第4話

 頼方が勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)を訪ねた。


 川路は豊後国の御家人出身である。将軍直属の家臣として同じ直参ながら、旗本と御家人の間には明確な身分差がある。旗本は将軍に謁見する資格を有するが、御家人には無い。従って、御家人が奉行まで上り詰めるのは稀であり、川路にはそれだけの皆が認める力量がある証でもあった。

 この時、川路は頼方の後を継いで勘定奉行となっていた。歳は同じである。


「お取り込み中のところを邪魔するよ」

「おう、これは池田殿。なるほど、殺しとなれば町奉行の出番ですな」


 川路が腰を上げ、先輩を立てるように上座から移動しようとするのを頼方が右手を差し出して止めて、川路の下座に当たる位置に座ると、周囲にいた二、三人の役人が部屋を出て行った。


「早速だが、勘定組頭が殺されるとは尋常ではない。管轄する奉行として、何か思い当たる節はあるかい」


 川路が軽く頷いて腕を組んだ。

「状況としては夜中に屋敷に来た女らしいと聞いた。そうであれば、お役目に絡んだ揉め事では無いのではないか」


 頼方がうんと頷いた。

「そういう見立てが妥当なのかも知れない。奥田は時々女を呼んでいたのは確かだ。今回も屋敷に呼んだ女の仕業であることは間違い無いだろう。しかし、だからといって、仕事絡みの線が消えたわけでは無い。茶屋筋の金で方が付く女なら、むしろ揉め事は起こらないからな」


 川路は考え込んだ。

「まあ、確かに、ここのところ勘定役の不祥事が続いたからなぁ。奥田は飄飄としているところがあったから顔には出さなかったが、組頭としても頭が痛かっただろう」

「それらの案件については、いずれも方がついておると聞いていたが、揉めていることは無かったのか」


 川路がやや首を傾げた。

「そうだなぁ、全て、とりあえずは収まったが・・」


 頼方が身を乗り出した。

「何かあるのか」


「うむ、揉めるというほどでは無いが、例の不祥事で腹を切った柴田智央の件が残っている。奴に子が無かったため柴田家はお家断絶になるが、養子を迎えて存続させて欲しいとの嘆願があった。というか、前から申し出ていたらしいのだが、奥田が拙者には上げてこなかった」


 頼方が上体を引いて、怪訝そうに額にしわを寄せた。

「ほう、どういうことだ」


「実はなぁ、妙な話なのだ」

 川路は、妻エツが偶然に柴田の妻たえに会ったことで、自身が知ることとなった経緯を語った。本当は奥田から話を聞いていたのに忘れていただけではないのかと、エツに散々責められた、そう言いながら川路は顔をしかめた。


「かれこれ一年近くなる。なぜ奥田が話を止めていたかが、分からない」

「そりゃあ、死んじまった者に聞く訳にもいかないか」

「あいつは軽率なところもあった。女にはうるさいが、お役目は程々に、という態度も隠さなかった。そんな奴だが、うっかり忘れていた訳でもないだろうけど」

「おい、おい、柴田にとってはお家存続の重大事案だ、忘れていたじゃあ、柴田も浮かばれないぞ」


「そう、だから、今、少し頭が痛い」

「どういうことだ」


「幕臣のお家継続については、老中案件となる」

「阿部さんは話の分かる方ではないか」


 この時、老中は五人居たが、その首座は阿部正弘(あべまさひろ)だった。福山藩主だった阿部は二十五歳の若さで老中となり、その二年後には老中首座まで上り詰めたほどの誰もが認める逸材だ。思慮深く、その先々を見越した施策には、幕府内でも一目おかれていた。ふくよかな体型をしており、どっしりと構えながらの筋の通った説明には、誰をも納得させる説得力がある。

 だが、ことさら自分を表に出さずに、常に和を優先したために、優柔不断とも受け取る向きもあった。


 時期はまさに、ペリー来航からの混乱が頂点に達しようとしている。幕府高官の間では開国派と攘夷派の対立が深まっていた。阿部自身は攘夷の考えを持ってはいたが、開国派の言い分にも耳を傾ける姿勢を示していた。それゆえに、この件で何をするにも双方からの攻撃を受け、板挟みの苦悩を抱えていた。


「阿部さんは、今、それどころではない、ということか」

 頼方の問いに、川路はうんと言ったが、それよりも、と付け加えた。


「老中案件ともなれば、溜間詰にも話がいく」


 頼方がハッとして、顔をしかめながら首に手をあてた。

「そうか、井伊が居ったか。こりゃあ厄介だなぁ・・」


 川路が前屈みになって声をひそめながら、柴田が切腹になった経緯を語った。

 聞き終わると、頼方が肩の力を抜くように大きく頷いた。


 この頃、頼方は特に井伊を意識してはいない。開国派の小難しい急先鋒というような、漠然とした印象を持っているだけだ。

 だが後に、幕末の日本の行末を左右する重大案件で、この二人は対立する。


 かの吉田松陰の量刑をめぐる確執である。当時大目付となっていた頼方は、流罪とするのが相当として、これで一旦は確定した、はずだった。ところが、最終段階で、大老の井伊が死罪に改めさせるのだ。納得しない池田が執拗に食い下がるも、井伊は強権を持って押し通した。


 歴史で、「もしも」は禁物ではあるが、松蔭が幕末を生き抜いていたなら、日本がどうなっていたかについては、興味が尽きない。


 ちなみに、川路も、この先に井伊とは深く関わらざるを得なくなる。川路は、日米修好条約を朝廷に認めさせる特使の一員となるのだが、異国嫌いの公家の反発に遭い、これがあっけなく失敗する。結果、井伊により左遷され、隠居まで追い込まれる。挙げ句に、体まで壊してしまうのだ。


 それはさて置き・・


「なるほど。これは簡単ではないか」


 頼方にも、その難しさが、現実的な意味を持ってジワリと湧いて来た。交渉や訴えは、理屈ではなかなか通らないものでも、情に訴えることは出来る。しかし、それも相手による。度量が広く大きな者であれば期待も出来るだろうが、そうでない者には、これは通じない。


「お主も勘定奉行を務めていたから分かるだろうが、年々複雑になる幕府の財政状況を詳細に調べ上げて間違いの無いように帳簿に記すのは、並大抵のことでは無くなっている」

「うむ。幕府開設時とは異なって、世の中の仕組みが複雑になって来ていたからな。俺も、担当はかなりの激務だとは思っていた」


「柴田はむしろ良くやっていた。昼夜を分かたず激務に取り組んでいたのは誰もが認めていた。だから、その責任というのなら、柴田を監督する組頭や奉行の拙者にもあると申し上げてはいたのだが」

「そうするとだ、奥田が話を上げなかったというか、上げにくかったのは確かだな」

「ああ、それは思っていたはずだ」

「だが、奉行のお主にまで相談がない、というのが解せないな」

「確かに」

 川路が頷きながら姿勢を正して座り直した。


 若い役人が入って来て茶を二つ持って来た。それを二人の前に置くと丁寧に頭を下げて出て行った。頼方がそれを手に持った。


「柴田の家内も、そんなに返事が無かったのなら、かなり気を揉んでいたのではないか。督促の一つも、していたかも知れないな」

「浅草の観音様に、毎日のように願掛けに行っていたらしいからな」


 川路も茶碗を手にした。

「うむ。どのような女だ」

「これがまた、良い女だ。まだ若いし、家内は、今後の身の振り方を心配していた」

「そうか。良い女か・・」


 頼方が頷きながら茶を口にした。

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