プロローグ・後編下
─────。
息が出来ない。…いや、それどころか指先の一欠片すら、最早動きそうにない。深い、深い湖の底に沈んでいるような…あるいは、空に浮かんで行っているような。
そんな、言いようもない感覚に襲われている。
でも、わかってる。
─────ボクの終わりは、呆気のない物だった。
自身の最後を思い出そうとすれば、不意に─────
─────微睡み、揺蕩う様な意識の中で、ボクは深い森の中で走り続ける、幻のような
そして、走って、走って、離れていく彼女の背中に、ボクは追いつこうともせず、ただ彼女に言ったあの言葉を頭の中で何度も何度も反芻させる。
「『英雄になりたい』…かぁ。」
声になっているのかすら定かでは無いが、先の見えないこの虚空の中で、ボクはそう呟いた。
あの子に────アンリに言ったあの言葉。
ボクが放つには、やっぱり過ぎた
─────だって、そうだろう?
アイツらが来ても、
──────ボクは、動くことすら出来なかった。
挙句の果てには敵に捕まり、そして、おじさんの間接的な死因になった。
だって、多分おじさんだけならあの化け物にだって勝ってたんだ。
────勝ってた、筈なんだ。
その言葉を、存在しない奥歯が砕けるほどの思いで噛み締めていれば────いつからだろうか、自身を責め立てるように、無数の黒い影が現れる。
『お前のせいだ。』、『なぜ戦わなかった。』、『口だけの腰抜けめ。』、『剣だって、槍だって、すぐ傍にあったはずだ。』、『戦力になるか等どうでもいい、何故、なぜお前は────』
『何故お前は──抗おうとすらしなかった?』
無数の
身体のないボクの、その必死の抵抗に意味は無く、ずっと、ずっと声が響き続ける。
そして、その中の一人が────他でもない、ジャン・パラミールの写し身をとったその影の言葉に、ボクは何も言え─────
『そりゃ…こえェからだろ。』
─────同じ、
でも、その声には、怨嗟も、怒りも、何も無い。
ただ感じられるのは─────父のような慈愛。
無論、ボクに父親は居ないから、「絶対にこれはそうだ。」とは言えないが…でも、その言葉はそうと言うしかない、そんな感情を秘めていた。
────この夢において、彼は異分子であったようだ。
先程まではボクの周囲に集り、そして怒りに吼えていた影は、慄く様に背後へと引いていく。
『抗えねェのは、怖ェからだ。当たり前だな。』
質問をした影ではない、ジャンは、ボクに対してそう答える。
────そして、その言葉に…ボクはやっぱり自身が情けなくなる。
英雄になる。だのなんだの言っておいて、怖がって、最後にはこのザマか?
自嘲気味に笑うボクを、真剣な目で見据え、ジャンは口を開く。
『──────でも、怖ェのは、優しいからだ。』
破顔一笑。ジャンは眉間に皺を寄せていた、冷徹な傭兵の顔から、優しげな父の表情へと変える。
しかし、ボクは言葉の意味がわからず首を傾げ、そして声を続ける。
「…違う、違うよ。優しいなんて意味は無い。ボクはさ、英雄になりたかったんだよ。」
自身では気づかないほど悲痛な、今にも泣き出しそうな顔でセイルは言葉を続ける。
「────でも、なれなかった。ボクのせいで、いっぱい死んだ。いっぱい苦しんだ。」
「────ハーレンさんも、サリラおばさんも、村長も…。」
全て、全て戦闘中、ボクに悲鳴を届けた犠牲者達。
そして─────あの、黒い影となったもの達。
「────みんな、ボクを恨んでる。」
「英雄になんてなれっこない…。ボクの代わりに、もっと強い子が生まれてたら………ボクは、生まれるべきじゃなかった。」
能力的にも、知識的にも、あまりにも貧弱で、英雄たり得ない。
────それに、なろうにも…もう死んでる。
沈痛な面持ちで訴えかけるボクの様子に相反するように、おじさんは困ったような面持ちで、頭を掻きながらそれを聞いてる。
『なぁ、セイル。』
不意に、ジャンが言った。
「…おじさん?」
『ちょっと歯ァ食いしばれ。』
─────瞬間、弾けるような、水気混じりの音が鳴り響く。
あまりにも唐突かつ理不尽な
(恐らくは)霊体になったというのに、頬からはジーン。と響く様な痛みを感じる。
あまりの痛みに、泣き出しそうになるものの
ジャンは其れを詫びるように、セイルをきつく抱擁した。
「────え?…え?」
困惑するも、それによって涙が引っ込んだボクに対し──────
─────ジャンは、泣いていた。
『馬鹿が…。馬鹿がよ…っ!…俺が、俺たちがお前を恨むなんて…あるわけがねぇだろ…!!』
鼻をすすり、噛み締めるようにして、ジャンは言葉を続ける。
『この村で過ごす俺たちにとってはよ…お前は宝物みてェなもんなんだ…!』
『あの日、外から…名前の書いた紙だけ持って現れたガキのお前を、"みんなで育ててよう。"って
ふと思いついたように「今も子供だけど…」と言ったボクの額を、『黙って聞けやい』とおじさんの指が軽く小突く
『みんなは快諾して、お前にパンやら、何やら出しやって…』
『初めは無愛想で、警戒して何も口にしなかったお前が─────』
─────そうだ、5歳の頃にこの村に着く前…ボクは、とある孤児院に居た。
そこのご飯は、毎日変な薬が混ぜられてて…其れは…辛くて…だから、"食べるという事そのもの"が…怖くて。
『───お前が、初めて飯を口にしてよ。嬉しそうな顔をした時、みんなで宴会まで開いたんだぜ…?』
『村長の金でな。』とおどけるような、泣き笑いの表情でジャンは言う。
怒る村長の顔が直ぐにでも思い浮かぶようで…村長は、ボクのせいで死んだのに…駄目なのに。本当に駄目なのに。
ボクは、「ふふ…」と、やっぱりと言ってもいいのか、酷い泣き笑いの表情で感情を絞り出す。
『─────お前が、お前が心を開いてくれる度、みんな泣いて喜んでたんだ…。』
村長も、おばさんも、ハーレンも、ジャンも。
勿論、彼女も…。
『…それを、恨む。恨むだと?……冗談でも、ンなこと言うんじゃねェ…!』
泣きながら、しかし笑って話していたジャンは、鼻をすすり。
そして、優しげな表情を浮かべる。
『────みんなお前の事、自慢の息子だって思ってんだ』
『────だから、『生まれるべきじゃなかった』だなんて、んな事…!!言うんじゃねェよ…ッ!!』
…そして、男が鋼鉄の精神力で押し止めていた言葉の数々が、決壊するように溢れ出す。
『だいたい、俺たちの死がお前のせいだと!?』
『馬鹿言うんじゃねぇ、お前は…!まだ子供なんだ、俺達の、
『…頼りなくても、それでも、俺たちは…!お前の、親なんだよ…っ。』
その言葉を境に、虚無地味た様相であった視界が、世界が。
照らされるように光を取り戻していく。
其れは、ボクの原初の風景。
"あの"孤児院じゃない、ボクの…セイルの故郷。
田舎だし、不便だけど、牧歌的で、そして優しい…
ボクの…ボク達の故郷
黒い影が、本来の姿を取り戻す。
だよね。
…君達は…君は。
─────ボク自身…ボクの、弱い心だったんだ。
大丈夫。もう立てる。────だから、もう大丈夫だよ。
そう言えば、口惜しげに微笑むようにして、見知った姿の黒い影は、掠れて消えていく。
────そして、思い出したようにボクは叫ぶ。
「─────そうだ、アンリッ!!…ジャンおじさん!!アンリは、アンリはまだ生きているんだッ!」
暗がりが解け、死んで肉体を失ったからだろうか、
そして、それを既に知っていたかの様にジャンはセイルの視線を見つめ
『あぁ、だから、あいつを任せた。』
セイル「…任せたって言っても、ボクは既に…」
『死んでねぇよ。』
「え?」と声を出し困惑するセイルに対し、ジャンは自慢げに、胸を張って言葉を続ける。
『俺の最後の大仕事だ。セイル…。お前はまだ生きてる。』
知ってたんだ、お前の夢を。
そして、【知って】。
可能なら、お前が夢を叶える様子を、
でも、それはもう、出来ねェから。
最後に、力にならせてくれ。
『
それを聞いたセイルは、目尻に涙を浮かべ、でも、それは決して流さずに。
大きく頷いた。
この世界に居座る必要のない、セイルの霊体が光の粒子となって消えていく。
正確には、元の体に戻っていく。だろうか。
それを見ながらジャンは、子の巣立ちを見守るような親鳥のような目で、小さく呟く。
────そして
娘を頼んだぜ。
────俺の、俺達の…自慢の息子。
セイルの霊体が、残滓すら残さず完全に消え失せる。
セイルによって構成された世界が故に、その世界もまた、光となって消えていくだろう。
惜しむことがない。と言えば嘘になる。
セイルの消えた地面を呆然と見ながら、ジャンはやはり微笑む
────セイル。お前はさ、間違いなく俺にとっても英雄だったんだ。
娘と同じ言葉を、独りでに呟き、
無論、その言葉もまた風となり、セイルに届くことはなかった。
***
とある組織の吸血鬼の貴族────階級で言えば下から数えて三番目である『子爵』たる彼女『ヴラヴィ・ルスビン』は、命令によりとある村の全滅を言い渡された。
───そして、その中で最も警戒すべき。と言われた伝説の傭兵『黒狼』の死体────正確に言えば、『黒狼』を押し潰した【腐れ屍人】と呼ばれる配下の、溶けた肉塊を見下ろしている。
無論、下民を嫌い、自身を高貴と謳い
吸血鬼であるにも関わらず生きた女の血以外を飲まぬヴラヴィは、死体を確認してやろうとは思わない。
黒泥…『腐れ』の滴る肉塊に触れ、あまつさえ下卑な人間の────恐らくはミンチとなっているであろう死体に近づきたいだなんて、思う筈がない。
─────それにしても。とヴラヴィは嘲るように、鼻を鳴らして優雅に嗤う。
「傷一つでもつければ首を噛みちぎって殺す。ですって?」
────嗚呼、やはり我慢ならない。ともう一度クスクスと嗤う。
「傷一つどころか、
おーっほっほっほ!と『お嬢様の笑い声』の定形の様な声を高らかに上げながら、未だ足の残っている腐れ屍人を引き連れ、その場を後に…
「────【呪血弾丸】。」
機械の様に表情を一変させ、ヴラヴィは掌ではなく、右の人差し指を"例の肉塊"に向け、一発放つ。
音がしたのだ。そして、
生きているはずがないが、保険───────
"ガ ギィ ン"!
と、鉄を無理やり引き裂いたような、異様な音が空間を支配した。
「────な…っ!?」
"呪血弾丸"。上位種たる吸血鬼の持つ基本技能のうちの一つ。
肉体変化で作り上げた極小の穴から血を圧縮しながら放つ事で、速度、破壊力を得た血の弾丸。
これの破壊力で、吸血鬼は大まかなランク付けをする。
故に、ヴラヴィのそれは速度を捨てて、破壊力だけを取っていた。
故に、子爵以上…二つ上の侯爵は無理であるとしても、伯爵レベルの吸血鬼であっても、ヴラヴィの呪血弾丸を躱せはすれど、受けるなど不可能───────とヴラヴィは思っていた。(試したことは無いが。)
─────だが、今の音はどういうことだ?…あれではまるで…弾かれたようにしか聞こえないのだが。
いや、そんなはずは無い。相手は良くて瀕死だぞ!
…いや…他には
縦長のトカゲじみた瞳孔を持つ赤い瞳を、肉塊へと恨めしげに向けながら、ヴラヴィはその場に立ち尽くしている。
「──────あ。」
死肉の中から声が響く、その瞬間、ヴラヴィは言いようもない危機感に駆られ、念の為用意していた指を向け…
たった3発、
一発一発が大地を抉る緋色の弾丸が、死肉の塊に着弾するその直前。
────斬撃が爆発する。
其れは常人から見れば、ドーム状に真空のエリアが形成されたようにも見えるだろう。
だが、そうではない。
あのドームは、内部の死肉が全て斬り刻まれ、目視不可なまでの大きさになるか、弾き飛ばされた無の空間。
そしてそれが、剣の残影によって目視可能としたのだ。
…そして、その異次元の剣技は、襲い来る三つの弾丸をもついでとばかりに跳ね除けた。
─────剣影が消える。
内に佇むのは、一人の少年。
わなわなと唇を振るえさせながらヴラヴィは問う。
状況は全てこの少年がそうなのだと示していた。
だが、それでもまだ認められない。
「…お前、お前は…何者ですの?」
その言葉に
しかし、確かな意志を以て、一言だけ答えた。
「───────ボクは。」
「────英雄になる者だ。」
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