第1章 アヤメ
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竹林の奥にある池の畔で、漏れそうになる鳴咽を押し殺しながら少女が踞っていた。
「父上も母上も体面ばかり。私、誰にも嫁ぎたくなんかないのに…」
少女…
「あんな男に嫁ぐくらいなら死んでやる。みんな、みんな嫌いよっ。他人事と思って、バカにして…」
入水してやると息巻いてやってきた菖蒲だが、目先の湖は何とも言い難い深淵の色。
光が届かない深さがあるからこそ、暗い藍色に見えるのだと賢い菖蒲には解っている。
だからこそ、ひたひたと深い色を湛えて揺らぐ水面にすっかり怖じけづいてしまっていた。
これではダメだ。
意気地がないと、かくかく笑う膝と自らを叱咤しながら湖の畔まで来たはいいが震えが止まらず、立っていることもやっとだった。
ざわりと意味ありげに竹林を揺らす風、それ一つでさえも刻一刻と固めたはずの決意を削いでいく。
(どうすればいいのか解らない。もう、なにがなんだか…!)
菖蒲は遂に、昂る気持ちを抑えきれなくなって座り込んでしまった。
「ああ、やっぱり私にはムリだったのね…。縁談より何より、死を怖れている。なんて愚かなの」
将来の不安よりも死を怖れているなんて、とんだ笑い話ではないか。
進むわけにも、逃げる訳にもいかない。
ならば自分はどうすればいいのだろう。
ざわわ、ざわわと風までもが自分を責める。
「もう帰れない…」
行き場のない感情が溢れて、涙が渇いた地面にシミを作った。
泣いた所で状況が変わる訳じゃないのは解っている。
なのにそれを認められない自分が憎らしい。
ここにいれば、じきに鬼の如く怒り狂った両親に命じられた哀れな下働きが探しに来るだろう。
「どうした、気分でも悪いのか?」
「ひっ?!」
俯いていた菖蒲は、背後から掛かった声に仔ウサギのように飛び上がった。
「心外だな、そんなに驚いたかい」
菖蒲は、目の前に現れた風変わりな男をまじまじと見つめてから、ようやく安堵の息をついた。
向かってくる気配にずっと警戒していたので、青年には申し訳ないが当然といえば当然の反応だった。
(
訝しむ表情の青年の問いに、菖蒲は『ああ…』と曖昧に表情を崩した。
「ごめんなさい、わたし…少し道に迷ってしまって」
「道に? ああ、人生の方な。して何だ、入水しようとここに?」
青年は彼女の身形を見て、小さく息をついた。
足袋のまま出てきたのだろう。それも既に破れて爪先に穴が開いていた。
破れ目から覗く柔肌に薄く血が滲んでいるのが痛々しい。
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