第21話 朝顔/夢のような現

 美しいひとを見た。ひとではない、別の何かではないかと思った。

 鹿威ししおどしに流れる水音がして、苔むした石や木材の柔らかな色合いに囲まれて。朝顔と桔梗ききょうとが咲く庭園の縁側に、美しいひとが座っていた。涼やかな淡い色の着物を着て、膝上に手を重ねて。どこか憂いのある横顔は、幼心にも焼き付いている。

 話したことはなく、ただ眺めていただけ。誰にも見向きされず、また誰のことも見ないそのひとは、白昼夢が作り上げた虚像だったのかもしれない。


「高校を出るまで、この邸宅に通って、そのひとのことを見ていたんです。本当は、私の夢なんじゃないかと思って。だけど夏頃、朝顔と桔梗が咲く頃合いになると、そのひとはいつもと同じ場所に座って、ずっと庭を眺めているんです」


 赤い敷物が敷かれた長椅子の上、我が身に起きた夢物語のような出来事を、初めて他者に語った。その相手もまた、庭を眺めるひとのような雰囲気をしていたので、何となく話す気になっていた。


「でも、都会の大学に行って、職に就いて、久しぶりの里帰りをした頃には、もうそのひとはいなくなっていました。今もこうして、諦めきれずに通ってしまっていますが、会えたことはありませんね」


 もう会えないのだろうと察してはいるが、やはり忘れられなくて来てしまう。庭自体も、文化財として残された邸宅のものとあって美しいので、足繁く通う価値は大いにあった。


「申し訳ない、こんな爺の戯言たわごとめいた話を聞かせてしまって」

「いいえ、面白かったですよ。とても美しい話です」


 聞き役を努めてくれた女性は、特徴的な片眼鏡モノクル越しに笑っている。薄い水色と深紫が組み合わさった服装に反し、明るい茶髪と赤い草履が目に鮮やかなひと。ニシキと名乗ったそのひとから「暗い顔をしておられますね」と話しかけられたのをきっかけに、こうして邸宅敷地内に構えられた茶屋にて、話をすることとなっている。


「案外、その方も気付いていたんじゃないですかね。視線というものは、わりと分かりやすいですし」

「そうかもしれません。もしそうなら、ご迷惑だったかもしれない」


 屋内から扇風機の風に当てられ、窓に吊るされた風鈴が忙しない音を立てている。涼しい茶屋内から見える窓外は、くっきりと眩しくて目に痛いほどだ。

 ちょうど話が途切れたところへ、頼んでいたお菓子もやって来る。私はいつもお茶ばかり飲んでいたが、ニシキさんにつられて、初めてお菓子を頼んでしまった。邸宅内の庭に咲く、朝顔と桔梗を模した寒天入りのみつ豆。爽やかな色合いや可愛らしさが相まって、若い人に人気らしい。

 みつ豆の柔らかな甘さと、冷茶のキリリとした苦み。猛暑の中、知らず知らず溜まっていた疲労が癒やされていく。つられて緩みそうな顔を、だらしなくないところで保ってはいるが、どうだろう。ニシキさんのように、澄まし顔ではない気がする。


「もう一度、庭を見に行きませんか」


 みつ豆も冷茶も腹に収めて、一息つく頃。ニシキさんが至ってシンプルに提案した。どうして見たいのか付け足すこともなく、問いかけているのに、答えは知っているかのような顔をして。「ええ、行きましょう」と返せば、にっこりと笑っていた。

 平日なこともあって、人の数は多くない。再び入った邸宅内も、人の姿はまばらだった。今ある建物よりも天井や鴨居が低く、スリッパ越しに感じられる床は硬い。経年を示す箇所はどこにでも散見されるが、綺麗に保たれていて、何もかもが静謐だ。人が作る時の流れから切り離されて、深く眠っているかのように。

 特に会話を交わすこともなく、私たちは順路を示す看板に従って、件の庭へと辿り着いた。

 鉢植えの朝顔が庭を囲うように並べられ、水音がひそやかに聞こえてくる中央には、桔梗の花が自由に咲き開いている。苔むした石や、木々が茂らせる深い緑を下地に、花の色が瑞々しく映えていた。朝顔の赤、紫、青。桔梗の紫と白。長い時をかけて形作られてきた庭の中で、色を持つ花々は常初花とこはつはなのような新しさを保ち、凛然と佇んでいる。


「お座りになられたらどうです? 今は人もいませんし、咎められないでしょう」


 いつの間にか、ニシキさんは縁側に腰掛けて、ゆらゆらと足を空にさまよわせていた。スリッパが地面に付いてしまわないように、すぐ引っ込めて、膝を抱え込むようにして座り直している。私も、その隣に座らせてもらった。


「ああ、そういえば。ここに座って、庭を眺めたことは無かったですね」

「気が引けたんですか?」

「そうかもしれません。あの美しいひとの時間を、邪魔してしまうのではないかと思って。会えなくなってしまった後も、何となく、座ってはいけない気がしたんです」


 低くなった視線で眺める庭は、もっと身近に感じられた。匂いもずっと近くなっていた。冷たい土の匂いは、吸い込むと体中に染み渡っていく。懐かしい夏の匂いだった。

 時折、転がり落ちる鹿威しの音は、働き者のようにきびきびとしている。ここが現であること、確かな時の流れに座していることを思い出させてくれる。はっきりとして鋭い音のはずだが、穏やかな心地を邪魔することなく、寄り添うような柔らかさがあった。聴き慣れた音なのに、新しいように聞こえた。


「私が貴方に声を掛けた理由は、ここに座っていたひとから、届け物を預かってきたからなんです」


 緩やかな時間の流れに乗って、ニシキさんの声もまた流れてきた。驚くことのはずなのに、どうしてか、腑に落ちたような感覚もある。私は勘がいい人間ではないけれど、もしかしたら、予感していたのかもしれない。ニシキさんは、あの美しいひとと近い存在だと。

 ニシキさんが差し出してきたのは、封筒だった。ほんのりと優しい水色の地に、朝顔が咲いている。


「どうも、ありがとうございます。……今、読んでも構いませんか」

「もちろん。ああ、先に言っておきますが。お返事は受け付けられません。そう伝えてくれと言われております」


 答えるニシキさんの表情は、どこか淋しい。仕方がないと分かっている時に見るような、悲しそうな影を伴う笑みだった。

 和紙の手触りをした封筒は、閉じられていなかった。触れた時点でも分かるほど薄く、入っていた便箋は一枚だけ。封筒と違い、真っ白な上に罫線だけが引かれたそこには、細く美しいペン字が収められていた。


『名も知らぬあなたへ

 言葉を交わしたこともないあなた。これを受け取り、読んでくださっているのなら、わたしを覚えてくださっていたのだとお受け取りいたします。

 わたしの素性を明かすことはできませんが、あなたがこの家へやって来て、わたしのことや、庭を見ていたことは存じていました。話しかけてみたかったけれど、わたしは人との交流をやめて久しく、そして人ではないので、あなたに何か悪いことが起きてしまったらと勇気が出ないまま、この家を離れることとなりました。

 もし、わたしのことを憶えていてくださったのなら、ありがとうございます。大したことではないかもしれないけれど、わたしには、とても嬉しいことなのです。わたしを知ってくれて、見てくれて、本当にありがとうございます。

 あのお家のお庭は、とても美しいでしょう。気に入ってくださったのなら、どうか、また見に行ってあげてください。わたしたちの大切なお庭を、今も誰かが大切に思ってくれているのなら、これ以上の幸せはありません。

 こちらから話しかけるばかりで、ごめんなさい。さようなら、名も知らぬあなた。どうか、あなたの生きる時間が、安寧に満ちたものでありますよう』


 名前は、記されていなかった。けれども、字に込められた温かみだけで、充分だった。

 あの美しいひとのことは、何も知らない。それは、何も悲しいことではない。私たちは、この庭を好きという一点で、通じ合っているのだから。どこにいるのか分からなくても。もう二度と、会えないのかもしれなくても。


「ありがとうございます、ニシキさん」

「どういたしまして。私も人と手紙のやり取りはしますが、誰かの手紙を、誰かに届けるというのも、なかなか楽しいものですね」


 子どものように、何か内側から込み上げてくるような笑顔をして、ニシキさんは楽しげに言った。私も何か、込み上げてくるものがあって、笑っていた。

 その後もしばらく庭を眺めてから、私たちは別れることとなった。まっさらな白昼の中、日傘を差して去っていくニシキさんの後ろ姿は、逃げ水が作り出した虚像のように見えたけれど。からんころんと遠ざかっていく草履の音が、実像なのだと伝えてくれた。

 胸ポケットに入れた、美しいひとからの手紙も、確かに存在している。夢と現が混ざり合ったかのような、邸宅での一時は、今も昔も夢ではなかった。じんわりと、さりげなく伝えられたその事実は、温かくて嬉しい。

 何もかも、陰ですらもくっきりあらわにする炎天下。男性にも推奨され始めた日傘を差して、帰路につく。見慣れた道を歩くのが、今日はとても楽しくて。あのひとを初めて見た時の心を、取り戻したようだった。

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