第103話 冥海に沈む〈2〉

『まったく、先代の神子様は無茶ばかりしますねぇ。まあ、いつも通りではありますけど』


 聞こえてきたのは軽い調子の声。導かれるように視線を向けると暗闇の中に人影があった。

 宙からふわりと姿を現したのは黒髪に黄朽葉色の瞳の青年。丈の短い着物のような服に脛丈のズボンを履いている。少し幼い顔立ちに柔和な笑みを浮かべ、透ける体は光を纏っていた。その姿を見た途端、朱音は自然と手を伸ばしていた。


 日を知る者。青年が朱音の手を取って微笑むと、一瞬にして様々な光景が色鮮やかに蘇った。

 禍罪まがつみと世界のおりが食んで荒廃した世界。色彩を失った世界から、文字通り色を取り戻そうとした生。無理を承知で付き合ってくれた同胞たちとの些細な日常。

 蘇った記憶は恐らく、この時だけの邂逅だ。


『それじゃあ、彩華さいか様の力、上手く使ってあげてくださいよ?』

ひじり——」


 青年の手が離れた瞬間、光の洪水が一気に押し寄せた。眩しさから目を閉じる。目を再び開けた時には光と色彩が戻っていた。

 何ら変わることなく佇む社。境内で血塗れで倒れている少年を見つけて初老の女性が駆け寄る。


「和真、和真‼︎ どうして、こんな——」


 動かない少年に縋り付き、嗚咽を零す。胸を引き裂かんばかりの後悔が記憶を占領していた。苦しさに息が詰まる。見守る中、縋り泣く女性は不意に顔を上げた。

 その視線の先にいるのは黒髪の少年。ただ、その体は先ほどと変わって透けている。

 かちりと合う視線。互いが互いを認識していた。少年は静かに言の葉を零す。


『あなたの命をください』


 それは祈るのにも似た懇願だった。


「……ああ、この子が生きていてくれるなら。私の命なんか——いくらでもあげるよ」


 言葉に応じるように生み出されたのは透明な魚。女性は躊躇なくその体に手を伸ばす。


 手が触れたその刹那、その場すべてのものが花びらとなって霧散した。花びらが目の前に迫り、朱音と拓海は思わず目を閉じた。

 ざあっと風が過ぎ去る。風が過ぎた後に目の前に広がっていたのは大樹がそびえ立つ記憶の海。その波打ち際に立っている人の姿を見つけて拓海は声を張った。


「和兄!」

「……拓海! 待って!」


 朱音は駆け寄ろうとした拓海の腕を取る。以前、彼が引き止められたのを思い出して、朱音は咄嗟に拓海の腕を取っていた。

 よく見ると波打ち際に立つ和真の指先は微かに透けていた。彼はわずかに振り返ると穏やかに口を開く。


「二人とも早く戻った方がいい。ここは生きてる人が来る場所じゃない」

「迎えに来たんだ、帰ろうよ!」

「……戻れないよ」


 和真は拓海の言葉をやんわりと断った。納得いかないと拓海は訴えかける。


「なんでだよ? みんな和兄が戻ってくるの待ってるんだよ?」

「俺は本来ならここにいないはずの存在だ。ばあちゃんの命を喰って……今まで生きてきた」

「それは違う! 貴方のお祖母さんは、貴方に生きていて欲しくて——」

「それだけじゃない」


 強く遮られ、朱音はびくりと体を震わせた。

 大樹がさざめく。まるで泣いているようだった。向き直った彼は本当に苦しそうな顔をして言葉を吐き出す。


「俺が——。俺が、父さんの命を喰ったんだ」


 助けたいだなんて、なんておこがましいのだろうと思った。

 かける言葉が何一つ見つからない。情けないほどに。

 一度ならず二度も。自分は助けたいと思う人に声をかけることができない。

 静まり返る空間の中、和真は顔を逸らして視線を下に落とす。俯いた彼の表情をよく見ることができない。

 波が寄せては返す。ただ、それだけ。


「⋯⋯俺がいなければ今も父さんは生きていたかもしれない。母さんや姉さんに苦労をかけずに済んだかもしれない。何よりも……みんなを巻き込まなかったかもしれない」


 紡がれた言葉に和真は体を強張らせる。拓海は胸元の服を無造作に掴んだ。


「分かるよ。俺だって同じだ! 俺がいなければ本当の母親はもっと違う生き方ができたかもしれない。父さんと母さんにいらない苦労をかけずに済んだかもしれない。じいちゃんや朱姉はもっと普通に生きられたかもしれない! ずっとそう思って、生きてきたんだ……」


 苦しそうに一度拓海は言葉を詰まらせる。しかし、なおも思いはとどまることがない。


「だけど、俺は今ここにいる! あの時、和兄と朱姉が助けてくれたからここに立ってる。それに、誕生日を楽しみにしてろって言ってくれた時、本当に、嬉しかったんだ……」


 ぽたりぽたりと言葉と共に大粒の涙が零れる。


「俺は和兄に生きていてほしい。和兄とみんなと……もっと、一緒にいたいよ……」


 拓海の言葉に呼応するように、朱音はきゅっと手を握りしめる。脳裏に蘇るのは待っている人たちの姿と託された白いお守り。言葉にできない想いが溢れる。

 どうか届いて。

 貴方の目が覚めるのを皆が待っている。以前のように、共に笑って過ごせる時が戻って来るよう願っている。その思いは紛いもないものだと、どうか伝わって。


 言葉が空気へ消えゆくと共に。

 背けていた顔に、一筋の空知らぬ雨が落ちる。


 その瞬間、朱音と拓海は駆け出した。何も考えてなどいなかった。ただ、彼を引き止めたいがために手を伸ばす。

 気がついた時には二人で縋り付いていた。次々と落ちる雨に濡れ、初めて聞く嗚咽が耳元で響く。

 離さないよう、ぎゅっと抱きしめる。何もできることがないという無力感を抱えたまま。それでも、彼の深い孤独を少しでも埋めたいと願った。


「……みんな待ってる。帰りましょう……」


 そこで生じたのは温かくて柔らかい光。光が三人を包み込むとふわりと体が浮いた。記憶の海から強制的に現実世界に戻されるのを肌で感じる。



 浮遊感に襲われて景色がふっと変わる。藍墨色の空間から青の世界を経て、現実世界へと。

 色がついた空間にふわりと降り立つ。足がついた途端、体がふらついて誰かに抱き抱えられた。そのまま抱えてくれた人と共に地面に崩れ落ちる。今まで感じたことがない疲労感に襲われていた。


「ちょっと玖島さん、扱い雑!」

「顔面ぶつけなくて済んだんだから、感謝して欲しいところなんだけど」


 朱音はゆっくりと体を離す。体を支えていてくれていたのは制服姿の桃香だ。彼女の視線の先には拓海の襟首辺りの服を無造作に掴んで立っている玖島の姿があった。どうやら病室に戻ってきたらしいと認識できたのは、その時だった。


 まだ現実世界に帰ってきたことが実感として湧かず、朱音はぼんやりと視線を巡らせる。時間帯はどうやら夕方らしい。制服姿の俊が腕を組んでベッドに伏せていた。物音がしても目を覚ますことなく、疲れ果てて寝ているように見える。一通り視線を巡らせると玖島と視線が合った。


「極限まで異能を使っただろうから、二、三日は寝込むと思うよ。まあ、休んでいれば体調は戻るから。修司君は先に倒れて休んでいるらしいけど」


 言われていることは分かるが、如何せん頭に染み入ってこない。そんな朱音に構わず、玖島は拓海を病室にある長椅子に寝かせるとぽつりと呟いた。


「戻ってくるよ」

「え?」

「声が聞こえたんだ。だから戻ってくるよ」


 それだけ告げると玖島はそのまま病室を後にした。何が起こっているか理解しきれないまま、朱音はそばにいる桃香に問う。


「……本当に戻ってきたの?」

「はい」

「拓海も、二見君も、一ノ瀬君も……無事?」

「拓海君と修司君は休んでいれば大丈夫だそうです。それに玖島さんが言ってました。和真くんの声が聞こえたからここへ来たって。だから、大丈夫です」


 そう告げられた瞬間、ぶわりと感情が溢れ返る。

 いつの間にかそばにいた桃香に縋り付いていた。涙と嗚咽が溢れる。苦しさと安堵が混じり合って感情がうまく処理しきれない。この短い間で、今までにないほどにたくさんの涙を零している。


 桃香に抱き留められながら、朱音はしばらく泣き続けた。

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