第33話 天真爛漫少女は夢を見る〈3〉
穏やかな日というものはそうそう長く続いてくれないものらしい。
「なあ、一ノ瀬。俺たちにこの間、節操ないって散々言ってたの誰だっけ?」
翌日の昼、和真は背もたれに頬杖をついて目の前に座る島崎に対して何も言えずに沈黙する。
桃香に呼び止められた現場をクラスメイトの誰かに見られているんじゃないかと思っていたが、よりによって目撃したのが島崎だった。昼休みに入るなり、島崎は和真の前の席を借りて尋問してきた。本当に今年は厄がついているんじゃないかと思ってしまう。
「いや……」
「なんでもないとでも?」
「……なんでもなくはないです」
「じゃあ昨日のあれって何なわけ?」
島崎は吐けと言わんばかりに購買で買ったカツサンドとお茶の紙パックをずいと寄せながら迫ってくる。なんでこんなに尋問してくるんだろうとふと思うが、その疑問は第三者の声で頭の片隅に追いやられた。
「そんなところで止めてやって」
そう声をかけてきたのは
「何?
「幼馴染みが困ってたら助け舟ぐらい出すじゃん。それに和真に四宮のこと話したのは俺だから」
二人の間に妙な沈黙が流れる。なんともいえない不穏な空気が漂って居心地が悪い。そんな空気を破るように島崎が大仰なため息をついた。
「……まあいいんだけど。あんま目立つとまた面倒ごとに巻き込まれるぞ」
島崎は一方的にそう言うと、椅子から立ち上がってその場を後にした。絡んだ割には気にかけるような言葉を残していって和真は若干の不安を覚える。その間に俊は空いた席へ背もたれを前にして座り、両腕を乗せた。
「あの魚のこと、なんか分かりそう?」
俊は気を使ってか小声でそう尋ねてきた。
俊が桃香のことを伝えてくれたのだし、昔から透明な魚について知っているから気にもなるだろう。けれどあの件——死に近しい事柄に巻き込むのは気が引けて、和真は曖昧に答える。
「いや、ちょっとまだ……」
「……そっか。まぁ、何か手伝えることあったら言えよ」
俊は横向きに座り直すと両手を組んで体を伸ばした。
嘘をついた故の良心の呵責だろうか、少し心苦しい。慣れない方がいいだろうなと思いながらも、もっと嘘をつくのが上手くなった方がいいのかなと和真は思った。
授業と部活を終えて、今週もいろいろあったなと和真は軽く息をつく。六月は事あるごとに何か大きな出来事があって日々が怒涛のように過ぎていた。正直、様々なことが起こりすぎて整理がつかない。
穏やかさとは無縁となってしまった生活。穏やかな日が戻ってくるのだろうかなんて思ってしまって和真は軽くため息をつく。駅に向かう途中、不意に視界に入ったものに目を奪われて和真は足を止めた。
民家や個人店が立ち並ぶ小さな通り。その脇にある路地にあの透明な魚が浮遊している。ただそれだけならいい。それは桃香の時のように、追っているかのように男性の背中に近づいていた。
和真は咄嗟に足を早める。魚がもう少しで人の背中に触れそうだというところで指先がその体を捕らえた。記憶の海の時と同じように柔らかく風が巻き起こってその身を消失させる。
その時、男性が足を止めて振り返った。眉根を寄せ、不審感を募らせた冷ややかな視線を向けてくる。
「……何?」
「あ、いえ……。すみません。人違いでした」
和真が慌ててそう返すと男性はじとりと睨みつけてから歩き出した。誤魔化せたかどうかは分からないが、どうにかやり過ごして和真は安堵の息をつく。確かに他の人からしたら、見ず知らずの人間がいつの間にか手を伸ばして迫っていたなんて気味が悪いよなと今更ながらに思う。
その時だった。
不意に空気が変わって、和真は歩いてきた路地の先に視線を向けた。自然と体が強張る。
薄暗くなりかけた景色の中、一人の男の姿がそこにあった。一際路地から浮いて見えるその姿はきっと一度見たら忘れられない。
少し伸びた赤紫の髪。その冴えるような色はどことなく毒気を感じる。年齢は二十代前半ぐらいだろうか。男は口元に笑みを浮かべているものの、黒縁の眼鏡越しの瞳からは感情が読めない。
それだけではない。彼の周りには複数の透明な魚が浮遊していた。それは人を取り囲むように浮遊しながらも、決して囲う人を害することはない。
男は何も語ることなく、笑みを浮かべたまま通りを左手の方へ向かって歩き出した。和真は咄嗟に駆け出してその後ろ姿を追う。もう少しで通りに出るという時、その声はした。
「後ろが隙だらけだよ、和真くん」
瞬間、悪寒が背を駆け抜ける。
和真は反射的に後ろを振り返る。そこには先ほど目の前を通り過ぎて行った男が酷薄な笑みを浮かべて立っていた。
何が起きたのか一瞬理解できなかった。状況を理解して口を開きかけた時、男が先に言葉を紡ぐ。
「ああ、今日は様子を見に来ただけだから気にしないで。それじゃ」
男は一方的にそう言うと和真の額に指先を当てる。とん、と指先が当たった途端、ぐらりと視界が揺らいで和真はその場に崩れ落ちた。頭を押さえながら、目眩が治るのを待つ。
目眩が落ち着いたところで和真はゆっくりと目を開ける。その場に当然男の姿はない。淀んだ空気の中、わずかに風が通り過ぎた。
じっとりと汗ばむ夏の蒸した空気だけが、そこに残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます