それでも僕は彼女に感謝している
瀬戸 夢
第1話.目撃
バイト終わりの夕方、アパートに戻ってきた僕は一人部屋で本を読んでいた。この秋の新刊を買った上に、最近友達になった
『借りてしまって』という表現の通り、最初は借りるつもりはなかったのだが、名作だと熱心に語る中田の言葉にほだされて……、いや、強引に押し付けられて借りざるを得なくなってしまったのである。
不満があり気な言い方をしたけど、中田から借りた本は確かに面白い。僕は周りのことが気にならないくらい物語の中に没入していた。
物語のクライマックス、いよいよ全ての謎が明かされる一番の盛り上がり。僕は取りこぼしのないように丁寧に一行一行読み進め、躍動する言葉を飲み込んでいく。
読み終わりを悟りページをめくる指が躊躇しつつも、好奇心に負け更に一歩進もうとしたところで現実に引き戻された。突然ピンポーンと家の呼び鈴が鳴る。
あぁ、せっかくいいところだったのに……。
僕は小さくため息をつくと、腰を上げて玄関へ向かった。
何か荷物だろうか。ドアスコープを覗くとドアの前には一人の女性。僕はすぐに鍵を開けドアを開いた。
「
部屋に上がるなり僕のお姫様は不満を口にする。
僕はスマホを確認した。なるほど。確かに彼女から五回も着信があったし、いくつもメッセージが入っている。どうやら読書に夢中で気づかなかったようだ。
「ごめんごめん。気づかな――っ」
僕が素直に謝罪をしようとすると、不意に彼女に口づけをされた。しかも濃厚な方。
「んふっ、ちょ、ぶちゅ、あの、んんっ……」
普段の大人しい彼女からはあまり想像できないほどの、すごい吸い付きよう。僕はベッドに押し倒され、そのまま体を重ねた。彼女はタガが外れたように僕を求める。こんなに激しく求められたのは、初めてのことかもしれない。
事が終わると、明日は一限目からだからと言って暗くなる前に彼女は帰っていった。
玄関先に一人残された僕は、遠のく彼女の後ろ姿を眺めながら首をかしげる。怒涛の展開に、まるで夢を見ているかのような気分だ。
彼女の名前は『
彼女の第一印象は根暗な文学少女。黒髪で眼鏡を掛けていて、人のことは言えないけど全然可愛いとは思わなかった。とにかく、顔から野暮ったい服装まで何もかもが地味で、異性を求めて合コンに来ましたという雰囲気は一切なかった。
テーブルの端っこで黙々と食事をしている彼女は、盛り上がっている他のメンバーと切り離された空間にいるよう。同じくテンションの高い友人たちに押し出されて端っこにいた僕は彼女に話しかけた。
聞けば、
それでも僕は、せっかく誘ってくれた友人たちに申し訳ないので、何か爪痕を残そうと彼女に話しかけ続けた。
めげずに話しかけてくる僕に最初はあからさまに迷惑そうな顔をしていたけど、食事が終わると彼女も暇になったようで僕の話に付き合ってくれた。まぁ、僕も彼女並みに地味な見た目なので、話しやすかったというところもあるのだろう。
とにかく、どうにか別れ際に連絡先を交換すると、その後はどちらともなくメッセージを送り合うようになり、休日に一緒に出掛ける仲になった。
僕は中学・高校と男子校でバリバリの進学校だった。勉強しかしておらず、女性とお付き合いどころかデートも初めての経験。
そのせいなのか、あれだけ地味だと思っていた彼女も会う度に可愛く見えてきて、ついには世界中で一番可愛いんじゃないかと思うようになっていた。とても愛おしく、無性に会いたいと思う夜が増えていった。あの頃きっと、僕は彼女に恋をしていたんだと思う。
その後、一ヶ月後に僕から交際を申し込んだ。交際を申し込むのなんて初めての経験だったので、人生で一番と言っていいほど緊張したのを憶えている。震える声でどもりながら言う不細工な告白を、幸いにも彼女は受け入れてくれた。
この恋が叶った瞬間は、今通っている超難関大に受かった時よりも嬉しかったと思う。
勉強はやればやるほど基本的には成果がでるけど恋愛は違うと思う。努力も必要だけど、生まれ持ったモノ、素の自分の部分で勝敗が決まることが多いのではないだろうか。
つまりは、彼女が僕の告白をOKしてくれたということは、僕の容姿、性格、趣味趣向など、僕を構成する根源を認めてくれたということになると考えている。そんなの正直、両親くらいしかいないんじゃないかと思っていた。
交際後は順調に関係を深め、二ヶ月後にキス、そして半年後にはド緊張の中、お互い初めてを経験した。
それからずっと仲は良いし、今日のように週に何回かは体を重ねている。ただ、今日の彼女は明らかに様子がおかしかったけど。
◇◇◇◇
返した数以上の本を無理矢理渡されると、僕は中田のアパートを後にした。
もう十一月も近いというのに今日も暑い。温暖化なんてそんな十年やそこらでは分からないと思っていたけど、こうして暑い日が続くとそんな遠い未来でもなさそうだと感じる。
友人の中田とは、下期から受けている講義で知り合った。最初、整った顔立ちだが常にしかめっ面の表情に怖い人だと思っていたが、グループ討議で一緒になった際、その独創的でしっかりとした考え方に感心し、また、お互い読書好きということもあってすぐに意気投合した。
とはいえ、相変わらず表情は固く、今でも若干近付き難い。まぁ、あれが通常モードなのだろう。そして、まだ知り合って二ヶ月くらいだけど、このアパートに来るのはもう五回目になる。
駅からアパートまでは歩いて十五分。ちょっと遠いけど、僕たち一般家庭の学生のアパートなんて皆そんなものだろう。都心でしかも駅近なんて、一部の金持ちのボンボンくらいなものだ。
少し額に汗をかきながら駅から延びる商店街まで来たところで、ふと目の端に一人の女性が引っ掛かった。
ん? あれって文奈?
僕の恋人である文奈が、今行こうとしている駅方面からこっちに向かってきている。
この街は都内とはいえ端っこの方で、友人が住んでいない限りおそらく僕は一生来ることはなかっただろう。そんな街に彼女がいることに少し驚いていた。
そういえば、昨夜のメッセージで彼女は今日友達と出掛けると言っていた。すごい偶然だけど、きっと彼女の友達もこの近くに住んでいるのだろう。
僕は声をかけようと彼女の方へ向かっていった。そして、手を振ろうとしたところで彼女が誰かと一緒にいることに気づいた。
人混みの中、彼女は見知らぬ男性といた。社会人だろうか。スラックスにジャケットを羽織り、年は二十代後半くらいに見える。顔はさっぱりとしていて爽やかな感じだ。
二人は話をしながら並んで歩いている。笑顔ではあるが、少し距離があり親し気という感じではない。
あれが友達? うーん、もしかして家族とか?
その男性はさすがに父親には見えないが、兄だと言われればそうかもと思えるような外見。しかし、彼女の兄弟は弟で、確かまだ中学生だったはず。まぁ、年の近い叔父や従兄弟という可能性はある。
僕は好奇心から二人を尾行することにした。なにげに、刑事や探偵みたいな気分でちょっとワクワクしていた。そんな気分だったのは、この時の僕には浮気なんて考えが頭になかったからだと思う。
前方十メートル先にいる二人は、ずっとお互い笑顔で会話をしている。話に集中しているのか僕に気付く気配は一切ない。見つからないようにしているけど、それはそれでちょっと寂しいものがある。恋人なら気配で察知してほしい。まぁ、それは夢を見過ぎか。
尾行し始めてすぐ、二人はチェーンのカフェに入っていった。
商店街の中にある三階建ての店舗。一つのフロアはとても狭そう。僕が入っていったら、きっと彼女に気付かれるだろう。
どうしようかと周囲を
僕が座っているベンチからは店内の様子は
スマホを見ることもできず、手持ち無沙汰な僕は色々な推理、いや、妄想を膨らませていた。
彼女が通っている大学は女子大。男性の友人は考えづらい。そうなると、友人の彼氏と考えるのが妥当か。きっと二人きりじゃなく、あのカフェで何人かで待ち合わせをしているのだろう。それで、たまたま駅で会った友人の彼氏と一緒にあのカフェに来て、その友人達と合流した。もしかしたら、教授など学校関係者という線もある。
高校時代の友人……、いや、彼女も中学・高校と女子高だったのでそれはないと思う。幼馴染のような、小学時代の同級生である可能性はゼロではないけど、そんな存在がいるとは彼女から聞いたことはない。
そんなことを考えていると、三十分ほどで二人が出てきた。友人と思えるような人が周りにいる様子はない。僕の予想は外れ、店内では二人っきりだったようだ。
ここで初めて、僕の中に浮気という考えが芽生え始めていた。ただ、浮気にしてはそこまで楽しそうではない。特に男性の方は、笑顔というより終始苦笑いといった感じだ。
二人は来た道を戻り駅に向かっていった。僕も後を追う。
改札前に来ると二人は足を止め、ペコペコとお辞儀をしている。男性はじゃあねといった感じで軽く手を振るとさっさと駅の中に消えていった。彼女はその姿を手を振って見送っている。
男性の姿が見えなくなったのか、彼女は改札口から離れるとハーっと大きくため息をつくような感じでガクッとうなだれた。そして渋い顔で肩や首を回している。何か一仕事終えた後のよう。
なんか疲れてる? うーん、バイトの面接とかかなぁ。いや、カフェなんかで面接をするだろうか……、そうだ! OB・OG訪問かもしれない。
詳しくは知らないけど、OB・OGが勤めている会社の近くのカフェとかで会って、話をすることもあると聞いたことがある。
きっとあの男性の会社はこの近くで、彼女を駅まで迎えに行ってカフェで話をし電車に乗った……。いや、それも変だ。なんで電車に乗る必要があるのか。まぁ、まだ四時なので、彼女と話をした後、そのまま得意先などに行くこともあるかもしれないけど。
友達、浮気、仕事、色々考えたけど、どれもしっくりこない。
人混みの中、僕が首をかしげていると不意にスマホが鳴った。表示されたのは文奈。二十メートル先にいる彼女を見るとスマホを耳に当てている。
僕は恐る恐る電話を取った。
「も、もしもし」
『あっ、大和?』
「うん」
『今どこにいるの?』
「あっ、えっと、その……、家だよ」
僕は尾行していたことが後ろめたかったので、咄嗟に嘘をついてしまった。
『家? なんかガヤガヤしてない?』
「えっ、そう? あー、えっと、テ、テレビだよ。今ニュースで駅前とかが映ってて」
『ふーん。ねぇ、これから会えないかなぁ?』
彼女は普段出さないような甘い声で訊いてきた。
「えーーっと……」
『だめ?』
畳み掛けるように更に甘い声でお願いしてくる。
「も、もちろんいいよ。僕も会いたいし」
『ありがとう。じゃあ、すぐ行くね』
「あっ、うん、待ってる」
電話を切ると、彼女は駅の中に消えていった。
まずい! まずい! まずい! 早く帰らないと!!
僕は彼女を追うように駅へ入った。警戒しながらキョロキョロと見回すと、彼女はホームの先頭の方にいる。
このまま気付かれないように最寄り駅まで一緒に行って、アパートに行く途中で別の道で追い抜こう。走ればいけるはず。
……いや、待てよ。
僕はスマホを取り出すと、彼女にメッセージを打った。
大和
『駅前のスーパーで牛乳を買ってきてくれない?』
文奈
『OK』
作戦通り、彼女を最寄り駅近くのスーパーで買い物をさせている間に僕は自分のアパートへ戻った。
「はい、これ牛乳」
「あ、ありがとう。助かったよ」
差出された袋を何食わぬ顔で受け取る。
「今日はパスタにしようと――っ」
話の途中で不意に彼女に口づけをされた。しかも濃厚な方。
「んふっ、ちょ、ぶちゅ、あの、んんっ……」
僕はベッドに押し倒され、そのまま体を重ねる。彼女はタガが外れたように僕を求めた。
事が終わると、明日は一限目からだからと言って暗くなる前に彼女は帰っていった。結局、昼間のことについては何も聞けなかった。
玄関先に一人残された僕は、遠のく彼女の後ろ姿を眺めながら首をかしげる。先週と同じような展開に、まるでデジャヴを見ているかのような気分だった。
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