早朝の畑仕事




 市へ行くことを約束した翌朝、野狐を通して天狐から手紙がやってきた。同じ屋敷内にいるとはいえ、天狐はあまり部屋から動けないらしい。

 手紙の内容は、この屋敷の庭の一部を畑とするというものだった。庭の端の区画に既に場所を作ってくれているらしい。砂利庭なのでこのままでは使えないが、後日良い土を運んでこさせるとのことだった。

 手紙と一緒に渡された鍬と袋に入った野菜の種を受け取り、「砂利庭も耕せば畑になるので、土はいらないですと伝えておいてくれますか?」と野狐に伝える。野狐は常にお面を被っているため表情は分からない。


「野狐さん、いつもお疲れ様です」


 この屋敷では諸々の雑用を野狐たちが行っているようなので、最後にぺこりとお辞儀をして労いの言葉をかけてみる。野狐は無言でこくりと頷き去っていった。

 小珠はその背中を見送った後、襖を閉じて家から持ってきた木綿でできた作業着に着替えた。何年も前から使っている作業着なのでかなりぼろぼろである。そろそろ切って雑巾などに変えるべきだろう。


 鍬を持って外に出ようとすると、空狐が牛車に乗り込んでいるのが見えた。

「おはようございます。昨日はありがとうございました」と小走りで牛車に近付きお礼を言うと、空狐は「ええ。おはようございます」とにこりと上品に笑って返してくれた。ゆっくり話す暇もなく牛車が動き出す。その後ろを、何体もの野狐たちが続いていた。あの野狐はさっき小珠に天狐からの手紙を届けた野狐とは別者だろう。


(空狐さん、こんな朝早くから出かけてるんだ……)


 きつね町はまだ夜明け前の薄明かりに包まれている。朝焼けの色彩が遠くの山々まで広がっていた。木々の間から覗く淡い光が柔らかな影を落としている。

 小珠は庭園のうちの一角で、ざくりざくりと土を耕した。


「随分早起きさんやな」


 そんな小珠をたまたま見つけ、縁側から話しかけてきたのは銀狐だった。最初に嫌な態度を取られた印象が強く、少し緊張した。


「空狐さんや野狐さんの方が早起きでしたよ」

「空狐はんと会うたん?」

「はい、先程鍬を運んでいたらすれ違いました」


 早朝、空狐は何やら忙しそうに野狐たちを引き連れて屋敷を出ていった。空狐に朝早くから用事があるとは知らず、昨夜遅くまで話に付き合わせてしまったことを申し訳なく思った。


「空狐はんも忙しいからなぁ。なんせこのお屋敷の次期当主やし」

「当主……。天狐さまではないのですか?」

「天狐さまはもうお年やから。この町を統治できるほどの妖力は薄れてきてるんよ。そろそろ代替わりや」


 そう言って暇潰しのように縁側に腰を掛けた銀狐は、小珠の姿をじろじろ見てきたかと思えば、呆れたように溜め息を吐く。


「ところで、昨日もろた着物は?」

「あ……着方がよく分からなくて。それに、畑仕事をしていたら汚しちゃいますし」


 結局昔から使っているこの作業着が一番落ち着くのだ。

 少しずれた軍手を直すと、また銀狐に大きな溜め息を吐かれた。


「自覚が足りんわ。仮にも君はこのお屋敷に招かれたお嫁さんなんやで? そないなぼろぼろの格好でええと思ってるん? おんなじ屋敷におるん恥ずかしいわ」


 小珠はその言葉に少しむっとした。昨日からこの男は何だか失礼だ。一族の長の妻としてこの屋敷の飾りのような存在になれと言っているように聞こえる。

 昨夜空狐に褒められたことで少し自信が付いた小珠は、胸を張って反論した。


「もちろん昨日頂いたお着物も大切にします。ですが畑仕事をする時は、それに適した格好をさせてください。畑仕事をしながらお着物を汚さないようにするのは難しいです」

「畑仕事なんかせんでいい、言うてんねや。そないに暇ならお琴や舞を教える先生付けたろか? 女の子はお化粧してかわええ着物着て微笑んどったらええねん。この屋敷はそういう屋敷や」

「それでは、おばあちゃんのお薬代を天狐様に返せません」


 今は早急に薬が必要なので天狐に甘えたが、いずれこの恩は別の形で返そうと考えている。そのためには、今のうちからお金を貯めておかなければならない。


「……いまいち話噛み合わん子ぉやな。狐の屋敷に来たんやで、もっと喜びや。君はこのきつね町では何もせんでも何不自由なく暮らせる。やのに、畑仕事なんて庶民のやることやってみっともないわぁ」

「畑仕事はみっともないことではありません!」


 声を張ってはっきりと否定すると、銀狐が驚いたように目を見開いた。そんな銀狐に向かって間を置かずに指を指し言い放つ。


「例えば昨日貴方が美味しいと言っていた夕食のお吸い物の中に入っていた大葉――あれも誰かが丹精を込めて作ったものです。大葉は初心者でも育てやすい野菜ですが、それでも日当たりや温度など気にすべき点が沢山あります。誰かの努力でできたものです。誰かが作らないと私たちは何も食べられません」


 昨夜、だだっ広い部屋に一族揃って並んで夕食を共にした時、銀狐と金狐は小珠の斜め前に座っていた。小珠は緊張して静かに食事することしかできなかったが、銀狐と金狐はぺちゃくちゃと喋っていたので内容を覚えている。あの時銀狐が「今日のお吸いもん美味しいわぁ」と言っていたのを小珠は聞き逃さなかった。


「食事を楽しむ心があるのなら、それらを作る人を敬う心も持ってください」


 銀狐はぽかんと口を開けて小珠を見つめてくる。

 少し説教臭くなってしまったことを反省し、こほんと一度咳払いをしてから話を切り替えた。


「失礼しました。……あの、聞きたかったのですけれど、妖力ってものを使えば何でもできるんですか?」


 銀狐は少し機嫌を損ねたのか座ったまま黙り込んでいたが、しばらくして口を開いた。


「できることは妖怪の種によるとしか言えんけど。妖狐の一族になら大抵のことはできる。妖狐の一族は妖怪の中でも特殊やからな」

「例えば、このトマトの種を発芽させたりとかってできます?」


 小珠は野狐から渡された袋の中から種を一つ取り出して縁側の銀狐に近付く。銀狐は億劫そうな顔をしながらも人差し指で差し出された種に触れた。


 ――すると、ぽんと芽が出てきた。


「すごい……」

「は?」

「すごいです! これなら、通常の倍の速さで作物を収穫できます! ありがとうございます、銀狐さん!」

「……この程度のことで何感動してんねん。ちゅーか、その汚い格好で俺に近付かんといてくれる?」


 興奮して身を乗り出してしまった小珠に対し、銀狐はしっしっと手で犬を払うような仕草をして距離を取った。


「トマトの発芽には頑張って管理していても四日から一週間かかるんですよ! それをこんな一瞬で……! 妖力って凄いですね!」


 銀狐の失礼な態度ももう気にならない。それよりも、種が一瞬で発芽したことが嬉しい。


 その時、くっくっくっと後ろから笑い声が聞こえた。振り返ると、そこには今起きて庭まで出てきたらしいキヨがいる。やはり昨日から調子がいいようで、杖なしでここまで歩いてきた様子だ。


「おばあちゃん、動いて大丈夫なの?」

「ああ、不思議と体に力が漲るようだよ。こんなに広い畑をもらえるとは、わしも張り切ってしまうね」


 そう言って小珠が予備として持ってきていたもう一本の鍬を軽々と持つキヨの姿は、体を悪くする前――元気に畑を管理していた頃の姿そのものだった。


「今の次期はトマトとナスとキュウリとカブとピーマンとホウレン草の植付期だ。アスパラガスは栽培期間が長いが、この男の妖力を使えば早送りもできるだろう。本来野菜は自然の力で成長するもの……妖力でできた物がおいしいかは分からんが、試してみる価値はある」


 キヨが威勢よく声を張る。


「さあ、やるかい小珠!」

「おー!」


 小珠はキヨの言葉で拳を太陽に向かって高く上げ、張り切って鍬を持ち直した。


 キヨと二人並んでざっくざっくと畑を耕す小珠を、銀狐は「え、俺手伝うとか一言も言うてへんねんけど……」と若干引いたような目で見つめていた。





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