蟲食み少女の英雄譚

激熱珈琲

プロローグ

プロローグ・前編

 …不思議な感覚が身を包む。




 それは、空の彼方で浮いている様でもあり。

 或いは、深海の底へと沈む様でもある。




 ともかく、平衡感覚を始めとする全ての情報が喪失した、"何も無い虚無"の中に身を置いているような、そんな不思議な感覚だ。




 ​────その虚無、深い闇の中で自身の意識を揺蕩わせていると、不意に、意味の無かった私の鼓膜に意味が与えられる。


 初めての音が、私の耳を叩いたのだ。




 「​─────!」




 「​…ンリ────!」




 騒々しいくらいの其れは、幾度も私の鼓膜を打っては、とめどなく、終わりなく、鳴り響いている。


 初めの内は、物珍しいその音をもっと聞いていたいと思っていたのだが


 やはり人間の性という物、「飽き」という物なのか、数秒後の私は、もう既に、その音を煩わしい物としか認識できておらず​───────




 「…うるさい。」




 故に、そう口に零してしまうのも仕方のない事だったのだ。




 「​───ん?」




 ビキビキ。と何かが割れるような…いいや、太い青筋の立つ音が響く。




 「…あ。」




 後悔先に立たず。ぶちん。と何かが切れる音がした。

 その音をきっかけに、私の脳は迅速に覚醒していく。




 しかしそれは同時に、自らのやらかしを明確に自覚させる、末恐ろしい覚醒であった。




 「​…あの、寝ぼけてて…!ごめんなさ────!」




 言い終わる前に、私の口は無理やりに閉じさせられる。




 …というよりも、頭部に叩きつけられた怒りの鉄槌を、口を開けたまま受けられる程、私の顎関節は頑丈ではなかったのだ。





​***






「​───お父さん!起きた時からずっっ​─────と!!頭がじんじんするんですけど!!!」





 場は朝の食卓。

 ハムトースト、大きな目玉焼き、コーンスープ、そして牛乳。


 それらが人数分、つまりは二組並べられた長テーブルを前にし





 少女​───【アンリ・パラミール】は高らかな声で正面に座るもう一人の男を非難していた。





 「ふんす!」と猛々しく鼻を鳴らすアンリとは対照的に、相対する大きな髭を蓄えた筋骨隆々の男は冷めた目で言葉を返す





男「​────おう、そうか、それで?」




アンリ「この頭の痛さは、起きてすぐにお父さんの拳を叩き込まれたせいですよね!!」




男「​────そうだな。」



アンリ「人に痛いことをするのは悪いことですよね!」



男「​────そうだな、悪い事だ。」




アンリ「…という訳で!」




男「………。」





 数秒の沈黙、少女は、フォークを片手にいつの間にか男の傍にまで移動している。




 置かれる一呼吸。




 ​────次の瞬間。





アンリ「お父さんのハムトーストは私が貰いま​────!」




男「​───こンの…!反省せんか!バカもんが!!」





 目の前のトーストに飛び込む少女に、再び叩き込まれる岩のような硬さの拳。

 主観的感情が大きく混ざるが、硬さで言えば 熔鉄悪魔アイアンデーモン の皮膚より硬いと思われるそんな拳。




 そんな、娘に向けるものでは無い(と私は思う)拳が、再びこの小さな脳天に叩きつけられた。




 目も開けられないほどの鈍く、重い痛み。

 痺れる衝撃が頭から尻まで突き抜ける様子は、稲妻にも例えられるかもしれない。



 朝の一撃も相まって、私は「きゅう」と空気の抜けるような間抜けな声を出して、そのまま視界を暗転させた。





 普通にやりすぎだと思う。





​***






アンリ「…って事が朝にあったんだよね!いやさ、確かに私にも悪い所はあったかもしれないけどさ、それにしても、いっとしい一人娘に対しての態度にしては、あまりにも暴力的だと思わない!?」




アンリ「お父さんはあれ…DV男?って概念の権化と言っても過言では無いと思うんだけど、どう思う !?」




 少女は腕を大袈裟なまでに振りながら、先程までの反省はどこに行ったのか、最近になって覚えた​────というか、どこで覚えたのか分からないような言葉で、自身の正当性と、父親である【ジャン・パラミール】の悪性を訴えている。



 そして、仕事ながらにそれを聞くアンリの幼馴染の少年【セイル・モルドレッド】は溌剌に笑いながらも右から左にそれを聞き流し、時折適当な相槌を打ってはアンリを落ち着かせ、宥めようとするだろう。



 そして、その反応が「賛同してもらえている」とアンリを勘違いさせ、一人参加の悪口大会はヒートアップし更なる盛り上がりを見せていっていた。




 「もはや収拾がつかない」と理解すれば、セイルは話を変えようとこの様な話題を切り出す。




セイル「​────そういえば!明日は年に一度の村祭りの日だよね!」



セイル「アンリはこの前花束をジャンさんに渡すって言ってたじゃないか、あれの進捗はどうだい?」



アンリ「​────あ!花束!!!そういえば…!!」




 先程までは真っ赤にしていた少女の顔は、みるみるうちに真っ青に染っていく。

 その様子は、リトマス紙もさながら、と言った様子だ。



 それは言葉にする必要すらないほどに、少女が「その事を忘れていた」という事実を如実に表していた。



 それを聞いたセイルは「あちゃ〜…」と頭に手を当てる。



 花束。となると中々の量が必要であり、それだけの満開の花が取れるのは村外れの森にある花畑くらいな物だ。



 然し、事前の外出届けなく、子供だけで森の中へと入ることは許可されていない。

 つまり、今日中に花束を用意する事は不可能なのだ。



 アンリは、ふるふると身を震わせ、目尻に涙を貯めてはセイルの方へと突進するように抱き着き縋るだろう。




アンリ「セ、セイル〜っ!ど〜しよ〜っ!!」




 傍から見ただけではそうとは思えないが、アンリという少女は【ファザコン】と言っていいほどに父親の事を愛している。



 だからこそ、ジャンに感謝の言葉と品物を恥ずかしがる必要もなく渡す事が出来る明日の事を、誰よりも楽しみにしていた。



 そして、セイルはその事を知っている。

 だからこそ「別にジャンさんなら笑って許してくれるよ。」とも言えず、困ったように頭を捻っていた。



 数分の沈黙…いや、アンリの啜り泣きが響いていると、不意にセイルが手を叩く。




セイル「​────そうだ!ねぇアンリ!君って今日は何か用事があるかい!?」




アンリ「え?…え、え〜と…確か、今日は午後にお父さんのお仕事の手伝い…だけだったかな?」




 涙を拭いながらアンリはゆっくりとそう答える。

 そして、それを聞けばセイルは「よし来た!」とガッツポーズを浮かべる。



 その様子をキョトンと不思議そうにアンリが見ていると、セイルは微笑を浮かべて話し始めるだろう。




セイル「ジャンさんのお仕事となると、鍛冶さんの仕事だよね!…うん!なら !」



 更にアンリの顔には?マークが浮かぶ。




 それを見れば、更に補完するようにセイルは話を続ける。




セイル「実はボク、今日の内に森で茸を採ってくるようにサリラおばさんに言われていてさ!」



セイル「ボクがジャンさんの仕事の手伝いをしておくから、アンリは代わりにボクの仕事を頼まれてくれないかい?」




 それを聞いたアンリは、再び目から涙を溢れさせ、そして恥も外聞もなくセイルを強く抱き締め




「なんかもう色々ありがとう〜っ!!」




 と泣きじゃくりながらこれでもかと感謝の言葉を連呼する



 それを受けながら、セイルは照れくさそうに頬を掻き




セイル「いやいや…別に、"英雄"志望として当たり前のことだよ!」




 と口に出すだろう。

 アンリは、それを聞けば、鼻を啜っては不思議そうに声を漏らす。




アンリ「"英雄"志望?」




セイル「…あ、明日みんなの前で言うつもりだったんだけど…」



 「…でもまぁ…アンリ相手ならいっか。」




 そう言えば、一度首を振り、次に決意の固まった目で空を見上げ




セイル「…ボク、物語に名前が残るような英雄になりたいんだ。」




 そう、一言口にした。

 然し、そういった直後にセイルはすぐに誤魔化すように耳を真っ赤にして頬を掻いては蹲り




セイル「い、いや!やっぱり今のなしで!9歳にもなってこれは流石に恥ずかし​────!」




アンリ「​────うんうん!セイルならなれるよ!絶対!」




 そう、一切の迷いなく腕を広げて、少女は言う。




セイル「…い、嫌でもやっぱりボクって騎士の家系でもなんでもないし!」




アンリ「そんなの関係ないよ!…だって​────」




アンリ「​───




セイル「​────!」




アンリ「セイルはぜーったい英雄になれるよ!…​────あ、そうなったら、アンリは英雄の幼馴染とかで新聞に載れたり…!?」




 頭の中で理想の世界を広げ始めたアンリは、とめどなく溢れるそのアイデアに一人ではしゃいでおり




 そして、その横顔にセイルは、零してしまう様に声を出す。




セイル「​────幼馴染じゃなくて…ボクの」




アンリ「​───あ!ごめんセイル!何か言った?」




セイル「​────いいや、なんでもないよ。」




セイル「それより、ご飯を食べた後は森に行くんだし、そろそろ用意をした方がいいんじゃないかなってさ!」




アンリ「…はっ!確かにっ!!」




アンリ「…じゃあセイル!また明日ね〜〜っ!!」




 そういえば、少女は跳ねるように起き上がり、其の儘自宅へと走り去っていく。




 セイルはその背中に笑顔を浮かべながら手を振り、そして胸の中の恋心に自分自身で照れてしまい、耳を真っ赤に染めあげる。




 「明日、言ってしまおうかな。」




 そう、反芻するように響く胸中とは相反し




 ────​─これが、二人の今生の別れとなった。

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