第4話 触れる/探る手と熱

 人間が蛙や魚に触れると、火傷やけどさせてしまう。そういう話を聞いてから、わたしは生き物を捕まえる遊びをやめた。

 田んぼの草地へ、泥濘ぬかるみへ、水中へ手を突っ込む。それぞれの感触に手を覆われながら、逃げる命を掌握する。いま思えばとても残酷なその行為は、幼い頃のわたしにとって、とても楽しくてやめられない遊びだった。


「子どもというのはそういうものだよ。手のひらだけでなく、全身で世界というものを知覚するのだから」


 からん、と。アイスティーと一緒に、細長いグラスを占拠する真四角の氷を揺らして、片眼鏡モノクルを掛けた女性が微笑む。黒いストローでぐるぐる、氷をかき混ぜもてあそんで。

 明るい茶髪を一まとめにして、すそから紺色がにじむ中華襟の半袖を着たこの人は、ニシキさんという。文通をする意思と、何らかの形で紅葉一枚あれば手紙のやり取りができるという、都市伝説めいた噂の張本人。


「触れるというのは楽しい。冷たい、温かい。柔らかい、硬い。薄い、厚い。指の腹というたかだか数センチな範囲だけで、たくさんの情報を知ることができる。ああ、未知なる宇宙からの来客と、友好の証を結べもするね」

「そっちは、ちょっと話が違いませんか」

「そうかい? あの映画において、少年は指を合わせ触れることにより、新たな友人と通じ合う何かを得た。つまり友人のことを知った。話題の延長線上にある話だと思うがね」


 ストローから離れた手が、ピッ、と人差し指を斜めに立てる。テーブルに置かれ差し出されたそれは、どうやら映画の再現をしたいようだ。触れていいならと、わたしも人差し指を合わせる。もちろん光りはしない。

 クーラーが効いて、飲み物も冷たい屋内で、人間だけが熱を帯びている。ニシキさんは人じゃないから、触れた指の腹がほんのり冷たかった。


「成長速度や好みに寄るだろうが、こうして図書館に足を運び、文字を通して知ることもできるようになっていく。だが結局、触れることで得た情報の方が上回る。例えば、須々木すすきくんが挙げた蛙や魚は、もちろん図鑑を見れば情報が手に入るね。けれど、彼らが持つ独特の感触は、絵や写真では分からない。生息している場所の状態も。文字や写真というのは、知識の入り口あるいは一欠片ひとかけらでしかないのさ」


 鎖の揺れるささやかな音をつれて、ニシキさんは屋内へと顔を向ける。広がっているのは、手すり越しに見える一階まで整列する本棚。町で一番大きなこの図書館は、二階の一角にカフェがあるくらいにはオシャレだ。オシャレだと、とりあえず女性客が増える。まんまとケーキにつられたわたしみたいに。

 わたしをつったケーキ、爽やかな色とシンプルな見た目をしたレモンケーキは、間もなくホットサンドと一緒に運ばれてきた。わたしは早速フォークで、伸びた三角形の鋭角を切ったが、ニシキさんはまだホットサンドに手を伸ばさない。ある程度、冷めるのを待つらしい。


「さっきの話は、実感が伴わないと分からない、という言い換えもできるね。専門書や説明書を読めば、深い知識も手に入るだろうが、それは既に経験した誰かの追体験をしているに過ぎない。自分自身が知るというのなら、やはり触れるのが一番だと思うよ、私は。それがどんなに身勝手で、残酷でも」


 真正面で笑うニシキさんは、いつも通り親しみやすそうな雰囲気をまとっている。だからこそ、少し怖さもあった。身勝手も残酷も、承知の上で手を伸ばす。それは勇気とも呼べるし、傲慢とも呼べるのではなかろうか。


「これは学問に限ったことじゃないだろうね。対人でも同じことが言える。相手を知る、そして自分を知る。そのためには触れるのが確実だ。だからきみも、私に手紙を出したんだろう?」


 からん。今度はわたしのグラスで、氷が崩れる。赤い草履が奏でる、ニシキさんの足音に似ていた。

 確かにそう。わたしは都市伝説の真偽を確かめるべく、ニシキさんへ手紙を出した。そしたら本当に返事が来て、今年で三年目になる文通が続いている。


「知る、触れるというのは、お互いにやっていることだ。きみが何かへ接触をしている時、何かもきみへ接触している。きみが一方的に知る側で、何かは一つも知れないとしても、必ず置き土産を残していく。蛙や魚の置き土産は、『きみは残酷だった』という事実なんだろう」


 哲学めいたことを言い終えると、ニシキさんは片手でホットサンドを持ち上げ、かぶりついた。わたしが切り離したレモンケーキの先端より、大部分が一気に失われる。


「変なことを喋りすぎたな。いやはや失礼した。今の私はもうホットサンド美味しいしか考えないので、安心してくれたまえ」

「今の方が変なこと言ってますよ。というか、話題を振ったのはわたしですし、謝るならこちらです」

「そうかね。拡大して考える悪癖があるのはこちらなんだが……ああ、いや。今の私が考えているのはホットサンドだ。美味しい美味しい」


 軽妙に言いながら、ニシキさんはパクパクと、ホットサンドを食べ進めていく。わざとらしい反応は、照れ隠し用の仮面なのかもしれなかった。

 遅れて、わたしもケーキを食べ進める。フォーク越しに、クリームとスポンジが断たれる感触がした。甘くてふわふわな欠片を口に入れれば溶け、包まれていたレモンの酸味が残り広がっていく。


「……今も、触れているんですね。色んなものに」


 爽快な味の余韻に浸りながら、思った。レモンケーキ、アイスティー、フォーク、テーブル、流れる涼風、ホットサンドの香り、コーヒーの香り、紙の香り……数え切れないほどのものが、一つの空間を作り上げている。その端々に触れて、感じ取って、この世界を知覚している。

 子どもだけじゃないんだな、とも思った。大人になっても、何一つ変わっていない。草地や泥濘、水中に手を突っ込むように、わたしたちは生きている。手で、身体で、数多の感触を受け止めながら。


「そうだね。我々は触れながら生きている。あーあー、そういう純粋な言葉を聞くと、なおのことさっきの自分が恥ずかしくなってくるな。小難しく言い過ぎだったり、変な方向に行ってよく分からなくなったり……触れたら触れた、感じたら感じた。それだけで良いっていうのにさ」


 わたしより先に食べ終えてしまったので、ホットサンドに逃げられなくなったニシキさんは、今度はアイスティーに逃げている。からんからんと氷をかき混ぜ、美味しい美味しいと繰り返しながら。


「ニシキさんも、恥ずかしいとかって気持ちはあるんですね」

「あるよそりゃあ。なんだい、きみは私が厚顔無恥な奴だとでも思っていたのかね」

「そこまで言ってないです。あんまり、恥ずかしがるところが想像できなかっただけですよ」


 不満げなニシキさんの顔がおかしくて、くすりと笑ってしまった。

 手紙からも伝わってくることだが、ニシキさんは堂々としている。それでいて、どこかミステリアスでもある。不思議な魅力を持つひとだ。こうして顔を合わせ、歓談ができて良かったと思うくらいには、素敵なひとだと思う。

 ニシキさんは文通以外にも、会いたいと願えば会ってくれる。もちろん相応のやり取りを重ねれば、という前提はあるが、交流を好んで応じてくれる。そうやって触れ合い、色んなことを知るのを楽しんでいて、同時にとても好んでいるのかもしれない。

 わたしもレモンケーキを食べ終えたが、図書館内部を見下ろせる反対側、窓から見える屋外はいかにも暑そうなので、しばらく席を立たないでいた。ニシキさんも頬杖をついて、ぱっきりとした青空と白雲を眺めている。


「太陽が近いから、夏は色濃くて鮮やかだね。もしかすると、太陽も地上を知るために、手を伸ばしているのかもしれない。ちょうど似ていないかな。触れることで、変温動物に熱を与えてしまう人間と」


 言われてみれば似ているような気がした。当然、人間と恒星の温度なんて、比べることが馬鹿馬鹿しいほど違う。けれどそれを、無理やり擬人化して表してみると、切なく見えてしまうのが不思議だ。人間の妄想がはなはだしいだけ……いや確実にそうだろうけど。

 頭の中で密かに苦笑するわたしの前で、ニシキさんはしっかり、表情に苦笑を出していた。


「どうも今日の私は、空想に磨きが掛かっているらしいね。気心の知れた相手だと、浮かれてしまって困る。楽しいんだけどね」

「楽しいならいいじゃないですか。もっと浮かれちゃっていいんですよ。わたしとしては珍しいものが見られて大満足なので」

「勘弁してくれたまえ。そういうのは知らなくていい」


 本当に参っているらしかったけれど、ニシキさんの苦笑は、楽しそうな色を含んでいた。

 三年間にわたる手紙のやり取りをしてもなお、知らないことをたくさん秘めているニシキさん。だけど、これは確かだと、掴み取れていることが一つ。


「恥ずかしいことなんて、知っててナンボですよ。お友達なんですから」

「……ふふふ。そうだね。でも、私は謎の人物を気取るのが好きなんだ。追及されても暖簾のれんに腕押し、のらりくらりかわさせてもらうよ」


 ゆらりゆらり。実際に揺れてみせるニシキさんに合わせて、片眼鏡の鎖と一まとめにされた茶髪も揺れる。ふざけているように見えるし、実際そうなのだろうけど、本当に掴み所がないような雰囲気がしていた。

 存分に長居を決め込み、割り勘で会計も済ませた後。わたしたちは涼しく清らかな図書館から、熱せられた空気が横たわる外へ出た。冷え切った体に、もわりと熱波の衣をまとうような、夏の感覚に包まれていく。


「見えない手に包まれるようだね」


 薄いオレンジ色の日傘を差したニシキさんが、つぶやくように言った。空想の話、太陽も地上を知るために手を伸ばしているという話の延長だと、すぐに分かった。

 立ち上る熱気の中、突っ込んだ感触に手を覆われながら、潜んでいたところから出てきた命を掌握する。脅かすつもりはなく、ただ知るために。けれど、持っている熱が違う以上、弱い方が熱に耐えられなくなる。


「人間も脆弱ですね」


 自前の日傘、外は白く中は黒い隠れ場所の下で、つぶやく。先に、からん、と。袴にも見えるワイドパンツをなびかせ、赤い草履で踏み出したニシキさんは、「まったくだ」と朗らかに笑っていた。

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