にんぎょのはなし

侑菜(ゆうな)

第1話

 嫌だと言ったのに、バーベキューに付き合わされていた。

 合コンも兼ねているらしく、見知らぬ女性が数人いる。

「おーい、あお。こっちこいよー!」

 碧は一人、離れたところに座っていた。

 においがつくのが嫌だとか、そういう理由ではない。ただ、なんとなく、ああいう浮かれた雰囲気に馴染むのが苦手なだけだ。

「肉なくなるぞー!」

 声のでかいあらたが叫ぶ。が、碧は動こうとしない。

 向こうから一人の女が碧の方へと歩いて来る。多分、焼けた肉やら野菜やらを持ってくるのだろう。

「はい、どうぞ」

 予想通り、女は紙皿の上に肉と野菜、紙コップの中にお茶を入れて渡してきた。

「どうも」

 それらと箸を受け取って、肉を食べる。できたてで、熱い。

「向こう行かないんですか?」

 そう聞かれて、頷く。

「ああいう賑やかなの、苦手で」

「おーい、根暗な奴に付き合ってないで、こっちおいでー!」

 今度は竜介(りゅうすけ)が叫んだ。

「静かな人なんですね。また持ってきます」

 女はそう言って、離れていった。

 碧は砂浜に空になった皿と紙コップを置いて、飛ばないように、皿の端に砂をかけた。

 すうっと息を吸い込んで、息を吐く。

 夜は苦手だ。

 スタジオ練習している間は時間なんて関係ないが、外に出て、空が暗くて、夜だと気付いたときが、一番きつい。

 一人だ、と強く思う。

 自分に価値はあるのだろうかと考える。

 何をしているのだろうとしらける。

 不安が押し寄せてくる。

 はあ、とため息をついて、碧は空を見上げた。星が瞬いている。月の姿は見えない。

 もう一度、息を吸い込む。今度は、吐き出すための呼吸ではない。

 歌うための呼吸だ。

 口を開いて、声を乗せる。

 碧は新と竜介、それから向こうで大人しく肉を食べているれんと、バンドを組んでいる。

 小さなバンドで、小さな箱でライブをする。そのために、バイトに追われる毎日。

 メジャーデビューを目指していたこともあったが、今はそこまで大仰な目標を掲げているわけではない。

 ただ、いつか、なんとなく、音楽で食っていけたらいいなと、ぼんやりと続けている。

 もちろん、楽しい。楽しいから、続けている。

 けれど、漠然とした不安も、ないわけではない。

 だから、夜が苦手なのかもしれない。

「おい、なんだあれ!?」

 叫び声が聞こえて、歌をやめた。バーベキューをしている方を見ると、みんな、海の一点を見つめている。

 碧も遅れてその方向に目をやると、ぽこぽこと、丸い何かが四つ、浮かんでいた。

 ブイだろうか。

「UMAだ!」

「ブイだろ」

「さっきまでなかったじゃん!」

「流されてきたんじゃね?」

 ぎゃあぎゃあと叫んでいるうちに、一つが海の中に消えた。

「ほら!」

 後を追うように、残り三つも消えた。

「やっぱりUMAだよ! 河童! 河童!」

「河童が海にいるかよ!」

 このままだと周辺住民からうるさいと苦情が入りそうだなと思いながら、UMAに興味のない碧は歌の続きを歌い始めた。


   ×   ×   ×

 バイト帰りに、砂浜で人間を見つけた。数週間前にバーベキューをしていた砂浜だ。ごろんと仰向けになっているその男は、夕日に照らされた波打ち際ぎりぎりで眠っているようだった。

 酔っ払いか何かだったら絡まれるのも面倒くさいし、と思って、碧は通り過ぎようとした。

 しかし、どうにも気になって仕方がない。見下ろす位置にあるその砂浜には男一人しかおらず、他に助けてくれるような人影も辺りにはなかった。

 はあ、とため息をついて、来た道を戻る。

 砂浜へと続く階段を下り、男の元へ。

「大丈夫ですか?」

 やけに顔の整った男が、切れ長の瞳を閉じて横たわっている。

「大丈夫ですか?」

 そっと、瞼が開いた。茶色い瞳が碧を捉える。

「大丈夫ですか?」

 そう聞くと、うんと男は頷いた。

 白いワイシャツ、黒いスラックス。どこかシックな服装の男は、上半身を重そうに持ち上げて、辺りを見渡した。そして自分の脚を、食い入るように見つめた。

「どうしたんですか?」

 そう問うと男は首を横に振る。

「立てますか?」

 手を貸して立たせようとするが、腰から下が動かないらしい。

 歯を食いしばり、顔を歪め、脂汗を流している男に、「痛むんですか?」と聞くと、初めて口を開いた。

「……」

 声が、出なかった。

 驚いたように、男は何度も声を出そうとする。

 しかし、出てくるのは隙間風のような空気だけだった。

「えっと、痛むようなら、頷いてください」

 男は頷いた。

「あの……病院、行きます?」

 男は首を傾げた。

「病院です、病院」

 分からないようだった。

「もしかして、病院、知らないとか?」

 男はこくりと頷く。

「……記憶喪失?」

 途端に、どう接したらいいのか分からなくなった。

「……保険証とか財布とか持ってないんですか?」

 男はズボンのポケットに手を入れたが、中からは何も出てこなかった。

「とりあえず、こんなところにいてもあれなんで、俺ん家来ます?」

 男は碧を見て目を見開いた。

「……」

 何かを呟いたようだったが、何を訴えているのか分からない。

「ごめんなさい、何言ってるのか、分からないです」

 男は悲しそうに目を伏せる。

「あの、それでもいいですか? よかったら頷いてください」

 男は、小さく頷いた。

「立てないんじゃあ、おんぶするしかないですけど、いいですか?」

 男は小さく頷いた。

 碧が男に背を向けると、男はぽかんとその背中を見つめる。

「どうしたんですか?」

 男は目を泳がせる。

「まさか、おんぶが分からないとか……」

 責められていると感じたのか、男は泣きそうに顔を歪めて頷いた。

「腕、貸してください」

 碧は両腕を肩にかけ、前で掴ませると、男の太ももを後ろ向きで探り当てる。

「持ち上げますけど、驚かないでくださいね」

 よいしょ、と立ち上がると、男はぎゅっと体に力を入れた。その反動で、首が締まる。

「ちょ……」

 ばしばしと腕を叩いて、苦しいと訴える。

 男はそれに気づいて手を緩めた。

 ふう、とため息をついて、もう一度おぶり直す。

「俺ん家、そんな広くないんで、そこは覚えておいてください」

 碧は男を背負い、夕日に染まる砂浜を歩きだした。


   ×   ×   ×

 男が本格的な記憶喪失だと分かったのは、家に帰ってきて、会話をしている時だった。

 会話と言っても、碧が一方的に質問をぶつけていたのだが、名前も分からないらしい。しかも、首を縦に振るか横に振るかしか意思疎通ができない。それに耐えられなくなった碧はメモ帳とペンを差し出した。

「あの、今度から、ここに書いてください」

 すると男は首を傾げた。まるで目の前の二つの道具が何をするものなのか分かっていないように。

「ここに、文字で返答してください。質問してもいいです」

 男は恐る恐る、碧の様子を伺いながらメモ帳を持ち上げた。くるりとひっくり返して、また戻す。

 隣に置いてあったペンも同様に、くるりとひっくり返して、また戻す。

「……あの」

 男はびくりと肩を揺らした。

「文字、書けますよね?」

 男はわずかに首を横に振った。

 碧は思わずため息をつきそうになった。

 こういう人は保護してもらうのが一番いい選択なのだろうと、碧はテーブルの上のスマホを取り上げた。

「あの、警察に保護してもらいますけど、、それでもいいですか?」

 一瞬、男の目に怯えが浮かんだ気がした。

 男は首を強く横に振る。

「だって、記憶喪失なんでしょう? 身分も分からないし、声も出ない、おまけに記憶もない。どう考えたって、保護してもらった方が……」

 床に座ってソファに凭れていた男が、下半身を引き摺りながら、碧のズボンに縋った。目には蛍光灯に反射した涙が浮かんでいる。

 男が、もう一度首を横に振る。

「……なんで警察は嫌なんですか」

 男は、ただ首を横に振る。

「……少しの間なら別にいいですけど、こんな狭い部屋でいいんですか? 警察に保護してもらえば、もっと広いところに行けると思いますけど」

 男が口を開いた。

『あなたと一緒にいたいんです』

 そう言った気がした。

 気のせいだったのかもしれない。

 でも、真っすぐに碧を見据える瞳には、何か強い意志が宿っているように見えた。

「……俺、バイトとバンドやってるんで、あんまり家にいないですけど、それでもいいなら」

 男はぱっと顔を明るくした。

 碧と男の奇妙な生活が始まった。

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