第7話

 たえに後悔は無かった。


 頼みごとをするという弱みにつけ込む形で、言葉巧みに期待を抱かせながら、自分の体を弄んだ男など、到底許すことは出来ない。しかも、約束したその見返りが何も無い、騙し、という仕打ちまで受けたのだ。報いを受けて当然の卑劣な行為ではないか。むしろ、首尾良くやり遂げられて良かった、とまで思っている。


 ただ、人を殺めたことについては、贖罪の意識はあった。そして、やってしまった以上は、覚悟を決めていた。従って、成り行きによってはお縄につくことも、潔く受け入れる気持ちはあった。


 それでも、やはり御家の存続が何より優先した。

 自分がお縄になれば、柴田家存続の許しが幕府から降りることは難しくなるだろう。人殺しを出した家に対する温情など、期待すべくも無い。そう考えると、やはり、捕まるわけにはいかなかった。例え、許しが出た後であっても、自分が下手人だと明らかになれば、それが取り消されることになるだろう。


 あの時、奥田を殺して屋敷を出る際には、誰にも見られていない。殺しに使った短刀も、来ていた着物も全て処分した。足が付くことは考えられない。だが、安心も出来なかった。自分が奥田に頼み事をしている上に、屋敷には何度も足を運んでいることは、奉行所にも知れることとなる。容疑はかけられるかも知れない、という不安はあった。


 勘定奉行川路の奥方エツからは、浅草の観音様の前で会って以来、時々、手紙により連絡が来るようになっていた。主人である奉行の川路に毎日のように催促をして、手続きが進んでいく様子が細かく綴られている。


 そして遂に、エツから、家老に話が上がった、という知らせが届いた。


 たえにとっては、この上ない喜びだった。

 たえの実家である磯野家とは、末の妹を柴田家に養子として迎える話はついていた。その婿となる候補も、実家があたりをつけてくれている。幕府から許しが出たら、一気に話が進むことになる。


 たえにとっては、不安な気持ちに、期待が高まるという、複雑な思いが交錯した。


 柴田家は権現様の代から続く禄高千石の堂々たる旗本の名門である。対して磯野家は同じ旗本ではあるものの禄高は三百と、家格としては格差があった。縁談についても、当初、柴田家では難色を示したが、当人の柴田智央がたえを見初めたことで、両親が折れるかたちとなった。それ故に、たえにとっては肩身の狭い思いを抱く毎日であった。


 舅は無口で何も言わなかったが、姑はうるさかった。たえが何をするにしても監視するように側に来て、いちいち口を出した。常に「柴田家では」という枕詞を付けて、家柄が違うことを強調する言い方をする。気の休まる時は無かった。唯一、智央がたえに気を使い、かばってくれる事が救いだった。


 それでも、たえに子がなかなか出来ない事については、智央も悩んでいた。姑はその責任がたえにあるという趣旨の発言をするようになり、舅もこのまま子が誕生しなかった場合の対策を口にするようになっていた。智央は、まだ自分もたえも若いのでもう少し待って下さいと、その場をとりなしていたが、柴田家における最大の懸案だった。


 そんな中、智央はその有能さが認められて、幕府勘定役の中でも、財政の内容を明らかにした帳簿を担当するという要職に抜擢される。当人はもちろん柴田家にとってはまたとない名誉となった。一方で、この職務は激務であるために、智央は身体的な負担だけでなく神経をもすり減らすこととなる。


 智央がお役目に追われるなか、懸案である柴田家の跡取り問題も手付かずになり、その間、両親が相ついで他界してしまう。


 幕府の体制は、発足以降年を追うごとに充実して行ったが、それは、組織の巨大化と複雑な権限の分散を伴うものであった。そのことにより、当然ながら必要経費が膨らみ支出も増える。財政の悪化は巨大化した組織の慢性病でもある。幕府の上層部も手をこまねいていた訳ではない。危機意識を持って多くの改革が行われてきた。特に、亨保、寛政、そして、天保期においては、幕府の構造的な面まで踏み込んだ大規模な改革が行われた。


 これらの改革は勘定役にも多くの負担を強いることとなる。特に、帳簿については、詳細な部分まで記載される事が求められ、より正確性が重要視されるようになった。大括りの項目が細分化され、大まかではなく緻密な数字で記載されるようになる。かつては大目に見られていた不正確さや矛盾は、決して見逃されなくなった。常に根拠となるものが求められ、安易な前例通り、が通らなくなって行った。

 幕府の財政を明確にした帳簿である。間違いは許されない。従って、歴代の帳簿も、正確なもの、とされている。


 しかし、現実には、過去の帳簿が必ずしも正確であった訳ではない。時の上層部の意向による膨らまし、あるいは縮小化だけでなく、各方面からの要望や圧力により、帳簿担当は、実態からかけ離れない程度に、加除修正を行なわざるを得なかった。


 各年の帳簿は、前年のものが正確であるという前提で、これを引き継いで、各項目が新たな収入と支出が記載される。従って、こうした過去の矛盾は、毎年、確実に累積されて行く。いつかは、必ず、「ごまかし」が効かない事態になるのは必至だった。

 平時であれば、まだ、それが出来たのかも知れない。


 しかし、時代は黒船来航により始まった、近年稀にみる混乱の極みを迎えている。場合によっては、異国との一戦を覚悟せねばならない事態。当然ながら、今後の想定される出費を念頭に、現状の財政の実態は、上層部の一番の関心事となっていた。そこでの、安易な取り繕いは出来なくなっていた。

 実際の財政状況を、より正確に記載すればするほど、矛盾と不整合が次々と露呈し、幕府の帳簿が不正確である、という事が表面化する、由々しき事態となった。


 それでも、過去の帳簿が正しいという前提は、どうしても崩しようが無かった。それを否定してしまえば、過去の全てを疑うことになる。しかし、事が事だけに、責任は追求され、結局、帳簿担当の記載誤りとされたのだ。


 上層部にも同情する意見はあった。担当一人に責任を押しつけるのは、余りに酷ではないかというものだ。こうした動きもあり、何がしかの処分は仕方がないとしても、謹慎、もしくは役替えの上に禄の減俸ぐらいが適当、という意見が大半を占め、一旦はこの線でまとまりかけた。


 しかし、井伊直弼が、この処分に異を唱えた。


 財政における全ての根幹を成す帳簿の記載を誤るとは、幕府発足以来の前代未聞となる重大な不祥事。即刻切腹にすべきである、と主張する。理屈で、井伊に対抗できる者は居なかった。


 もとより、智央は覚悟を決めていた。しかし、家の跡取り問題に目処を付けていなかったことは心残りだった。あとは、たえに託すしか無かった。そして、今となっては、頼るのは磯野家だけとなった。

 たえの末の妹を磯野家から養子に迎え、その娘に婿を頼む、そう言い残し、智央は腹を切った。


 柴田家の存続の成否が、たえの双肩にかかることとなった。そもそも、この問題は自分に子が出来なかった事が原因であるとの負目があった。それ故に、責任感という重圧が過度にのしかかっていた。眠れぬ夜が続いた。

 磯野家はたえの相談に全面的に協力してくれた。問題は、幕府の許しだけとなった。


 たえは奥田と面識が無かった訳ではない。時候の挨拶などで何度か屋敷を訪問して、言葉も交わしたことはあった。気さくで人当たりの良い、砕けた印象を持っていた。それ故に、最初にこの件を願いでて「わかった、任せておけ」と言われた時には、頼りがいのある上司であるという印象まで加わり、奥田を信頼しようと思った。


 だが、その淡い期待もすぐに裏切られる。

 最初の訪問から間もなく、たえは奥田に呼び出しを受けた。夜半に、しかも裏口から入って、離れに来るようにとのこと。急を要する事態が起こったのか、と緊張して部屋に入ると、酒を飲んで赤い顔の奥田が待っていた。


「いかがなさいましたか」

「まあ、座れ。話がある」

 奥田は、お家相続の許しを家老からもらう事が、どれほど難しく、大変であるかを頻りに語った。並大抵の事ではない、苦労が伴うと、熱弁をふるった。

「それを、この儂が行う訳だ。そなたの為に」

「はい、奥田様には感謝致しております。先日は、お引き受けいただくというお言葉をいただきましたので、後日、改めて御礼に伺うつもりでおりました。また、無事お許しがおりましたら、相応の御礼も考えておりました」

「それは当然」


 奥田が前のめりになって、たえの手を掴んだ。

「今、その相応の礼をしてもらうぞ」

「何をなさいますか」


 たえは体を引いたが、奥田は手を離さない。

「そなたの、感謝の気持ちを示してほしいのだ、この場で」

「おやめ下さい」

「断れば、柴田家の存続はないぞ。良いのか」


 たえの体が固まった。このような辱めを受けることは、到底受け入れられない。どういう理由があるにせよ、自らの意思ではないにせよ、不貞をした女として、これから生きて行くことなど出来ない。


 しかし、断れば、お家存続の話を、また自ら壊してしまうことになる。自分がいっとき、この屈辱に耐えれば良いだけなのではないか。仕方のない災難だと、我慢すれば良いのではないか。そうすれば、全て治まるのだ。


 そして、お家存続が叶った暁には、自ら命を断てば良い。夫の顔が頭に浮かんだ。


 たえが力を抜いた。

 奥田が酒臭い息を吐きながら、たえの体を引き寄せた。

「儂はそなたのために骨をおるのだ。そなたも、儂のために尽すのは、至極当然のことであろう」


 奥田の腕の中で、たえは、止め処なく流れる涙を抑える事が出来なかった。

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