市
きつね町に住む妖怪たちが妖狐の一族をどう捉えているのか初めて知った。腕の中にいる空狐に対して少し気まずく思う。
「……町の人たちは、空狐さんたちのことを誤解しているのかもしれないですね」
「誤解ではありません」
慰めのような言葉をかけてみたが、空狐は小珠の発言を否定した。
「彼女の評価は至極真っ当です。玉藻前様の時代から、我ら狐の一族は、町民の恐怖心を利用してこの町を統治してきました。それを抑圧と感じる者も少なくないでしょう」
玉藻前。小珠の前世。一抹の責任のようなものを感じた。さっきの話を聞く限り、玉藻前がこの町の統治形態を変えてしまったようにも聞こえたのだ。
「見ていきな! 人のいる町の海で取れた世にも珍しい魚だよ~!」
歩きながら考え込んでいると、突然大きな声が聞こえてきて思考を妨げられた。どうやらいつの間にか市の方まで来てしまっていたらしい。
生の魚が大量に吊るされている。スズキ、キスやイワシ、アジ、アナゴ――小珠も見たことのある魚だった。どうやら妖怪も人間の食べる魚を食べるらしい。
青物市場も隣にあるようで、「やっちゃ、やっちゃ!」と競りの声が聞こえてくる。
その更に奥には屋台や露店が立ち並んでいるのが見える。食べ物だけでなく、衣類、道具、工芸品など、色とりどりの商品が売られていた。
行き交う妖怪たちの間を通って歩を進めると、職人たちが集まる作業場もあった。木工、陶器、紙づくりなどの職人たちがいる。作業場からは、手仕事の音や木の匂いがする。
「おやおや、小さくて可愛い子だね。食べちまいたいくらい可愛いね」
「うちのおでん、食べてかないかい!」
「嬢ちゃん、寿司はどうだ!」
「とれたての魚だよ! 新鮮だよ! あっちの店よりおいしいよ!」
道を歩いているだけで市場にいる様々な妖怪たちから声をかけられる。
その中に、小珠でも言い伝えで聞いたことのある有名な妖怪――河童がいた。
「見ない顔だね。どこから来たんだい?」
「あっちからです」
もう見えなくなった茶店の方向を指差すと、魚屋の河童はうんうんと頷く。
「ああ、嬢ちゃんの長屋はあっち方面なんだね。どうだい、茶店は寄ったかい。あそこの二口女は美人だろう。何人もの男があの娘を口説いているんだが、どうも人の里に降りて帰ってこない初恋の人が忘れられないみたいでねえ」
河童は
「ああ、勿論、嬢ちゃんも負けず劣らず可愛いよ」
「あ……ありがとうございます」
可愛いと言われることなどこれまでなかったため、小珠は恥ずかしくて俯いてしまった。その反応が気に入ったのか、河童がいやらしい笑みを浮かべてじりじりと小珠の方へ寄ってくる。
「どうかな。この後僕と歌舞伎見物にでも行くというのは」
「歌舞伎見物……?」
初めて聞く単語に首を傾げた。河童はにやにやしながら小珠へと手を伸ばしてくる。
あまりに急に距離を縮めてくるので驚いて一歩下がろうとする。次の瞬間、狸の姿をした空狐が小珠の腕の中から飛び出て河童を殴った。小さな体での攻撃だが威力はあったようで、河童がよろけて後ろに倒れ込む。
「――おい河童! まーたお客さんに迷惑なことしてんのか! そんなことしたらうちにも客が寄り付かなくなるからやめろっつってんだろい! あと、そこで煙管吸うのもやめろ! 匂いが商品に移る!」
同時に、魚屋の正面の屋台にいるからかさ小僧が河童に向かって怒鳴った。
からかさ小僧の大音量の怒鳴り声に驚いたのか、河童はそそくさと魚屋の向こう側へ戻っていく。どうやら河童はからかさ小僧のことが苦手らしい。
「ごめんな、お客さん。あいつはどうしようもねえ女好きで……」
「ううん。怒ってくれてありがとう」
小珠はからかさ小僧にお礼を言った。
からかさ小僧の方は、食べ物ではなく手作りの傘を売りに出しているようだ。小珠は空狐からもらった袋から貨幣を取り出し、からかさ小僧に渡す。
「もしよかったら、一本くれない?」
空狐があの雨の日に持っていた傘と比べればぼろぼろだが、不器用ながら一生懸命に作ったことが伝わってくる可愛い傘だ。
「えっ、いいのか? 助けたからって気ぃ使わなくていいんだぞ」
「ううん。単純に欲しいの。素敵な傘だから」
そう言って笑うと、からかさ小僧は少し顔を赤らめて「まいど」と一本の赤い傘を渡してきた。
「それ、日傘にもなるから。これから夏が来たら便利でい」
「本当? 嬉しい」
小珠は夏でも畑仕事で日の下にいることが多くすぐ黒くなってしまう。出かける時だけでも日傘を差せるのは有り難かった。
購入した傘を大切に持ち、ふと気になったことを聞いてみる。
「ここの市って、お店を出す時は誰かに許可を取らなきゃいけない?」
「そんなめんどくせえことはいらねえぞ。早いもん勝ちで場所を取って売りに出すって感じだ。この町の冬は厳しいから冬場は閑古鳥が鳴くけど、瑞狐祭りが近付くとやっぱ賑やかになるな」
「この町の瑞狐祭りって、いつやるの?」
「初夏でい。大体三月後かな。……つーかこの町のってなんでい。他所から来たのか? おめえ」
じろりと不審がるような一つ目で見られ、慌てて小珠は「言葉の綾だよ」と否定した。小珠の慌てっぷりが可笑しかったのか、からかさ小僧はかっかっかっと笑う。その笑顔は子供のような可愛らしいもので、小珠の心は温かくなった。
この町に住む妖怪たちは素敵な妖怪たちだと思った。
帰る頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。夕陽の温かな光がきつね町を優しく照らしている。市の賑やかさも収まり、妖怪たちが店仕舞いを始めていた。
小珠は行きと同じく空狐を抱えて歩いた。
空狐は妖怪たちの目がない細い路まで来ると、ぽんと音を立てて人の姿に戻った。もう誰にも見られないと判断したのだろう。小さな体でいるのは窮屈だっただろうか。
夕暮れの橙色の光が空狐の頬を照らす。その横顔は美しく、小珠はまた見惚れそうになってしまった。少し緊張しながらも提案する。
「楽しかったですね、空狐さん。よければまた行きませんか? 今度はおばあちゃんも連れて……」
「市など行くのは今日限りです」
空狐は小珠の申し出をきっぱりと断ってくる。少し怒っているような口調だった。
「貴女は玉藻前さまの生まれ変わりです。下賤の者と慣れ親しむべき人ではない」
最初から空狐は反対していたことを思い出す。一度限りと思って連れてきたのに、小珠が二度目を求めたせいで不機嫌になったのだろう。小珠は出過ぎた発言だったと反省した。しかし、それ以外の部分で少しだけ、反論したいところもあった。
「……玉藻前様の生まれ変わりであることって、そんなに偉いですか?」
この屋敷に着いてからずっと感じていた疑問を投げかける。
あんなに楽しそうに互いに売り買いして生きている妖怪たちを、優しくしてくれた二口女やからかさ小僧を、纏めて下賤の者と言われたのが悲しかった。
「玉藻前様は偉かったかもしれません。でも私はただの〝生まれ変わり〟です。ただの小珠です。畑仕事をして生計を立ててきた、空狐さんたちが言うところの〝下賤の者〟です」
空狐は少し驚いたような顔をして小珠を見下ろしてくる。小珠ははっとしてすぐに謝った。立派な屋敷で預かってもらっている身でありながら、生意気なことを言ってしまったかもしれない。
「……ごめんなさい。連れてきて頂いたのに偉そうなことを言って」
「……謝るのは僕の方です。嫌な言い方をしてしまいました」
空狐もぽつりと謝罪してきた。互いの間に気まずい沈黙が走る。
しばらくして、その沈黙を先に破ったのは空狐だった。
「貴女に今日、外行きの着物など着せずにいてよかったと思いました」
周囲がだんだん暗くなってきたこともあり、少し俯いている空狐の表情は少しだけ見えづらい。
「貴女は可愛いですから。少し市へ行くだけでも妖怪たちの目を引いてしまう」
何を言われているのか一瞬理解できず、顔を上げて空狐を見つめる。
「可愛い……」
空狐の言葉を反芻した小珠は、遅れて意味を理解した後、何だか恥ずかしくなって不自然に目をきょろきょろさせてしまった。
「そんな風に思ってくださっているのですか?」
「勿論です。……何故僕より先に、河童が言うのか」
ぶつぶつと何やら不満そうに呟く後ろで、動揺から足元が覚束なくなってしまった小珠は、小石に躓いて転けそうになった。
それを空狐の大きな体が器用にも受け止める。
「すみません……」
「いえ。小珠様は意外と、そそっかしいですね」
ふっと柔らかく笑った空狐がこちらに手を差し出してくる。小珠がおずおずとその手を取ると、転けないようにするためか、空狐は小珠の手を握って歩き始めた。
――その姿勢の良い背中を見た時、小珠は確信した。
同じだ。幼い頃、キヨと神社ではぐれた時に手を引いてくれたあの人と同じ背中。泣きじゃくる幼い小珠の手を握り、祭りの中心部まで連れて行ってくれた、月白色の髪と琥珀色の瞳を持つ男性。
空狐が、小珠の初恋の人だった。
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