幸福の呼び水

A子舐め舐め夢芝居

幸福の呼び水


 終業時刻を過ぎたので、彼女は作業中のファイルを閉じる。翌日の予定を確認し、就業日報を記入すると、上司に挨拶しながら退勤する。エレベータで一階に降り、駅に向かい、いつもの電車のいつもの車両に乗り、資格勉強の参考書を開く。最寄りで降り、スーパーに寄り買い物をすませる。アパートに戻り、手を洗ってうがいをし、何の通知もないSNSをスクロールし、シャワーを浴び、小説を目でなぞる。寝る時間になると彼女は歯を磨き、薬を飲んで横になる。朝になると、顔を洗い、服を着替え、朝食を詰め込み、化粧を塗って、家を出て、途中の大学の警備員に挨拶し、電車に乗る。

「じゃあ、見積もりと手順書作成お願いします」と彼女の上司は彼女の同僚に大きめの案件の仕事を振る。同僚が元気よく返事をして打ち合わせは終了し、彼女は顧客からの問い合わせの返事を書き始める。その案件が成立するまでの問い合わせ対応をしていたのは彼女だが、上司は他の案件の問い合わせ対応に忙しそうだからと気遣って彼女を外し、一方で同僚は仕事を任されたことに満足しきってそうした状況を理解していない。彼女は何を言っても仕方がないと納得したふりをする。しかし、何も言わないことが自分を八方塞がりにしていることも彼女は理解している。隣に座っている同僚が上司に何か仕事の相談を始める。彼女は聞き耳を立てるが、同僚を挟んでいるので上司の声が途切れ途切れにしか聞こえず途中で諦めてしまう。二人は雑談を始める。

「中山さん、聞いてください。この前、会社の野球に参加したんですけど、久しぶりで足痛めちゃったんですよねー」

「聞きましたよ。岩田さんめちゃくちゃ上手いらしいですね」

「まあ部活でずっとしてましたからね。社長にまた来てって誘われたんで次も行かないといけないんですよねー」

「いいじゃないですか。あそこは偉い人たちがたくさんいるから参加できるならした方がいいと思いますよ。僕は行きませんけど」

「いや、僕も行きたくはないですよ」

会社の野球部の先輩が新人の男たちに声をかけ、女たちには断られるのが前提の形だけの勧誘文句を発していたことを彼女は思い出す。

 帰り際、エレベータホールで彼女は別の部署の同僚と一緒になる。挨拶をかわし、近況を話し合ううちにカフェに寄ることになる。

「私、米倉さんの下についててさー、米倉さんは去年まで深瀬さんにOJTしてもらってたの。だから三人で仕事するんだけど、米倉さんと深瀬さんすごく仲良しで入りにくいんだよねー。ハブられてるとかじゃないけどね。すごい優しくしてもらってるんだけど…」

二人は店内のベンチに並んで腰をおろしている。彼女は品物の違いが分からず同僚と同じマキアートを飲んでいる。彼女は手元を見比べて同僚のネイルが変わっていることに気付く。可愛いねと話しつつ彼女自身はマニキュアを塗らなくなって久しいことを思い出す。二人はカフェを出ると電車に乗り、残り少ない席を見つけて座る。

「せっかく駅近いし、また遊ぼうねー。今度服とか買いに行こうよ」

彼女はいかにも乗り気な感じの頷きを返す。彼女は人付き合いが得意ではないが、人と「今度」の話をするのは胸が踊る。それと同時に社交辞令を言うことにも言われることにも慣れてしまった自分が誇らしく寂しく感じる。

 駅に止まって同僚が電車を降りる。ドア上部のパネルではニュースが流れていく。汚職事件、通り魔殺傷事件、スペースシャトル墜落事故、天気予報…。その十駅先で彼女も降り、いつもの帰り道を歩いていく。大学の前で警備員に挨拶し、大通りから一本離れた住宅街で通勤帰りの人々や毛並みの整った犬を散歩する主婦を追い越したり追い越されたりしつつアパートへ向かっていると、たまたま一軒の家が目に付く。その家は両隣の家に比べるとあまり手入れが行き届いておらず、塀のあちこちにヒビが入っている。彼女がなんとなしに顔を向けると、玄関の前に大きな植物のさやのようなものが並んでおり、すりガラス戸の向こうに人影が写ったかと思うと、戸が開きお婆さんが出てくる。彼女はそのお婆さんを何度か見かけたことがあった。いつも夕方になると近くの駐車場の縁石に腰かけ空を眺めているのだ。しかし、日の落ちた後の時間帯に見かけたことはなかった。お婆さんは戸を出たところから一歩も動かず、瞬きもせずに彼女の方をじっと見つめている。彼女は居心地が悪く、いつものように軽い挨拶をすませてそそくさとその場を去る。

翌日も仕事がなかったので早めにあがり、アパートの近くにある蕎麦屋に行く。店主は彼女の顔を見ると「今日もにしんそば?」と笑いかける。彼女は頷き、とりとめもない世間話を交わす。

 数日後、彼女は別の部署の先輩に昼食に誘われる。彼は、彼女が好きな本を読んでいるから感想を共有したいという名目で度々姿を現していたが、彼女は直観的にそれだけが目的ではないと察している。気乗りせずに彼女は隣の岩田に目配せして助けを求める。

「あー今ちょっと僕たち忙しくて、外行く時間なさそうなんですよねー」

先輩が去って彼女が礼を言うと、岩田は無邪気な声で話し出す。

「いいなあ。俺も女の子からご飯誘われたりしたいなあ」

興味のない人間に付きまとわれるのは困るのではないかといった趣旨のことを彼女は言う。

「いやいや誰でも嬉しいよ。確かにあの先輩のやり方は良くないけどさ。でも、声かけられるの羨ましい」

これ以上続けても話が通じない、自分が大袈裟なだけかもしれないと思い、彼女は意見を言うのをやめる。岩田は彼女が欲しい、癒しが欲しい、もう変な恋愛はしないなどとペラペラ話し、彼女は上の空で相槌を繰り返す。

 その日の夜、物音で彼女は目を覚ます。暗闇の中で水の流れる音が部屋中に響いていた。恐る恐る明かりをつけると、ベッド脇の床が水浸しになっている。冷蔵庫の水漏れかと首をかしげながら彼女は雑巾で拭くと、妙に粘り気がある。彼女は不思議に思いながらも雑巾を洗うと布団に戻る。

彼女は買い物にスーパーへ寄る。野菜をビニール袋に詰め込み、パンをカゴに入れ、レジに向かう。レジは有人と無人のものに分かれており、無人のものはさらに現金が使えるものとクレジットのみのものに分かれている。彼女はクレジットのレジに向かう。上京してから現金を使う機会がめっきり減っていた。バーコードを読み取らせ、カードを機械に押し込む。エラーが出る。もう一度カードをいれる。エラー。入れなおす。エラー。小走りに店員がやってくる。いつもレジの案内をしている女性だ。店員はエラーを消して機械を調整する。横から見ていて彼女は店員の名札が上下逆さまになっていることに気付く。店員は「すみませんね、最近機械の調子が悪くて…」と話しながら画面をタップしている。彼女の視線の先に気付くと、店員は名札に手をやり、にんまりと笑う。

「これが幸せの形なんです」

彼女は意味が分からず間の抜けた返事をする。

「ちゃんと答えるだけでいいんですよ。こんなに簡単だったなんて」

何も言えずに固まっている彼女に構わず、店員は続ける。彼女はもう一つおかしいことに気付く。頬の産毛が見えるほど近くで話しているのに目が合わない。店員の顔は彼女の方を向いているが、その目は彼女の少し後ろを見ている。

「うん、そうね。時機が大事ですからね。お互いに合わないとね。それじゃあ、お客様ちゃんと答えてくださいね」

店員は彼女の肩に手を置き、ぐうと顔を近づける。それでも目は合わない。それから一歩下がると、ゆっくりとお辞儀をして去っていく。ぴちゃぴちゃと足音がし、床を見ると店員が通った後に水浸しの足が通ったかのような足跡が残っている。


 ある日の夕方、彼女は新しい案件で顧客に提出する資料作成の仕事を任される。家に帰った彼女は久しぶりに食事を楽しみ音楽を聴く。ベッドで横になると、図書館で借りたR・J・マクレディの「南極探検記」を読みはじめる。彼女はそのまま眠ってしまい、夜中に夢うつつで横になっていると誰かが話している声のようなものを聴く。彼女はいつもの幻聴だろうと思い、その日はそれきり一度も目覚めることなく熟睡する。

 それから数日後、彼女はいつものように朝の準備をする。洗顔料で顔を洗い、化粧水、美容液、乳液、保湿クリームを塗っていく。誰も彼女の素顔など見ないのに馬鹿みたいだと思いつき手が止まる。嫌なことを考えると身体が動かなくなるのが彼女の癖だった。やっとの思いで顔をあげると鏡の中の自分がこちらを指さして笑っている。

 彼女はそこで夢から目を覚ます。夢を忘れるために仕事のことを考えてみる。例の資料は大詰めで最後の仕上げを済ませたらその日の午前中に提出するつもりだった。つまらない小さな仕事でも、最初から最後まで一人で何かを作るのは初めてだったので、これをやり遂げれば何かが変わるような期待を彼女は持っていた。彼女は顔を洗い、服を着替え、朝食を詰め込み、化粧を塗って、家を出て、途中の大学の警備員に挨拶する。警備員は彼女を学生と勘違いして、いつも声をかけてくるのだ。彼女もわざわざ弁明する必要もないだろうと思って挨拶を返している。その日も大学の前に警備員が立っているが、熱心に彼女の方を見ている。彼女が挨拶すると、警備員は平坦な声で呟く。

「ちゃんと答えるんだよ」

いつもと違うおかしな様子に彼女は思わず立ち止まる。

「そうすれば上手くいくから」

彼女は動けない。

「だからね、ちゃんと答えなきゃダメだよ」

彼女は気持ち悪くなってその場を逃げ出す。警備員は追うわけでも、大声で呼ぶでもなく、ずっと平坦な声で「ちゃんと答えるんだよ」と言い続けていた。

 気を紛らわせようと彼女は会社の携帯を開く。岩田と中山がチャットをしている。彼女が途中まで仕上げて会社のファイルサーバに上げていた例の資料を岩田が編集して中山と相談をしている。彼女は携帯を閉じて何も考えないように努力する。誰にも悪気はない、自分が大袈裟なだけだと言い聞かせる。

 会社に着くと彼女は平静を保たなければならないと言い聞かせながら、岩田と相談して資料を完成させる。岩田が上司に報告し、彼女の役目は終わってしまう。

「岩田さん、僕たちが担当してるお客さんで近々大規模なリプレースがあるんで、よろしくお願いしますね」

彼女はメールを開き新規通知のない画面をスクロールする。

「中山さん、営業からこういう製品があるって話が来たんですけど…」

彼女は新規の問い合わせのない画面をスクロールする。

「ああ、同じようなやつ導入したいって話があるんで製品比較してもいいかもしれないですね。岩田さん、やってみます?」

彼女はチャットを開き、何度も見返したやり取りを目でなぞる。

「やります!そういえば、手順書作ってて分からないところがあったんですけど、ここの機器の設定って…」

彼女はもう一度メールを開いて閉じる。

「そういえば、夏休みとろうと思うんですけど、実家って何もすることないんですよねー」

「そうなんですよね。自分の実家もそうだけど、岩田さんには早く嫁の実家に行く苦痛を知ってほしいですね」

岩田と中山は親し気に話しながら昼休憩に出ていく。彼女はカバンからおにぎりを取り出すが、食欲がなくて元に戻す。急に息が詰まる感じがして、目に手をやると涙が止まらなくなっている。慌てて席を外しエレベータに乗り込む。他に誰も乗ってこなかったことに彼女は安心する。息苦しさは残っているが、涙はもう止まっている。濡れた頬を拭いていると、足元から水の滴る音がする。誰かが代わりに泣いているのだと彼女は感じる。しかし水の滴りはやがて小さな流れの音になり、天井から妙に粘り気のある水のようなものが滲みだして横の壁をとろとろと流れていき、床を彼女の足元に向かって進んでいく。エレベータが一階に着くと、彼女は足早にエレベータを降りる。

 帰り道、もう一度大学の前を通る。今朝の警備員は妙に親しげなこと以外はいつもと変わらない様子で挨拶をしてくる。彼女はいつもの蕎麦屋に入る。店主はいつも通り「今日もにしんそば?」と笑う。テレビは野球の試合の再放送が流れている。店主はにしんそばを出しながら「なんか元気ないね」と声をかけてくれる。彼女はおどけた返事をしながらにしんをつつき、いつもより長く蕎麦屋にとどまる。

 その日の夜、彼女は水音で目を覚ます。確認すると以前に見たのと同じ水溜りが出来ている。時計は3時を過ぎている。眠気はまるでなく、むしろ身体が火照る感じがしていて秒針の音を聞いていると、また涙が止まらなくなる。翌朝も早いので布団に潜り込み目だけ閉じていると、部屋の隅から誰かが話しかけてきているような音が聞こえてくる。彼女は怖くなって音楽をかけ、半端にまどろみながら朝を迎える。

 翌朝、寝不足で痛む頭を抱えつつ彼女は出社する。新しく資料作成を依頼され、取り掛かるが小さなミスを何度もしてなかなか進まない。岩田なら一時間もかけずにすませるような仕事に気付くと午前いっぱいかけている。自分に仕事が振られないのは当然だという考えで彼女の頭はいっぱいになり、また手が動かなくなる。彼女は仕方なく席を立ち、化粧室に入る。やることもないので手を洗おうと蛇口に手を差し出すと一部の指先に半透明の薄片がついている。つまみあげるとふやけた皮膚のように見える。どこかがささくれているわけでもなく、皮膚の上に新しく皮膚が生えたかのようだった。彼女は気持ち悪く感じて水でその皮膚のようなものをこそげ落とす。そうしているうちに以前カフェに寄った同僚が入ってくる。二人は挨拶を交わす。

「元気してた?私はねー、全然仕事できなくて、なんかほんと営業向いてないなって…」

自分もそうだと返したかったが彼女の口はそれより先に労いの言葉を唱えている。

「ていうか、今度遊ぼうって言ったのに全然行けてないよねー。なんか忙しくてさー。またご飯でも行こうね」

同僚はそう言って個室に入っていく。彼女は仕事に戻る。

 週末に彼女は近所の公園に散歩へ行く。休日の公園はジョギングをする学生や犬の散歩をする夫婦、遊びにきた家族連れで賑わっている。彼女はイヤホンで耳をとじ、日光に照らされた木立を眺め、こうして日の光の下で身体を動かして気分転換することが好いことだろうかと自問する。しかし、自分にとって好い状況がどういったものなのか彼女には分からないので、問いは出口を失い頭の中にどろどろと沈殿していき、周囲の歓声や笑い声が遠くなっていく。そうして歩いていると、彼女は公園のあちこちに大きな植物のさやのようなものが点在していることに気が付く。以前人影を見た一軒家にあったものと同じものである。彼女は不思議に思っていると視線を感じる。辺りを見渡すと時折道行く人々の何人かが意味ありげに彼女に微笑みかけている。近所の人なのだろうが、近所づきあいとは無縁の彼女には見覚えがない。薄気味悪いのは連れ立って歩いている人々がそろって笑みを投げかけるのでなく、夫婦なら片割れだけ、学生グループなら一人だけが笑みを投げかけてくることだった。彼女は居心地が悪くなって公園を出ると、蕎麦屋に入りいつもの席につく。

「ご注文は?」

店主はお茶を置きながらのっぺりとした顔を彼女に向ける。彼女は戸惑いながらにしんそばを注文する。テレビでは遠い国の戦争のニュースが流れている。店主は黙々と作業を進め、にしんそばを出しながら彼女の顔を覗き込む。

「ちゃんと答えるんだ」

彼女は身体を固くする。

「ちゃんと答えるだけでいい。それで何もかも上手くいく。辛いことしんどいこと全部なくなる。簡単だろ?」

彼女は訳も分からず頷くことしかできない。

 結局それ以外にはろくに会話を交わさず、彼女は蕎麦屋を出て家に戻り、図書館で借りた怪談集を読む。どの怪談も危機一髪のところで友人や家族が現れて主人公は助かる。自分には咄嗟に頼れる人間はいない、なにか異変があっても助かる方法はないと彼女は落ち込む。文章をなぞっても内容が頭に入ってこなくなり、彼女は本を投げ出し横になる。

 水の流れる音で彼女はまどろみから目を覚ます。部屋が暗くなっていて日が落ちていることが分かる。また床が水浸しになっている。水は生き物のようにベッドの方に進んでいく。机の布巾をとろうと手を伸ばすと、指先に半透明の皮膚が付いている。

「痛みはない。ただちゃんと答えればいい。あとは眠るだけ」

部屋のどこかから声がする。声は一つの問いを発する。

彼女は不思議と落ち着いており、ちゃんと答えて眠りにつく。部屋に水の流れる音が満ち、小さな不幸せが知られることもなく一つ消える。

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