしたのは一通のメールだった。
宛先は、新島七貴。
件名は、音楽ユニットCoMoChi様、テレビ出演のお誘い。
あぁ、思い出した。
なんで、忘れてたんだろう。
名前なんて、どうでもよかったからかな。
でも…………、そうか。
もう、大丈夫だ。
桜の歌を聴いて、名前も思い出して、僕は、もうこの世でやり残したことはきっとない。
桜は嫌がるかもしれないけど。
最後のわがまま、桜なら、笑って許してくれるよね。
自宅マンションの階段を、僕はゆっくりと一段一段を踏みしめながら登った。
ギターを片手に握りしめて。
自分の足音が、夜の街の喧騒が、頭に響いた。
涙はもう流れなかった。
きっとその時の僕は、柔らかく笑っていたと思う。
その夜、少し欠けた月が映る赤い水たまりには七枚の桜の花びらが浮かんでいた。
六章 秋、はじまる 終
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