それいけケマコ

みはらなおき

第1話 燈籠稲荷のお使い狐

「えー!、今度の日曜は絶対ママ休めるて言うたやん!J1見に行くって約束したのにぃ!」


 柔らかな春の日差しが挿し込む朝、丸い小さな食卓越しに、京太郎は怒っていた。


「ごめんごめんごめんごめんごめん!ママも絶対今日はお店休めるようにしたんだけど、あのバイトがさ、辞めちゃったのよ~。もう他の子誰もつかまんなくてさ」と、京太郎の向い側に座った律子は、両手を合わせてぺこぺこと頭を下げている。寝不足のクマと寝ぐせのついたセミロングのよくカールの効いた明るい目の髪がぼさぼさとして、頭を下げる度に顔の前に垂れた。


「いーやーや!」と京太郎は大きな声を出して、その場に立ち上がり、ドンドンと足を踏み鳴らした。小柄な小学二年生とは言え、男の子が踏み鳴らす足音が安物のアパート中に大きく響いた。


「あー!あかんあかんあかんあかん!また下の人怒って来るからやめてえ!」


 律子は、慌てて食卓をバタバタと四つ這いのまま回り込んで、京太郎を抱き上げた。その勢いで二人は床に倒れ込み、もう一度大きな音を立てた。ドォン


「しまったあ!しー!京ちゃん静かにしてえ!」と律子は、京太郎を抱えたまま床に転がって、声を殺して囁いた。アパートの狭い202号室に静寂が広がる。京太郎も一昨日の夜怒鳴り込んできた102号室の神経質そうな男のことを思い出して、身を固くしていた。その男は、京太郎が鉄の外階段を駆け上がる音や廊下を走る音、ドアを勢いよく閉める音などについて細かく言い立てた上で最後に、


「管理会社に言いますからね!仕事部屋でわざわざこんな坂の上に借りてるのに大損だよ!」と大声を上げていた。


「あ、あのおっちゃん引っ越していったで」


 京太郎は、学校から帰ってきた時に引っ越し業者が荷物を運び出すところを思い出し、律子に囁いた。


「えーっ。うわあ、またあ?」


 律子は、我が家に文句を言いに来たアパートの住民が立て続けに引っ越していることを思い出した。京太郎が小学校に入学するタイミングでこのアパートに来てから四軒目だ。両隣りの201、203と、101、102は空き部屋のままになっている。これは管理会社からのクレームに発展するのではないか。律子は、渋い表情で食卓のスマートフォンに目をやった。


 再び十秒ほどの静寂がアパートを包む。


「ママ、痛いわ」


「あ、ごめんごめんごめん」と律子は言いながら、強く抱きしめていた京太郎を離した。律子は、そっと起き上がると、髪をかき上げてからちょっと直し、改めて京太郎に言った。


「ほんとごめんね。ずっと楽しみにしてたJリーグの試合だもんね。ちゃんと明君ママに頼んだし、ほら、もっていくものはちゃんと用意もできてるんだよ」と、愛想笑いをしながら京太郎のリュックを両手で差した。


 京太郎は不満げな顔でその場に座ると俯いてしまった。律子もその様子を見て、肩を落とし途方に暮れた顔で俯いてしまった。



 二人の姿を眺めながら、更にがっかりして俯いた者がいた。202号室のベランダで二人の様子を見ていた狐だった。狐は後ろ足で立ち、前足を窓ガラスについて項垂れていた。


「おかしいなぁ、おかしいなぁ」


 ベランダの下には、このアパートの自転車置き場があり、細い路地を挟んで小さな小さな半間四方もない稲荷の社がある。その隣に不釣り合いに立派な石燈籠があり、燈籠稲荷と呼ばれていた。この狐は、燈籠稲荷の眷属の狐だった。


「なんでかなぁ、喜ばないなぁ。あれは困ってるよなぁ」としきりに首をひねる。


 その時、背後に小さな煙が沸き、もう一匹狐が現れた。少し体が大きく狐色が濃い。


「あかんわぁ、あかん、あれはあかんなぁケマコちゃん。いくら使えんでもバイト辞めさしたらしわ寄せいくやろ。せやし、あないぽんぽん店子追い出したら、『自分らのせいちゃう?』て気にするて」


 大きい方の狐は、ベランダの柵にもたれて前足を腕組みし、尻尾をふりふり、ちょっと馬鹿にしたように言った。


「だって、『あんな子たち使えないぃ』とか、『いちいち文句言ってうるさいぃ』とか言ってたもん。願い叶えてあげたんだよ、テンゴ」と、ケマコ狐が返した。


「あほやなぁ、行間を読まなあかん。あら『使えるバイトが欲しい』っちゅうこっちゃ。騒音も原因っちゅうやつから考えなあかん。」


 テンゴ狐は、訳知り顔で頷きながら言う。


「う~ん、じゃあお店休みにしちゃう?」


「あほか!そんなことしたら、店潰れて親子が路頭に迷うやろ!お前やっぱし大阪の水が合わへんねんて。無理せんと北海道に帰ったらどないや。キタキツネにお稲荷さんの仕事はきついねんて。その点わいは、玉造稲荷で産湯を使こうた正真正銘の…」


「あ~、わかったわかった、道産子馬鹿にすんじゃないわよ。ちゃんとやるから、できるから!どこの鳥居も任せてもらってないあんたは黙っててよう」


 二匹の掛け合いが続いていく。いつの間にか、ベランダのガラス越しに大きな身振り手振りで言い合う二匹の姿が、京太郎と律子に丸見えになっていた。二人は顔を見合わせて恐る恐るベランダに近寄り、いつの間にか、窓ガラスにぴったりと張り付いて二匹の様子を凝視していた。


「はっ!!!!」と、テンゴが背中の毛を逆立てて硬直する。その様子に気付き、恐る恐るケマコも窓ガラスを見上げた。


「けーーー!」


 ケマコは、1メートルほど飛び上がると、そのまま尻餅をついてしまった。


「ああ、あ、ああ、あ、お、落ち着け、落ち着け!威厳や!わいらはお稲荷さんのお使いやでぇ!」とテンゴが声を張り上げる。


「そ、そうよ、あー、あー、これこれこれ、そなたたちのことはいつも見守っておるぞぉ。わぁれぇはぁ、由緒正しき燈籠稲荷神社の使いにしてぇ、名をケマコ……」


 ケマコは、ちらちらと二人を見ながら口上を始めていたが、二人がぽかんと口を開けて呆れたような顔になっていくにつれ言葉が続かないくなっていった。


「あ、あのぉ、もしもし?聞いてます?ここちょっと開けてもらっていいですか?」


 我に返ったように、二人は一瞬たじろいで、顔を見合わせ、そろそろと窓を開いた。





 丸い小さな食卓を挟んで、ケマコとテンゴ、京太郎と律子が座っている。取り澄ました様子のケマコが、おずおずと切り出す。


「……で、あんたたちの願いって何なの?」


「え?あぁ、えっと、そうね……。あのぉ、これって、叶えられるお願いは三つですみたいのがあるのかな」と律子が訊く。


「そ、そんなのは特にないけど……、そんなにいっぱいあんの?」


「そ、そういうわけじゃないけど、ねぇ、叶うならたくさんの方がいいよね、京ちゃん」と、律子は自分の欲深さを見透かされたような気持ちになった。


「僕は、おうちに帰ったらママがおるんがええ」と、京太郎は即答した。


「京ちゃん……」


 律子は、京太郎の手を握り、


「そんな願いでも、いいんですか」と訊いた。


「任せといてよ!」とケマコが言いかけたところで、テンゴが割って入った。


「あ、あ、その分実入りは減りまっせ。やりとない仕事せなあかんかも知れん。こいつが叶えますねん。知れてまっせ」


「そんなふうになっちゃうの?」と律子は何か勝手が違うような気がした。目の前に喋る狐がいるにも関わらず、現実に引き戻された気がした。


「当たり前や。一億円下さいっちゅうたら、誰かの一億円をこっちに持ってくるっちゅうこっちゃ」


 律子は、しばらく考えて深く頷き、改めて京太郎の手を握った。



「いらっしゃいませ~。こちら夏物衣料タイムセールでございます~」


 ショッピングモールに明るい元気なアルバイト店員の売り声がしている。


「すごく感じいいよね。その調子よケマコちゃん」と律子が、声を掛けていった。


「はい!」


 ケマコは、にこにこと手を振って応えた。


「あれ?これでよかったっけ……」



燈籠稲荷の正面の陽だまりには、どっかりと胡坐をかいたテンゴが煙草をふかして思い出し笑いをした。


「……ぷっ」

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