第21話 朝顔/夢のような現
美しいひとを見た。ひとではない、別の何かではないかと思った。
話したことはなく、ただ眺めていただけ。誰にも見向きされず、また誰のことも見ないそのひとは、白昼夢が作り上げた虚像だったのかもしれない。
「高校を出るまで、この邸宅に通って、そのひとのことを見ていたんです。本当は、私の夢なんじゃないかと思って。だけど夏頃、朝顔と桔梗が咲く頃合いになると、そのひとはいつもと同じ場所に座って、ずっと庭を眺めているんです」
赤い敷物が敷かれた長椅子の上、我が身に起きた夢物語のような出来事を、初めて他者に語った。その相手もまた、庭を眺めるひとのような雰囲気をしていたので、何となく話す気になっていた。
「でも、都会の大学に行って、職に就いて、久しぶりの里帰りをした頃には、もうそのひとはいなくなっていました。今もこうして、諦めきれずに通ってしまっていますが、会えたことはありませんね」
もう会えないのだろうと察してはいるが、やはり忘れられなくて来てしまう。庭自体も、文化財として残された邸宅のものとあって美しいので、足繁く通う価値は大いにあった。
「申し訳ない、こんな爺の
「いいえ、面白かったですよ。とても美しい話です」
聞き役を努めてくれた女性は、特徴的な
「案外、その方も気付いていたんじゃないですかね。視線というものは、わりと分かりやすいですし」
「そうかもしれません。もしそうなら、ご迷惑だったかもしれない」
屋内から扇風機の風に当てられ、窓に吊るされた風鈴が忙しない音を立てている。涼しい茶屋内から見える窓外は、くっきりと眩しくて目に痛いほどだ。
ちょうど話が途切れたところへ、頼んでいたお菓子もやって来る。私はいつもお茶ばかり飲んでいたが、ニシキさんにつられて、初めてお菓子を頼んでしまった。邸宅内の庭に咲く、朝顔と桔梗を模した寒天入りのみつ豆。爽やかな色合いや可愛らしさが相まって、若い人に人気らしい。
みつ豆の柔らかな甘さと、冷茶のキリリとした苦み。猛暑の中、知らず知らず溜まっていた疲労が癒やされていく。つられて緩みそうな顔を、だらしなくないところで保ってはいるが、どうだろう。ニシキさんのように、澄まし顔ではない気がする。
「もう一度、庭を見に行きませんか」
みつ豆も冷茶も腹に収めて、一息つく頃。ニシキさんが至ってシンプルに提案した。どうして見たいのか付け足すこともなく、問いかけているのに、答えは知っているかのような顔をして。「ええ、行きましょう」と返せば、にっこりと笑っていた。
平日なこともあって、人の数は多くない。再び入った邸宅内も、人の姿はまばらだった。今ある建物よりも天井や鴨居が低く、スリッパ越しに感じられる床は硬い。経年を示す箇所はどこにでも散見されるが、綺麗に保たれていて、何もかもが静謐だ。人が作る時の流れから切り離されて、深く眠っているかのように。
特に会話を交わすこともなく、私たちは順路を示す看板に従って、件の庭へと辿り着いた。
鉢植えの朝顔が庭を囲うように並べられ、水音がひそやかに聞こえてくる中央には、桔梗の花が自由に咲き開いている。苔むした石や、木々が茂らせる深い緑を下地に、花の色が瑞々しく映えていた。朝顔の赤、紫、青。桔梗の紫と白。長い時をかけて形作られてきた庭の中で、色を持つ花々は
「お座りになられたらどうです? 今は人もいませんし、咎められないでしょう」
いつの間にか、ニシキさんは縁側に腰掛けて、ゆらゆらと足を空にさまよわせていた。スリッパが地面に付いてしまわないように、すぐ引っ込めて、膝を抱え込むようにして座り直している。私も、その隣に座らせてもらった。
「ああ、そういえば。ここに座って、庭を眺めたことは無かったですね」
「気が引けたんですか?」
「そうかもしれません。あの美しいひとの時間を、邪魔してしまうのではないかと思って。会えなくなってしまった後も、何となく、座ってはいけない気がしたんです」
低くなった視線で眺める庭は、もっと身近に感じられた。匂いもずっと近くなっていた。冷たい土の匂いは、吸い込むと体中に染み渡っていく。懐かしい夏の匂いだった。
時折、転がり落ちる鹿威しの音は、働き者のようにきびきびとしている。ここが現であること、確かな時の流れに座していることを思い出させてくれる。はっきりとして鋭い音のはずだが、穏やかな心地を邪魔することなく、寄り添うような柔らかさがあった。聴き慣れた音なのに、新しいように聞こえた。
「私が貴方に声を掛けた理由は、ここに座っていたひとから、届け物を預かってきたからなんです」
緩やかな時間の流れに乗って、ニシキさんの声もまた流れてきた。驚くことのはずなのに、どうしてか、腑に落ちたような感覚もある。私は勘がいい人間ではないけれど、もしかしたら、予感していたのかもしれない。ニシキさんは、あの美しいひとと近い存在だと。
ニシキさんが差し出してきたのは、封筒だった。ほんのりと優しい水色の地に、朝顔が咲いている。
「どうも、ありがとうございます。……今、読んでも構いませんか」
「もちろん。ああ、先に言っておきますが。お返事は受け付けられません。そう伝えてくれと言われております」
答えるニシキさんの表情は、どこか淋しい。仕方がないと分かっている時に見るような、悲しそうな影を伴う笑みだった。
和紙の手触りをした封筒は、閉じられていなかった。触れた時点でも分かるほど薄く、入っていた便箋は一枚だけ。封筒と違い、真っ白な上に罫線だけが引かれたそこには、細く美しいペン字が収められていた。
『名も知らぬあなたへ
言葉を交わしたこともないあなた。これを受け取り、読んでくださっているのなら、わたしを覚えてくださっていたのだとお受け取りいたします。
わたしの素性を明かすことはできませんが、あなたがこの家へやって来て、わたしのことや、庭を見ていたことは存じていました。話しかけてみたかったけれど、わたしは人との交流をやめて久しく、そして人ではないので、あなたに何か悪いことが起きてしまったらと勇気が出ないまま、この家を離れることとなりました。
もし、わたしのことを憶えていてくださったのなら、ありがとうございます。大したことではないかもしれないけれど、わたしには、とても嬉しいことなのです。わたしを知ってくれて、見てくれて、本当にありがとうございます。
あのお家のお庭は、とても美しいでしょう。気に入ってくださったのなら、どうか、また見に行ってあげてください。わたしたちの大切なお庭を、今も誰かが大切に思ってくれているのなら、これ以上の幸せはありません。
こちらから話しかけるばかりで、ごめんなさい。さようなら、名も知らぬあなた。どうか、あなたの生きる時間が、安寧に満ちたものでありますよう』
名前は、記されていなかった。けれども、字に込められた温かみだけで、充分だった。
あの美しいひとのことは、何も知らない。それは、何も悲しいことではない。私たちは、この庭を好きという一点で、通じ合っているのだから。どこにいるのか分からなくても。もう二度と、会えないのかもしれなくても。
「ありがとうございます、ニシキさん」
「どういたしまして。私も人と手紙のやり取りはしますが、誰かの手紙を、誰かに届けるというのも、なかなか楽しいものですね」
子どものように、何か内側から込み上げてくるような笑顔をして、ニシキさんは楽しげに言った。私も何か、込み上げてくるものがあって、笑っていた。
その後もしばらく庭を眺めてから、私たちは別れることとなった。まっさらな白昼の中、日傘を差して去っていくニシキさんの後ろ姿は、逃げ水が作り出した虚像のように見えたけれど。からんころんと遠ざかっていく草履の音が、実像なのだと伝えてくれた。
胸ポケットに入れた、美しいひとからの手紙も、確かに存在している。夢と現が混ざり合ったかのような、邸宅での一時は、今も昔も夢ではなかった。じんわりと、さりげなく伝えられたその事実は、温かくて嬉しい。
何もかも、陰ですらもくっきりあらわにする炎天下。男性にも推奨され始めた日傘を差して、帰路につく。見慣れた道を歩くのが、今日はとても楽しくて。あのひとを初めて見た時の心を、取り戻したようだった。
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