雪解けのしらせ(後)

 釣果の上がらないシャルは、いらだっていた。

 使ってるのは毛鉤に少しエサをつけた仕掛け。

 竿が長く、糸はもっと長く、錘が少し重い。

 ウキは使ってない。

 初心者のあつかえる仕掛けではなかったが、ジョウニーおばあちゃんからやり方だけはさんざん聞いたから、かんたんに釣れると思ったのだ。

 おばあちゃんは一日で黒斑を50も釣りあげたことがあると言っていたのだ。

 なのに、

「なによ、なんで釣れないの?」

強がってがむしゃらに竿をふるう。

 仕掛けはぜんぜん飛ばず、手元につん、と落ちる。

「ハハハー! へったくそー! お前一匹も釣れてないじゃないかー! だから女に釣りなんて無理なんだよ!」

 調子に乗ってシャルをあおるのはジメルである。

「おい、やめろよジメル! お前だって俺より釣れてないだろ!」

「う、うるさい! お前となんか話してないぞ!」

 横合いからアレフが怒るが、ジメルも引き下がらない。

「カリガル、あいつはいつもああなのか?」

 アレフがカリガルに訊く。

「ジメルは一人だとなにもできないが、仲間がいるとえらそうになるんだ」

 そんなヤツとつるむなよ。

 アレフはぶぜんとする。

 一方のシャルは、ジメルに責めたてられて爆発寸前だった。

 ここまで釣果がないのは、シャル以外は年少の子たちだけだ。

 もう年長の威厳も女子の尊厳も粉々にくだけちって、こうなると女子たちの応援もやみ、みんな話しかけてこなくなる。

 そんな気づかいも恥ずかしかったが、アレフにかばわれたことがなにより屈辱だった。

「女はかえれ、女はかえれ、いつまでたっても釣れやしないぞ! 尻をつきだして、はしたない女!」

 だがやっぱり一番腹立たしいのはこのジメルだ。

 そろそろあの瘦せぎすのほっぺたに、きついのを一発張ってやろうと思っていたところだった。

「ジメル! あんた農場の仕事はどうしたんだい!」

 ジメルの母親だった。

 背は低いが横にも前にも大きい。

 キリエ三人分はありそうな母親だ。

「やべえ」

 とたんにジメルが泣き顔になる。

 母親は靴をぬいでざぶざぶと水に入り、ぶっとい腕でジメルの頭に、湖面に響くようなゲンコツを落とした。

「ゴメンよ母ちゃん、ゴメンよ」

「いいから来な!」

 泣きながらあやまるジメルの襟首をつかんで引きたてる。

「あら? あんた」

 その途中でシャルを見つける。

「その竿とその仕掛け、赤い目、ジョウニーさんの孫だね?」

 丸い体をかたむけて、シャルの目をのぞきこむ。

 どっしりと安定した腰と押し出しの強さは、ジメルと似ても似つかない。

「あれ、本当にジメルの母さんか? カリガルの母さんじゃないのか?」

 ジメルと血がつながっているとは思えぬ豪傑ぶりに、アレフがふしぎがる。

「やばい、やばいぞ」

 そんな軽口にはいっさい取りあわず、カリガルが本気であせる。

 アレフが訊く

「なにが?」

「ジメルの母さんは、三つ国峠村きっての、釣りの名人なんだ」


「いいかい、その竿は、そんな振り方するもんじゃない。まず場所が悪い。男の子と同じところに投げたって、いるのは仲間をつられてビクビクとかくれて食いつきの悪い魚だけさ」

 ジメルの母親、ジルマがいう。

「あんたがやるべき場所はこっちだ。みんなからはなれたこの場所なら、大きく竿をふって針を枝に引っかける心配もない。そして、この竿はこうふるのさ」

 ジルマはシャルの後ろにつき、その両手をうしろから支え、竿先で空の同じ場所を搔くように、風にゆさぶられた細枝のようにふるう。

 すると、糸と仕掛けがトンボのように鈍色の空に舞う。

 長い金色の糸がキラキラと、風の形をなぞる。

 そして、一度竿を大きく引いてから、えいやと前に仕掛けを投げた。

 ピュウ!

 竿の先端が冬の終わりの空気を切って、みごとな音を鳴らす。

 糸と仕掛けの重みで、毛鉤は今まで見たこともないほど遠くに飛んだ。

「頭を下げてみてごらん、あそこに漣があるだろう?」

「うん、たくさんキラキラしてる」

「魚は漣が好きだ。空から鳥に見つかりにくくなるからね。あそこをくぐらせるように、ゆっくりと竿を引くんだ。もっとゆっくり、この仕掛けが似せてるのは黒ヤゴで、そんなに早くは泳がない。コツはね、ちょんちょんと引くことだ。鱒の大好物の黒ヤゴがやるようにね」

「わかった」

 シャルはジルマのいうとおりにした。

 息をつめすぎて、額に汗がにじんでいる。

 糸が狙った漣の下にくる、それからしばらくちょんちょんを続ける。

 するとどうだろう、竿の先端がくっくっと揺れた。

 ジルマが緊張した声でささやく。

「ようし黒斑鱒だ。あんたは生まれつき感覚をもってて、しかも運がいい。よく聞きな、黒斑ってのは賢い魚だ。鼻先で、こいつは本当にエサかどうかを確かめるのさ、ちょんちょんの後、ゴツンときたら食いついた魚信あたりだ。ガツンと引きな。さあくるよ!」

 ゴツンときた瞬間、シャルが思いっきり竿を引いた。

 思いきりの良さなら、アレフやカリガルにだって負けないシャルだ、一度で当てた。

「ええいや!」

 糸がビンとのび、そして仕掛けをメチャクチャに引っ張りまわす。

 糸が水面を縦横にはしり、細いしぶきをちらす。

「やった! かかった!」

 シャルが歓声をあげる。

「まだまだここからさ! 糸を切らせないように、上に上に引くんだ! 手も足もお腹も全部使いな! 杭や木のそばに行かせちゃいけないよ! 仕掛けごと糸をばらされる! ほらうしろの子! タモをだすんだ!」

 ジルマがライラを指さして大声で指示する。

 わあ!

 女の子たちから歓声があがる。

「シャルよ! シャルが釣ってるわ!」

 ライラが大声でさけぶ。

「逃がすものですか、こいつめ!」

 シャルの引きにこらえきれず水面をはねた黒斑鱒の魚体は、この日かかった中で一番の獲物だ。

 ほとりに打ち上げられ、まだ暴れている黒斑鱒を、肩で息しながらシャルが見る。

「やった……!」

「さあもうやり方はおぼえたね? 男の子になんか負けちゃいけないよ。終わったら、大きくて形のいいのを五匹ほどウチの前に届けておくれ」

 ジルマはべそをかくジメルを引きずってかえっていった。

「あいつ、母さんが釣り名人なのにあんなこと言っていたのか」

 アレフが心底あきれる。

「ジメルの母さんの釣りの先生がジョウニー婆さんで、ジョウニー婆さんは竿をとりあげられるほどの釣り名人だったんだ」

 カリガルがボソッという。

「名人なのに、竿を取り上げられるのか?」

「釣りすぎたんだよ。ジョウニーが竿を振ると、漁師の網から魚が逃げるって言われたんだ」


「またよ! これで五匹目だわ!」

「黒斑鱒よ! 二匹目ね!」

 一度コツをつかんだシャルは、次々と魚を釣りはじめた。

「ほうら見ろ、手がつけられなくなった。このままじゃ俺たちまで負けちまうぞ」

 見たことないぐらいにあせってカリガルが言う。

「アレフお前、魔法が使えるんだろう。それで何とかできないのか?」

「風の魔法でどうやって魚を釣るんだよ」

「お前風が使えるのか。じゃあ長い仕掛けで、遠くにとばそう。この短い竿と仕掛けじゃ、浅瀬の山女か鮎しか狙えない」

 風と聞いてすぐに機転を利かせるカリガル。

「わかった」

 突如あらわれた強敵の前に、アレフとカリガルがついに連合を組む。

 仕掛けを遠くをねらえるよう作りなおし、

「風よ! つむじ風!」

 アレフが目を閉じ、風を呼ぶ。

 白銀山脈の第二峰、墨狼山からおろしの風が流れ落ち、ふわっと暖かい春の香りが、背中から湖にむかって通りぬけた。

「風も楽しんでる……! もうすぐ春がくるんだ!」

 アレフがうっすら目を明けて、風の言葉を聴く。

「よし! みんな投げろ! 黒斑をねらうぞ!」

 カリガルの号令で、男の子たちが威勢をあげ、大きなツェルテ湖にむかう。


「ほっほ。子供らは元気よのう」

 一喜一憂する彼らをながめながら、パイプをくゆらせ、ガリオラが笑う。

 その背後から風にのって、にゃあにゃあ鳴き声がきこえだした。

「これは、なんと、猫人か」

 ふり返るとそこには、大賢者ガリオラですら見たことがないほど、たくさんの猫人がいた。

 その中から、小さな仔が一匹、すすみでた。

 ようやく二本足で歩けるようになったばかり。

「かじぇのひと!」

 ルトだ。



 この日、一番吊り上げたのはカリガルの33匹、二番目はアレフで20匹、三番目は15匹で三つ国峠村のハルツ。

 だが、数はどうあれ勝ったのは、13匹釣って、一番大きな黒斑鱒をあげたシャルだった。

 シャルは黒斑鱒をおしげもなくジルマに渡し、

「あれは、彼女が釣ったものだもの」

そして言った。

「ほしくなったら今度自分で釣るわ」



 帰りの道は、にぎやかだった。

 緑風村と三つ国峠村の子供たちに、猫人もまじってその数は100以上、三つ国峠村の目抜き通りは、彼らを見物するものであふれた。

 アレフの胸元には、ルトがいる。

 服の中でぬくぬくと、顔だけ外にだして目を細めている。

 この眺めは後世の者がアレフを語るとき、ずっと話の種になることだろう。

「アレフ、風の人、か」

 めずらしく彼らといっしょに歩きながら、大賢者ガリオラはつぶやく。

「彼はわたしの誘いに乗ってくれるのかねえ」

 その横を歩いていた白長ヒゲの猫人が言う。

「あの子はあんたについてゆくよ。わが小さな同胞ともども、朋友をよろしく頼む」

 猫人の長、クーカ・シーラだ。

「なんと!」

 猫人の言葉に、ガリオラが驚く。



「そろそろ戻る頃合いかしら」

 家ではキリエが夕食をこさえている。

 鍋で煮物をぶつぶつと作りながら、寂しげに言う。

「あの子に私の手料理を食べさせる機会は、もう数えるほどしかないのね」


 春一番が吹いたその日、緑の魔女はただ一人寂しげだった。

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