番外編2 フジミヤの骨
子供の時の記憶だから、あまり定かでは無いのだが。
母曰く、あなたはちっちゃい頃ひどく体を壊したことがあってね……と語るのである。
「確か、十歳にはなってなかったはずなんだけどさ。水疱瘡だっけな、それとも風邪を拗らせたんだか、お腹に良くないものを食べたのか。私もちょっと忘れちゃったんだけど、とにかくあんた、何日も熱に浮かされてたのよ」
母でさえこの状態なので、当の本人である私は当然何が理由で体を壊したのか覚えていない。
けれどそんな中で、唯一頭の中に残っている記憶がある。
いわゆる思い出の味、というやつなのだろうか。それは薬とスポーツドリンクと一緒に、母が持ってきてくれる温かいスープだった。コンソメだったのか鶏がらスープの素だったのか――――――――よくわからないけれど、スッと呑み込めるのに舌の上に旨味と甘味が続くような優しい味だった。細かく刻んだ野菜とアクセントの生姜が効いていて、ゼリーや水分しか受け付けなくなった体によく染み渡る。寒気がする時は体の中からじんわりと温めてくれたし、熱の境目――――――ちょうど腹を空かせた時間に食べれば、生姜のおかげで汗をかいた。とにかく美味しくて、食欲を無くしているにも関わらず私はそれをひどく楽しみにしていた。あの温かいスープが食べたい。高熱で朦朧とした意識の中で、それだけはハッキリと頭の中に浮かんでいた。今でさえこんなに美味しいのだから、熱が引いて元気になって食べたのなら、どんなに美味しいことか。感覚を取り戻した舌は、あのスープからどんな旨味を引き出してくれるんだろう。―――――――幼い子供の発熱時なので、ここまでしっかりとした思考は持ち合わせていなかったとは思うけれど。
―――――――しかし、だ。その後すっかり完治した私が欲したものは、よく家族で行くファミレスのハンバーグだった。丸一週間鈍っていた舌に、派手でしっかりとした味付けのハンバーグは刺激が強くて、そりゃもう美味しくて。単純な私はもう目の前の肉の塊のことしか考えられなくなってしまい、スープのことなど記憶の隅っこに追いやってしまった。その時なぜか心の中で「なんだか申し訳ないなあ」という気分になったような気がする。たまに記憶の箱から取り出して考えてみるのだが、理由は皆目見当が付かない。
「―――――――――っていうのを、さっき思い出したんだけど。お母さん、あのスープのこと覚えてる?私アレ、すごく好きだったんだけど」
「何が理由で熱が出たのかさえ覚えてない母にそれは高難易度すぎない?」
「そうかあ、残念」
「――――――――あ、でも待って。確かね、なんか………ちゃんとダシを取った覚えがあるんだよね、あのスープ」
「と言うと?」
「お父さんだったかな、叔父さんだったかな……職場で分けてもらったんだかなんだか、いきなり骨を持ってきたのよ」
骨、と私は呟いた。
「……………なんの骨?」
「フジミヤの骨」
「フジミヤの骨なんだ。でもすごいね、骨で出汁を取るなんて、プロじゃん」
そりゃ美味しいわけだ、と私は疑いなく言う。
そりゃあもう美味しかったわよ、とあんまり記憶力が良くない母は言う。
「実はあの時熱で苦しんでるあんたに内緒でね。フジミヤの骨で出汁を取ったカレーとか食べてたんだけど………」
「えっ!?何それ初耳なんだけど!?ずるい絶対それ美味しいじゃん!」
「もう時効よ時効、許して。それに、スープが美味しかったんだからいいじゃない」
「それはそうだけどさあ」
頭の中で何かが変だと叫ぶ声がする。
その記憶だけ、どうして鮮明なのか。
でも私の脳内回路では、その問いはすぐに浮かんで消えた。多分、究明したって自分に利があるわけではないからだと思う。
――――――――あるいは。私の中の第六感が、それ以上はだめだと言っているのか。
記憶の奥の方に、それはある。
母にも誰にも言っていないが、その時確か枕元に人が立っていたような気がするのだ。
「そうだ、ようくお食べ。食はひとの体を作る大切な要素だからね。ああ、無理はしなくても良い。ゆっくりと、ゆっくりと呑み込むのだ。そう、良い子だね。」
確か、食べる私をやさしく褒めてくれたのだ。スープは美味しかったけれど、その声があったからこそ私は食べる気力が湧いたのだ。
ひょっとするとハンバーグを食べた時のあの罪悪感は、ちょっとした気まずさだったのかもしれない。それを確かめるすべは、もう無い。ただきっとあの声とあのスープのことは、きっと記憶に残り続けるのだ。
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