婚期を逸した令嬢は竜騎士に誘拐されて

新巻へもん

第1話 人身御供の令嬢

 柔らかな風がカーテンを揺らす。

 見晴らしのいい部屋からは、蒼い水を湛えた湖とその向こうの森を一望できた。

 背筋をピンと伸ばして立つ侯爵家令嬢サヴィーネ・エスターテに対して、その目の前に佇む男は絵筆の準備をしながらにこやかに笑いかける。

「それで……心づけはいかほど?」

 その言葉に対する返答は冷ややかだった。

「あなたは王家から十分な給金を受け取っているはずでしょう?」

「ああ、もちろんですとも。エスターテ嬢。ただ、まあ、モデルの方からリクエストを頂くこともございます。その際にはお心づけを頂戴しているという次第でして、はい」

「なら、私からの希望はありません。ありのままに」

 実際のところ、サヴィーネの自由にできるお金はほとんどない。

 残念ながら肖像画の出来に手心を加えてもらうだけの持ち合わせはなかった。

 屋敷に居る分にはなんとか不自由なく暮らせるが、深窓の令嬢が自らお金に触れることなどありはしない。

 お付きの者たちは所持しているのかもしれないが、サヴィーネの頼みで支払いをする理由がなかった。

 少し離れたところに佇む侍女たちは何も見えないかのように無表情で佇立している。

 もしかすると絵師には関知できない妖魔にでも魅入られているのかもしれない。

 雇人はすべて継母の手足となって動く家令の監督下にある。

 その任務は主に2つ。

 多額の持参金が発生するサヴィーネの縁談を未然に防止することと、サヴィーネの弟ジョルジュを密かに葬り去ることであった。

 すべては継母の実子、サヴィーネにとっては腹違いの弟がエスターテ家の全財産を相続するための陰謀である。

 割とありがちで珍しくもなんともない展開ではあったが、今のところ、1つ目の任務はともかく、ジョルジュの殺害については全くうまくいっていなかった。

 常に屋敷内にいるジョルジュが凶刃に倒れるというシナリオは無理がある。

 必然的に毒殺という手段が選ばれることとなった。

 さすがに盛った瞬間に泡を吹いて死ぬような毒を使えば、殺人の疑いを受けてしまい、王家によって家を取り潰されてしまう危険がある。

 そのため、遅効性の毒をジョルジュの周囲のありとあらゆるものに使用していた。

 飲み水や食事への混入、衣類や靴への塗布、ジョルジュの部屋への散布など、考えつく限りの手が、この二年ほど繰り返されてきている。

 しかし、1度たりとも効果を発揮していない。

 数々の陰謀をそれとすべて知らずにぶち壊してきたのが、サヴィーネである。

 本人に自覚は無いが、彼女が気を許し触れた生物を浄化できるという秘技があった。

 そのため、ジョルジュを狙った毒はすべて無効化されている。

 サヴィーネは二十代後半になろうとする自分とは一回り以上年の離れたジョルジュのことを溺愛していた。

 ちょっとでもジョルジュの顔が赤いと額に手を当て、咳き込めば背中をさすり、手足が腫れると撫でさする。

 まだジョルジュが幼いうちに亡くなった母の代わりを務めようと、やや過保護気味に世話をやいていた。

 サヴィーネの能力は無自覚かつ珍しいものだったので、ジョルジュの危機を回避しているのがサヴィーネだとは誰も気づかない。

 少し陰のある少年が、姉の看護で持ち直すのは、姉弟愛によるものだと考えられていた。

 多額の持参金が必要になるものの、とっととサヴィーネをどこか適当な家に輿入れさせておけば、今頃はジョルジュは天に召されていたところだろう。

 その費えを惜しんだことと、サヴィーネが夫の家の力を背景に介入してくるのを恐れたことによって、ジョルジュの毒殺計画は宙ぶらりんの状態が続いている。

 事態が動いたのが、此度の隣国ダルフィードからの降嫁の要請による候補者選定だった。

 サヴィーネの住むローリンエン帝国は、この大陸の東側の大半を支配する大国である。

 しかし、ここ数代の皇帝による放埓により急速に国力が低下していた。

 ダルフィードは文化的には後進だが強悍な国で、ローリンエンの周辺国を侵食し、今ではローリンエンの国境すら脅かしている。

 武力を背景に三年前も皇帝の末娘を乞い受けて王妃としていた。

 ダルフィードの現国王ザーラム2世は、父の愛妾に手を出したことが露見しそうになり、父を亡き者にして王位に就いたというあたりに人となりが分かろうという人物である。

 そして今、半年前に急死した王妃の後を襲う新たな娘をローリンエン帝国に要求していた。

 なお、前王妃の死因は虐待による衰弱死である。

 そのことは、皇帝周辺のごく一部のみが知っていた。

 ザーラム二世は自らの荒淫の相手として飽きると、王妃を疎ましく思い、折檻を加える。肉体的のみならず精神的にも苦しめて死に至らしめていた。

 そして、いけしゃあしゃあと新たな玩具を帝国に要求したという次第である。

 両国の平和のためという口実の裏には、なんなら力づくで奪ってもいいのだぞ、という恫喝を含んでいた。

 無気力な皇帝もさすがに自分の娘を殺されたと知っては、次の犠牲者を孫娘から出す気にはならない。

 何度か使者がかわされ、帝室の血を引く侯爵家以上の家系の娘を皇帝の養女として輿入れさせる話でまとまった。

 その人選をするに当たって、条件に該当する三十未満の娘の肖像画が集められることになる。

 もともと帝都住みの上層部では前回の輿入れに関する不名誉な話を知っていた。その家が人身御供を差し出すわけがない。

 詳細までは分からないものの、人の口に戸は立てられず、どうも良い縁談ではないという噂が広まってしまった。

 もともと、ザーラム2世自身の評判がよろしくない。

 暴力と腕力でのし上がった男で、粗野な顔つきのうえ、ここ数年の贅沢のためにたるんだ肉がだぶついて若い頃の精悍さの欠片も残っていなかった。

 20歳も年上のそんな男に嫁ぎたいという者は少ない。

 各家の者は絵師に競って賄賂を贈り、後で咎められない程度に娘を不器量に描いてもらうことが横行する。

 そして、エスターテ家においては他家と少し事情が異なった。

 婚期を逸した娘を飼い殺しにしている。

 皇帝の養女となれば、結婚における持参金は皇帝持ちとなった。

 持参金で懐が痛まないとなればサヴィーネの継母がこの話を忌避する理由はない。

 むしろ積極的にこの話に乗り気だった。

 もちろん、相手のある話なのでサヴィーネの継母がいくら希望しようとそれだけでは花嫁候補とはなりえない。

 ただ、サヴィーネ自身が水準を超える容貌の持ち主だった。

「愛想がない」

「あの程度の顔は掃いて捨てるほどいる」

 屋敷の者たちは縁談がないことを正当化するために、普段から本人に聞こえるところでこんなことを囁いている。

 確かに冷たい印象は受けたがサヴィーネの顔立ちは比較的整っていた。

 サヴィーネの肖像画は、本人の持つ魅力を全く損なうことのない形で完成し、帝都に送られることとなる。

 圧倒的に美しいかと問われれば疑問があるが、他の候補者は実際よりも劣って描かれていた。

 他の肖像画と共にまとめられ、ダルフィードのザーラム2世に披露された肖像画の中から一枚のものが選ばれる。

 それはサヴィーネのものだった。

 冷たく気高そうな女性を屈服させたいという歪んだ嗜好が強く働いている。

 選定結果を受けて、サヴィーネは、継母や弟たちと共にローリンエンの帝都へと召喚された。

 事情を知らぬまま贄として供せられるサヴィーネを憐れんだ皇帝は、謁見の際に何か望みがあるかと問う。

「我が弟ジョルジュが帝都において、貴族に相応しい振る舞いを学ぶ機会を与えられれば、これに過ぎたる喜びはございません。陛下」

 慎ましやかに答えるサヴィーネに対し皇帝は許しを与えた。

 噂通り仲の良い弟が、サヴィーネを意のままに操る鎖となりうるとの冷徹な判断も含まれていたが、結果的に当面はジョルジュの身の安全が確保されることになる。

 少しでも長くザーラム2世の関心をつなぎとめ時間を稼ぐ期待を一身に集め、盛大な祝祭が開かれた後、サヴィーネはダルフィードへの旅路につくこととなった。

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