A子舐め舐め夢芝居


 行きの電車に乗った。座席はほとんど埋まっているものの、通勤ラッシュよりは一本遅く立っている人はいなかった。この時間帯は進行方向に対して左側から朝日が差し込んでくるので、左側の窓には全て日除けが降りていた。いつも通り右側の席に座った。右側の日除けは全て上がっていた。

 出発してからしばらく経ったとき、隣の車両から男が入ってきた。

 身だしなみはきちんとしていたが、明らかに挙動が変だった。何を言っているのか聞き取れないが、ずっとなにかをぶつぶつ呟いている。焦点の合っていない目はふらふらと揺れて定まらなかった。足取りはしっかりしていて、こちらの車両に入ってくるとまっすぐに日除けの降りている窓に向かって進んでいき、座っている人の頭と頭のあいだに腕を伸ばして、日除けを上げた。数歩進んで次の日除けを上げた。また進んで次の日除け。進んで次の日除け。進んで次の日除け。進んで次の日除け。

 男は立ち止まる様子もなく淡々と日除けを上げていった。どこかに座っている人が上げるならわかるけれど、日除けを上げてまわるなんて薄気味悪い。けれども、この程度のおかしい人ならそこらにたくさんいる。周りの人たちも最初は不安げな視線を送っていたが、しばらく静観して男が日除けを上げているだけだとわかると、安心して各々の画面や本に戻っていった。男は私の乗っている車両の日除けを全て上げてしまうと、次の車両に行ってしまった。

 電車は予定時刻ぴったりに到着した。黙々と出口に向かう人の列に混じって私は電車を降りた。


 帰りの電車に乗った。帰宅ラッシュ前の人の少ない時間帯だった。上空と地平線の間の真ん中よりも少し下のあたりの太陽が日除け越しに車内を照らしていた。座席はまばらに埋まっていた。いつも通り左側の席に座った。

 電車は予定時刻ぴったりに出発した。行きの電車で読んでいた小説の続きを読み始めた。死んだと間違えられて生きたまま埋葬される人間の話だった。

 出発してからしばらく経ったとき、隣の車両から男が入ってきた。

 身だしなみはきちんとしていたが、明らかに挙動が変だった。なにかをぶつぶつ呟いていて、焦点の合っていない目はふらふらと揺れて定まらず、その割にはしっかりとした足取りでこちらの車両に入ってくるとまっすぐに日除けの降りている窓に向かって進んでいき、座っている人の頭と頭のあいだに腕を伸ばして、日除けを上げた。数歩進んで次の日除けを上げた。また進んで次の日除け。進んで次の日除け。進んで次の日除け。進んで次の日除け。

 男の機械的な腕の動きで、それが今朝見た男だということに気づいた。身体がこわばった。考えたくない思いつきがどこからともなく湧いてきて胸が気持ち悪くなった。

 この男はずっと日除けを上げてまわっている。

 男が日除けを上げると、日の光が車内を貫いた。刺すような黄金色をしていた。あまりのまぶしさに目をつむった。すると目の前に誰かが立っている気配を感じた。あの男だと直感的にわかった。ぎゅっと目をつむって下を向いた。身体の前面が熱くてむずかゆかった。

 そのとき男のつぶやきがはっきり聞こえた。

 光がないと出られないのに。出られないのに。

 不意をつかれて目を開けると目が合った。男の影と。男の足元にいる。影には顔がちゃんとあって口が魚のようにぱくぱく動いていた。

 気づくと男はもう別の車両に行っていた。日除けは全て上げられていて、黄金色の光が全てに覆いかぶさっていた。隣に座っていた人が顔をしかめて日除けを下ろした。やめてと言いたかったが、声が出なくて口が魚のようにぱくぱく動いただけだった。

 電車は予定時刻ぴったりに到着した。黙々と出口に向かう人の列に混じって私は電車を降りた。

 車両を振り返ると、ほとんどの日除けが降ろされていた。

 階段をあがり改札を抜けて通路を歩いてまた階段をあがり地上へ出た。それでもまだ安心できなかった。なるべく開けた大通り沿いを歩いていった。けれども焦燥感はぬぐえなかった。出られなくなるのは恐ろしかった。

 空はのしかかるような深い紺色になっていた。世界を閉じ込めている暗闇にぽつんと空いた小さな穴のような月から黄金色の光が差し込んでいた。それで私は出られないことが分かった。

 


 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

A子舐め舐め夢芝居 @Eco_namename_yumeshibai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ