玉藻の前



「……無理です……」


 突然何を言い出すのかと思い、すぐに断った。

 しかし、空狐は笑顔を浮かべたまま一歩一歩と小珠に近付いてくる。小珠は不気味に感じて後退りした。


「か、帰ってください。私、結婚とか考えたことないですし。そもそも急すぎますし、誰かと間違えてるんじゃないですか?」


 村の他の娘たちは、病気持ちでない限り十五歳になると同時に親の決めた相手の家へと嫁ぐ。確かに既に十八歳になる小珠が独り身であるというのはなかなかに珍しいことだが、そもそも小珠は村で〝狐の子〟として浮いており、そんな小珠を嫁にもらおうなどという家はなかったが故のことだ。結婚などとうの昔に諦めていた。なのに今更、急に求婚されても困る。


「僕が貴女を間違うはずがないと言ったでしょう?」


 後退りしているうちに背中を大木にぶつけた。これ以上逃げることはできない。空狐はそんな小珠に怪しげな笑みを浮かべながら近付いてくる。


「ご安心ください。きつね町はここよりももっと良いところです。店は沢山ありますし、生活もこのような集落ほど不便ではなく、豊かな文化があります。僕たちの屋敷に来てくだされば金銭面でも苦労はさせません」

「無理です……」

「何がご不満なのですか? ああ、髪飾りやお着物も沢山揃えておりますよ。貴女くらいの年齢の娘は好きでしょう。見たところ、この村ではみすぼらしい格好が主流のようですが……僕たちの屋敷へ来ればお洒落を楽しむ生活ができます」


 空狐の目線がわずかに降下し、小珠の服装を見たのが分かった。

 小珠は畑仕事に適した男物の作業着しか持っておらず、いつもこのような格好をしている。毎日ぎりぎりの生活の中で頑張っているからこそ身につけているものだ。それを〝みすぼらしい格好〟と言われたことが悔しく、きゅっと唇を噛んだ。


「いきなりすぎますし、それに私、結婚なんてできません。一緒に暮らしているおばあちゃんがいるんです」


 舐められぬようできるだけ強い口調で反論する。


「おばあちゃんの世話は私しかできないんです。おばあちゃん、私を預かったせいでこの村の中で少し浮いてて……協力してくれる人もいない」


 医者を呼んでください、痛み止めをください、おばあちゃんの足を見てほしいんです、と名主を頼ったことがある。しかし、彼らは小珠を見るなり入ってくるなと罵ってきた。小珠が親のいない〝狐の子〟だからだ。当然村では貴重な薬など一つももらえず、泣きながら家に帰り、健康に良いと言われている作物を育てて何とかキヨの面倒を見てきた。

 そのことをぽつりぽつりと話すと、それを聞いた空狐がぽんと手を叩いた。


「ああ、あのお方が心配なのですね? 分かりました。彼女も連れてゆきましょう」

「え……? おばあちゃんを知ってるんですか?」


 思わず顔を上げて聞くと、空狐がにこりと笑った。


「当然です。貴女を育ててくださった方ですからね。きつね町には医者や薬屋が沢山あります。痛み止めもありますし、ここよりは良い思いをさせられるでしょう」

「本当ですか!?」


 小珠は空狐の着物に手をかけて必死に問いかけた。

 薬を求め、隣の村に何日もかけて歩いて出向いたことがある。しかしそこでは格好から盗人と間違えられてしまい、結局何ももらえないままに逃げ帰ることになった。小珠は、老いていくキヨに未だ何もできていない――もしも本当にきつね町が空狐の言うような便利な町であるなら利用しない手はないだろう。

 空狐は小珠の先程とは違う食いつきっぷりにやや驚いたように瞠目したが、すぐに通常の表情に戻って肯定した。


「ええ。結婚してくださるなら、お安い御用です。町で最も腕利きの医者に見せましょう」


 小珠は大きく頷いた。

 どうせここにいてもキヨの体調は良くならない。突然現れた知らない男たちに付いていくのは不安だが、小さな可能性に懸けてみようと思った。



 ◆


 牛車に乗せられ、空狐の隣に座って神社の分祀から家まで送られた。そう遠くない距離であるため牛車は必要ないと断ったのだが、先程土下座していたお面の人たちに無言で乗せられてしまった。

 お面を付けたまま一切喋らない彼らは、牛車の両隣で行列を作って歩いて付いてくる。かなり仰々しいので他の住民に見られたら騒がれるのではないかとはらはらした。幸いにも雨の日であるためか外に出ている人はおらず、牛車を目撃されることはなかった。


「彼らが気になりますか」


 ちらちらとお面の人たちを見ていると、隣の空狐が説明してくる。


「彼らは野狐やこといって、我々の屋敷の者に使えている従者です。指定された仕事以外はしない主義なので、予定外のことは頼まない方がいいですよ」

「さっきから全く喋らないですよね」

「野狐は声を発しません。こちらの言葉は理解しているのでお気になさらず」

「すごく沢山いますけど、全員で何人くらいなんですか?」

「屋敷で待機している野狐もいますから、それを合わせるともっと多いですよ。……もっとも、実質何人が勤めているのかは僕も把握できていませんがね。本体の数は見かけより少ないかと思います」


 さらっと本体という言葉が出てきたので、小珠はぎょっとした。


(分身ってこと……?)


 おそるおそる綺麗に整列している野狐たちをもう一度見つめた。分身と言われても納得できるほど挙動が同じで、姿も同じだ。お面の向こうの顔まで同じかは分からないが、髪型や背丈は全く同じである。


 野狐たちの揃った動きをぼんやり眺めているうちに家に着き、牛車から降ろしてもらった。小珠が戸を開けて中へ入ると、数名の野狐たちが後に続く。

 すると、眠っていたキヨの体がぴくりと動き、キヨは自ら上体を起こした。目も悪くなっていたはずだが、まるで見えているかのようにじっと野狐たちを見つめ、ゆっくりと二言発する。


「……そうかい。もう迎えに来たのかい」


 しわがれ声だが、久しぶりにキヨがちゃんと声を出したのが嬉しく、小珠は囲炉裏のそばまで走って近寄る。


「おばあちゃん、あのね、さっき空狐さんっていう人と会って……何でかは分からないけど、空狐さんの家にいる人が私と結婚したがってて、」

「いい。分かっているよ」


 小珠が説明しようとするのを制止したキヨは、野狐の方を見上げる。


「この子を連れて行くんだろう。約束の時が来たんだね」


 野狐は何も答えなかった。


「……おばあちゃん、知ってたの?」

「あんたが幼い頃からの約束だ。いやあ、お狐さまのお力はすごいねえ。あれだけ喋る気力がなかったのに、野狐が近くにいると舌がよく回るよ」


 くっくっと肩を揺らして笑うキヨ。笑顔を浮かべるキヨを見たのが久しぶりで、小珠は少しだけ泣きそうになった。


「〝お狐さま〟って?」

「おや。聞かされていないのかい。そこにいる彼らは、妖狐のお屋敷の従者だよ」

「妖狐って、きつね町で一番偉い妖怪なんじゃ……」


 小珠が野狐たちを振り返ると、ちょうどそこに入ってきた空狐が、にこりと笑ってキヨに挨拶をする。


「お久しぶりです。キヨさん」

「ふ。昔とおんなじ、しけたツラだねえ。空狐」


 キヨがいたずらっ子のように笑う。その馴れ馴れしさに小珠は驚き、空狐とキヨを交互に見つめた。


「覚悟はできてるよ。幸せにしてやっとくれ」

「ま、待って待って。おばあちゃんも行くんだよ?」

「なんだって?」


 キヨがあまりにもお別れの雰囲気を出してくるので、小珠は慌てて否定する。


「ええ。申し訳ありませんが、貴女にも来て頂きます。キヨさん」

「……わしも? 人間があの町へ行くのは危険なのではなかったかい」

「それだけ長生きしていれば妖怪みたいなもんでしょう、貴女も」


 淡々と無表情で言った空狐に、何がおかしかったのかがっはっは! と大きな笑い声をあげたキヨは、「いいじゃろう。小珠がきちんと幸せになるか、見届けねばいかんしねえ」と言った。

 そんな中、まだあまり得られた情報を飲み込めていない小珠は、空狐を見上げて問いかける。


「ええっと……もしかして私の嫁ぎ先って妖狐の一族の元なのですか? あの、妖怪を統治しているっていう?」

「ええ。元の場所へ帰るだけですよ。貴女は殺生石に封じられ亡くなった玉藻前たまものまえさまの一度目の生まれ変わりなのですから」

「玉藻前……?」


 聞き慣れない単語について聞き返すと、空狐が説明を付け足してきた。



「我ら妖狐の一族の中でも最も強力な妖力を持っていた、九尾の狐の名です」







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