第23話 静かな毒/落ちつく場所
遠くへと飛ぶ夢を見る。上も下も青一色、たまに白が混ざる景色、かつて渡りができていた頃の夢だろうか。だが、左右を見ても、列を組んでくれる仲間の姿は見当たらない。
自分は、独りきりだ。それでも飛ぶのをやめられない。風に乗り、翼を上下させ、どこまでもどこまでも飛んでいく。と、眼下に島が見えた。知っている島とは、また別な形をしていた。
疲れは溜まっていなかったけれど、いつ疲れて落ちてしまうか分からないので、休憩することにした。適当な場所へ目安を付けて降りていく。ところが、降りていくと日が落ちた。昼間から急速に夜へと変わり、自分は暗い中を降っていく。ほのかで朧な光が、夜のような世界を照らし出していた。春の宵を思わせるような、
ぺたり。水掻きを広げた足で踏みしめた感覚は、どうやら木の根っこらしい。人の姿を取り、視界を高くして見渡せば、木の根は見上げるほどに巨大だった。しかもこれは道らしく、どこまでも横ばいに広がっている。さらに上を見れば、星のようでそれよりは柔らかな光源が、天蓋を覆い尽くしている。
ここがどこかは分からない。けれども夢であるのなら、いつか覚めて
「いやはや、ずいぶん良いところに来たな、梓くん」
と思ったら、早々に聞き覚えのある声がした。振り返れば案の定、女性姿に秋服のニシキさんがいる。
「ニシキさん? いらしてたんですか」
「いらしていたとも。きみがずいぶん深い眠りに落ちていると聞いてね。一緒の夢へ入って、様子を見に来たのさ」
よく分からないが、ニシキさんにできることが、自分の理解できる範疇を超えていることは珍しくない。ひとまず、同じ夢を見ているという解釈で間違っていないだろう。
「しかし、夢と言ったが、ここは完全に異界だな。呼応する何かがあったせいで、きみが呼び寄せられてしまったんだろう」
「異界……」
「まあでも、危険ではなさそうだ。護身用の術も問題なく使えるようだし、何かあっても、きみを守ってあげられるよ」
足元から蛇の影を出現させ、すぐに仕舞いつつ、ニシキさんは得意げに微笑んでいた。
ニシキさんの同行も確認できたところで、改めて根の道を進んでいく。思っていたほど足場は悪くなかったが、油断はできない。たまに、上から花びらのようなものが降り落ちてきた。
落ちてくるのは、光る花びらだけではない。上空を飛んでいく鳥の影も、時々通りすがった。彼らは自分たちのことなど見えていなさそうだったが、しばらく進んでいくと、こちら目掛けて真っ直ぐ降りてくる影が現れた。
それまで自分の後ろにいたニシキさんが、
「迷い人がいるとの占を受け、参上いたしました者です。どうか警戒なさらず」
至極丁寧な口調で言い、拱手礼を以て挨拶してきたその人物は、女性の姿をしている。だいぶ大きい橙色をした上着の下に、暗赤色の
自分も彼の地で過ごしていたことはあるが、それとはまた別の何か、親しみを覚えるような何かが、彼女にはあった。こちらをじっと見つめる、切れ長な緋色の瞳を、思わず見つめ返してしまうような。
「私は
「ほう、夢食い鳥。永眠へ誘う蟲を通して人の夢を食べ、目覚めさせ、人の情に当てられると生命を縮めるという鳥か。聞いたことはあったが、見たのは初めてだ」
自分はその名前すら知らなかったが、どうやら、若暁と名乗った彼女も鳥だという。親近感の原因はそれだろう。顔だけ振り返ったニシキさんが「無害だよ」と断言したこともあって、自分も警戒を解いた。
若暁さんは保護するという宣言通り、自分とニシキさんをも烏――彼の名前は
里を囲う根の壁、その中でもとりわけ高い位置には、平らな場所が作られていた。そこが、背に誰かを乗せる鳥たちの離着場所らしい。慣れた様子で着地した天藍さんから降りると、彼は見る見るうちに縮んで、自分たちもよく知る大きさの烏になった。
「お二人は、ひとまず我が家へご案内いたします。天藍は私の肩に……」
前へ踏み出しながら、天藍さんの方へ腕を伸ばした若暁さんの体が、ぐらりと傾く。咄嗟に、ニシキさんと揃って支えたので、何とか根の地面との激突は防ぐことができた。
「大丈夫かい」
「ええ、失礼いたしました。最近、急に体が言うことを効かなくなることが増えまして。本当に急なので、困ったものです」
言いながら苦笑する、若暁さんの顔は青白かったが、徐々に血色が戻ってきている。案じる声を出しながら、自分たちの周囲をぴょんぴょん跳ね回っていた天藍さんに、緋色の視線が向けられた。
「天藍。すまないが、
心配そうに若暁さんの顔を覗き込んでいた天藍さんは、不服を拭えていなさそうな鳴き声で答えつつ、素早く飛び立っていった。自分たちの支えを断り、しゃんと背筋を伸ばした若暁さんは、何事もなかったかのように先導を開始する。
「では、こちらへ。我が家は里の外れ、根の近くにありますので、すぐに到着しますよ」
□□□
夢食い鳥というのは、人の情に触れれば触れるほど、同じものを抱き膨らませるほど、衰弱してしまうのだという。
そう語った若暁さんは、かれこれ七百と数十年を生きていると言った。千年ほど生きたなら、夢食い鳥を収める古老という存在になれるらしいのだが、そうなる前に
「我々に情は不要といっても、やはり惹かれてしまうのです。始祖たる夢食い鳥もまた、そうやって飛べなくなりましたから」
蓮池のある庭を望める、花鳥模様に彩られた、中華様式の部屋にて。卓上でお茶越しに向かい合った若暁さんは、静かに話してくれる。暖色の光を注ぐ
「私もまた、数多の友を通して、情というものを知っていきました。故に、限界が近づいてきているのです。梓様も、種は違えど同じ鳥。私の力が衰えているのを、ニシキ様以上に感じ取れているでしょう」
肯定するのは気が引けたが、つい視線を下げてしまったせいで、頷いたように見えたかもしれない。
確かに、人の姿を取っていても、若暁さんの衰弱は感じ取れる。若暁さんにも、自分が渡るための翼を捨てたことは、察知されているだろう。――自分と彼女は、似ている。
「なるほど。では、梓くんを呼び寄せたのは、きみか」
ニシキさんも同じことを考えたのだろう。どこか険のある目線を、若暁さんに向けている。しかし、彼女は首を横に振った。
「肯定いたしかねます。しかしながら、否定もできません。弱った鳥が、ここへ呼び寄せられてしまうことは、少なからずあることですから」
「ああ、それは私も聞いたことがある。この世界、この国……きみたちの呼び名では、ここ
即座に謝るニシキさんに、若暁さんは穏やかな微笑で答える。その微笑は、自分にも向けられた。
「大抵、弱った鳥は、夢から覚めてもまた眠ってしまいます。ですが、梓様はその必要もなく、元気でいらっしゃる」
「自分はもう、とっくに目を覚ましてもらいましたから。ニシキさんのおかげです」
いつか、置いていくしかなくなった仲間のように。枝を拾えず翼も広げられなくなった自分は、飛び去る仲間を見送ったのち、眠るしかないのだと思った。そうならなかったのは、ニシキさんが拾ってくれたからに他ならない。
「そうやって、また飛び立てることは良いですね。私たちにはとてもできない」
「だが、きみはそれでも誰かと交流するんだろう」
下がる緋色の眼差しに、すかさずニシキさんが問いかける。答えなんて知っているという顔で。若暁さんもまた、分かっているというような笑みを浮かべている。
「ええ、しますとも。静かな毒に
何について言っているのかは分からない。けれども、大切なもののことに触れているのは、容易に分かった。陽と同じ色をした眼差しが、温かさを増していたので。
若暁さんの目は、普通の鳥や人とも違って、蛇のように縦長の瞳孔が覗いている。けれど、落日あるいは朝日のように感じられる色合いをしているためか、まるで恐れを感じさせない。眩しくても温かく、時刻の境を告げるような。夢現のどちらが終わっても、焼き付いて忘れられないような。
ぼうっとそんなことを考えていたら、うつらうつら、
「ああ、体に呼ばれておいでですね。弟は挨拶できないようで、申し訳ありません」
「いやいや。そちらを駆り出す事態を作ってしまったのは、私たちの方だ。急な迷い人をおもてなししてくれて、どうもありがとう」
瞬きが止まらず、視界は不鮮明。ぼんやりしてくる頭に、若暁さんとニシキさんの会話だけが入り込んでくる。どうやら、自分は目覚めるらしかった。まだ何とか意識がある中、若暁さんにお礼を言ったけれど、ちゃんと言えていただろうか。
一時、視界が真っ暗になる。次第に、体が別のものを拾い始める。風に揺れる葉音、布団の触感、木と水の匂い。自分の
ぱっと目を開き、瞬きながら起き上がれば、寝床の傍らに椅子を置いて座っている人がいた。ニシキさんだった。間もなくニシキさんもパチリと目を開いて、ぐんと伸びをしている。
「やあ、おはよう梓くん。いい昼下がりだね」
「昼下がり……、……あっ!?」
朝の配達をしていない。布団を跳ね除けて飛び起きたが、ニシキさんに制されて、再び布団に尻餅をついてしまった。
「きみは深く眠りすぎていてね。郵便局の子たちが、声をかけても起きないと言うから、私がやって来たというわけだ。まあ、異界に呼び寄せられていたわけだから、しょうがないさ。郵便局にも事情を話しておくよ」
「すみません、ご迷惑を」
「いいって。夢とは言え、花の香りがするお茶を飲めたし。しばらく余韻に浸ろうじゃないか」
ぎ、と。背もたれに体を預けて、ニシキさんは目を閉じてしまう。黄色みが交じる秋の日差しが、ニシキさんを照らしていた。まとう服の色が、鮮やかながら柔らかく映えて、寝起きの目にも少しは優しい。
確かに、口内には花の香りとお茶の味が残っている。自分も目を閉じて、束の間、迷い込んだ異国を思い返すことにした。
木陰に蹲り、もう使わないだろうと思った翼に
緋色の目、陽の色と同じ目。朧な異国にて、同じ毒を抱いていたひと。彼女もまた、自分をこちらに帰してくれた。またひとり、恩人ができた。
ゆっくり、潤いも戻った目を開ければ、ニシキさんが微笑んでいる。もう見えない遠くで、明るい時を告げてくれた
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