第29話 変異〈1〉

 見慣れてしまった青の濃淡と白で彩られた世界。空は変わらず海の中から水面を見上げた時の様に光が揺らめく。まだ何度も来ているわけでもないのに、まるで現実味のない世界に慣れてしまうというのもおかしい話だ。


 クジラに喰われた時の事を説明するには、記憶の海に関することを話さなければならなかった。どこまで話すべきなのか判断がつかなかったが、知っていることは全部教えて欲しいと拓海から言われたため全てを話した。拓海自身が身の変化を目の当たりにしているのだから、話さないのは不自然だというのも理由だ。


 話を聞いている時、拓海は至って平静だった。もっと訝しがっていいはずなのに、彼は笑うこともなく話を聞いていた。話を終えた後、拓海が実際に行ってみたいと言ったことで魚を媒介に記憶の海を渡ることになったのだ。

 そうして喫茶店から少し歩いた商店街に浮遊する透明な魚を見つけ、今に至る。

 拓海は見慣れた商店街を見渡しながらぽつりと零す。


「……この間とは雰囲気が違うね」

「この間の方が特別だったんだと思う。私はこの青い世界しか来たことなかったもの」


 朱音の言葉を聞いて和真は記憶を辿る。

 何もない群青の空間と流れ着く水晶の曼珠沙華。そして、案内されて歩いた先にあった大樹と海。この青の世界も十分に常識外であるが、この間訪れた場所はこの世ではないような空間だ。

 それはまるで、彼岸のような世界。


「和兄は?」

「俺もここに来たのは本当に最近なんだ。だからこの間の場所も初めてで。……知ってることも拓海とあんまり変わらないと思う」

「でも、透明な魚はずっと見ていたんでしょう?」

「まあ、そうなんだけど……」


 朱音の指摘に和真は言葉を濁らせる。

 確かに人とは違うものを見ていたけれど、特別何かがあったわけではない。だから語れることもないし、関連することについて推測することもできない。それが今は少しだけ歯痒く感じる。


「この間、俺たちを喰ったのはその亜種みたいなクジラなんだっけ?」

「ああ。でも、俺もクジラをあっちで見たのはあの時が初めてなんだよな」

「朱姉はこっちで見たことあった?」

「……一ノ瀬君とここで会った時に。それが初めてだったわ」


 和真と朱音の答えを聞いて、拓海は考え込むような表情で口元に手を当てた。

 自分たちがここに干渉した故に事象が変わり始めたのか。記憶の海にまつわる何かが変化した故に自分たちが巻き込まれる形となったのか。結論の出ない思考がよぎるが、不毛な問いだと思い至って和真は思考を戻す。


「そう言えば、人の心が伝わってくる感じがするっていうの……大丈夫なのか?」


 今更なことであるが、改めて聞いておきたかったことだ。拓海のことだから大丈夫と言いながら無理を押し通すような気がしたのだ。拓海は和真の問いに苦笑いを浮かべた。


「ああ……うん。朱姉に話を聞いてからだいぶマシになったかな。まだまだなところもあるけど。……あ、今はちゃんとコントロールできてるから安心して」


 物事の機微に敏感な彼がこんな能力を得るのは偶然なのか必然なのか。和真は苦笑いを浮かべる拓海に対して、気にしてないよと言うぐらいしかできなかった。


 三人はしばらく青い世界を散策する。商店街を後にし、集合住宅を中心に高校や大学がなどが立ち並ぶ区画に足を運んだが変わったところはない。しばらく歩くと区画を抜けて小さな鳥居が見えて和真は足を止めた。鳥居の奥、神社の境内に浮遊している魚を見つける。


 境内に向って魚に近づくと朱音が魚に手を伸ばした。彼女が触れた魚が炎に包まれて消えるのを見て、拓海も思い立ったように魚に触れる。

 拓海が触った魚は水晶のような結晶へと変わり、ヒビが入ったと同時に砕けて光を伴う砂塵とともに消えていった。


「……結晶になった」

「拓海も消え方が違うのね」

「何か意味があるのか……?」

「こればかりは……分からないわね」


 朱音は悩ましそうな表情を浮かべた。ただ散策しただけでは有益な情報は得られないだろうけれど、行く宛も見つからない。どうすべきか悩ましい。

 そんな中、押し黙ってしまった拓海に気がついて和真は静かに声をかける。


「どうした?」 

「……歩いてみて感じたんだけど。なんだかこの世界、すごくざわざわするなって」


 そう言って、拓海は胸元の服を無造作に掴む。彼は少し視線を下げ、息苦しそうな表情をすると目を閉じた。

 少し間を空けて、ああそうかと言って拓海は一人納得したような声を出す。


「昔、死にかけた時ここに来たことがある。ううん、正確に言うと……ものすごい大きな樹がある海にいたんだ。怖いぐらいに澄み切った、水晶みたいな樹を眺めてた」


 ついこの間目の当たりにした、この世とは思えない光景が頭の中に蘇る。あの蠱惑的な雰囲気は思い返しても落ち着かない気分にさせられる。


「それって……」


 言いかけて和真は口を噤む。

 服を掴む拓海の右手が微かに震えていた。顔が強張っていて顔色も冴えない。朱音が歩み寄って心配そうな面持ちで名前を呼ぶ。


「……拓海」

「はは……色々割りきったと、思ってたんだけどなぁ……。思い出すと、やっぱ駄目だ……」


 情けないと自嘲して拓海は視線を落とす。そんなことはないのにと思いつつも安易な言葉はかけられなくて、何もできないのが不甲斐ない。


「……戻ろう」


 和真の言葉に対して拓海は俯き加減のまま首を振る。


「……大丈夫。言い出したのは俺だし……。もう少し様子見てみようよ」


 拓海は胸元を一度ぎゅっと強く握ると手を離した。まるで震えを押し込むような仕草だった。

 息をつくと拓海は顔を上げて強張った笑顔を浮かべる。無理をしているのは分かっていたが、その意志を無下にしたくなくて和真は一つ提案する。


「……もう一回、あの樹がある所に行ってみるのはどうだ?」

「それは……やめた方がいいと思う。あそこは生きている人が行く場所じゃないよ。多分だけど、帰れなくなる」


 それを聞いて、あの波打ち際で呼び止められたことが脳裏に蘇る。やはりあそこは本来行き着く場所ではないと思うと同時に、彼らが何者であるか少しだけ察する。


「それじゃあ——」


 そう言いかけたところで異様な空気を感じて、和真は咄嗟に朱音と拓海を押し倒した。微かな呻きの後、拓海の口から戸惑いの声が零れる。


「な、なに……」


 それと同時に和真はすぐさま立ち上がって拓海の腕を掴んで引っ張る。

 体を無理矢理引き摺った瞬間、拓海の足下に透明な魚が勢いよく突っ込んできた。辛うじて当たらずに魚は地面に飛び込む。水面のように地面に波紋が広がった後、少し間を置いて魚が地面から現れた。


 無機質な目が意図を持ったように向けられ、三人の背筋にぞわりと悪寒が走る。体を強張らせた拓海が和真と朱音に視線を向けて声を荒らげた。


「ちょっと待って、普通の魚って襲ってこないんじゃなかったの⁉︎」

「いや、そうだったんだけど!」


 今までとは明らかに違う動きに頭の処理が追いつかない。その間にも数匹の魚がこちらに向かってくるのが遠くに見えた。朱音が目の前にいる魚に触れ、消失させたと同時に声を上げる。


「逃げましょう!」

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