第14話 海

「ふわああ」


 マリアは馬車の窓に顔をくっつけかねないほどのかぶりつきで、海と広がる造船所たちの景色を眺めていた。アルファとマリアは朝一で馬車を手配し、造船業が盛んなサウザスの隣国、アルトンに来たのだった。


「海は初めて見たが、きれいだな」


「海をその眼で“視る”ことはできなかったのか?」


「そりゃあ、未来の中に海はあったけど、やっぱり直接で肉眼で見ると感動もひとしおなんだ」


 海を眺めながら答えるマリアをしり目に、アルファはキセルを口に咥えた。火をつけて吸うのはたばこではなく、魔力を底上げする薬だが。


「そんなものを吸って、またどこかに潜入するのか?」


 薬草の匂いに、マリアは海から視線を離し、アルファを振り返った。


「いや、少し魔力の底上げが必要なだけだ」


「……? “リエゾン”するかい?」


「いや、そこまでじゃない。“リエゾン”は切り札だしな」


 まあその切り札で実質負けたから魔力の底上げが必要になったのだが。そう思うとアルファは少し落ち込んでしまった。そんな夫の姿に首をかしげるマリアだったが、不意に彼の頭を小さな手で優しく撫でるのだった。


「なんのマネだ」


「なに、少し落ち込んでるようだったからね」


「ふん」


 アルファは憮然として見せたが、手を払いのけることはしなかった。そうこうしているうちに馬車は、造船所街を外れ、海近くの裏町へと入って行った。目つきの悪いごろつきたちが、高級そうな馬車をにらむ。マリアはますます楽しそうに声を弾ませた。


「おいおい、こんなやばそうなところにいるのか? 旦那様の友人の船大工は」


「ああ。あの人の作った船は陛下のお命を救ってくれた。今回も力になってくれるだろう。まあ、この設計図が本物ならな」


「ふーん」


 ずいぶん信頼しているんだね。嫌味っぽくそう言うのを、マリアはぐっと飲み込んだ。そして、夫になったこの男から「信頼」を勝ち取るにはどうすればよいのだろうかとぼんやり考えるのだった。


「ほら、ついたぞ」


 マリアがぼんやりしている間に、目的地についたらしく、アルファは先に降りてマリアに手を指し伸ばした。こうしたさりげない所作はどこで覚えたのだろうかと、マリアは思いながら手を取り、ボロボロの道に降り立った。

 アルファはマリアの手を掴んだまま、ドアの前に立ち、ノックをした。無反応。仕方なくアルファは声を出した。


「おーい! ガン爺さん! いるんだろう!」


 ドアを強めにノックしていると、小屋の中から「うるさい!」という声が返って来た。やがてドアが開けられると、タンクトップに半ズボン姿の小柄な老人が、酒瓶を片手に出て来た。


「誰じゃ! こんな高そうな馬車で乗り込んできおって! 嫌味か!」


「ガン爺、僕です」


「ああ? ん? お前アル坊か!? ずいぶんでかくなったなあ!」


 しばらく顔を見ていぶかしんでいた老人だったが、不意に誰か理解するとアルファに抱き着いた。その様子を隣で見ていたマリアは「うわ、酒くさ」と顔をしかめる。


「それでなんのようじゃ? 若い娘さんを連れて……。また逃避行に船がほしいって言うなら売ってやるぞ」


「……逃避行?」


 マリアの声が少しだけ剣呑になるが、その意味をアルファが理解することはなかった。


「あの時は助かりました。ほかの誰も船を用意してくれませんでしたからね」


「まあ、あの嵐じゃな。ほれ、立ち話もなんだ入れ」


ガンはドアを開け放ち、アルファたちを家に誘った。その誘いを受けて家に入ろうとするアルファの服を、マリアが小さく引いた。その姿はかわいらしいものだったが、不思議とあざとさはなく、天然でやっているのだろうことはさすがのアルファにも理解できた。


「逃避行ってなんだい?」


「ん? ああ、当時まだ皇子だった皇帝陛下が暗殺者に狙われてな。嵐の中逃げるのにガン爺から船を買ったと、それだけの話だ」


「なんだ……ぼくはてっきり」


「てっきり?」


「なんでもない。ほら早くいくぞ。お邪魔します」


「ああ……」


 マリアが、アルファが女の子と逃避行したのではないかという疑いを直接的に口にしなかったように、アルファもあえて言わなかった。暗殺者を差し向けたのが先代皇帝、つまりローゼスの父親だということは……。


◆◆◆


 それからガンは、アルファたちに丁寧に淹れた紅茶と手作りらしきクッキーを出してくれた。マリアは酔っ払いらしくウイスキーでも出されるのかと思っていたため、大変驚いた。しかも紅茶もクッキーもおいしい。


「おいしいです。この紅茶とクッキーは奥様が?」


「ん? 連れ合いならずいぶん昔に亡くしたよ。だから全部ワシの手作りじゃ」


「へえ……」


 似合わねえ、と思うマリアだった。


「それでガン爺、今日は見てほしいものがあって……」


「なんじゃ?」


 アルファは持参したカバンの中から、ルシフェルから渡された箱舟の設計図を取り出し、テーブルに置いた。ガン爺はそれを手に取り、パラパラとめくり、徐々に目を見開いていった。


「こらあ……」


「伝説にある箱舟の設計図……らしいです。本当に作れるものかガン爺に確認してほしくて」


「なるほど……箱舟教団の奴らが騒いでたやつか……。パラパラめくっただけでわかる。こいつはとんでもねえもんだ。すぐに作れるかはわからねえな。しばらく預からせてくれねえか」


「わかりました。箱舟教団の残党が狙ってくるかもしれないので、本国から護衛の騎士を派遣しますがよろしいですね」


「けっ、偉くなるってのはうっとうしい限りだな。お前も似合わねえ敬語なんてやめたらどうだ? アル坊」


 アルファは困ったように苦笑いするのだった。


◆◆◆


 ガン爺と設計図の警護の騎士が裏町に到着すると、アルファはマリアを連れて再び馬車に乗った。海沿いの街を走る馬車は、徐々に砂浜のある避暑地へと続いていく。


「どこに向かっているんだい? 旦那様」


 瞳をキラキラさせながら海を眺めるマリアは、視線を生みに向けたまま尋ねる。


「サウザスはガン爺の家からは遠いからな、アルトンにある陛下の別荘に滞在する許可をいただいたのだ」


「ふーん」


 やがてたどり着いた別荘は、皇帝のものとして考えるとやはり小さく、二階建てのこじんまりしたものだった。だが砂浜に近く、海を一望できる立地にあり、景観は抜群で絵になる洋館である。洋館の扉の前では先に到着して準備を整えていたアリスが待っていた。


「お疲れ様でございました。閣下、奥様。お仕度、整っています」


「ご苦労様」


「支度?」


 マリアが首をかしげる。


「せっかくに海に来たんだ。遊んでいけ。海、来たことないんだろ」


「アルファ……」


 不器用なアルファの気遣いに、マリアは胸があたたかくなるのを感じた。そんなマリアの腕をアリスが掴む。


「さっ、奥様! 水着もいろいろ取り揃えておりますよ!」


「アリス、君も遊ぶといい」


「え? で、でも……」


「たまには良いだろう。自分の分の水着もちゃんと用意しているな?」


「は、はい……。ありがとうございます。閣下」


 アリスはうれしそうに微笑むと、マリアを引っ張って屋敷の中に入っていった。2人ともまだまだ遊びたい盛りだし、もっと遊ばせてあげないとなと思いながらアルファも屋敷に入るのだった。

 屋敷の一室から聞こえる姦しい声を背に、まっすぐ自室に向かったアルファは、アリスの用意してくれた黒い水着に着替え、海用の黒パーカーを羽織った。そのまま屋敷を出て砂浜に降りると、誰もいない砂浜にパラソルとシートが準備されていた。アリスが準備したものだ。因みに砂浜に誰もいないのは、ここがローゼスのプライベートビーチだからである。アルファはシートの上に横になり、パラソルの端から見える空を眺めていたが、普段の疲れが出たのか少しだけウトウトとし始める。そんなアルファに、後ろから声がかかった。


「お待たせしました! 閣下」


 起き上がり、後ろを振り返ったアルファの視界に広がっていたのは、幼さの残る2人の少女の水着姿だった。マリアは黒いビキニに身を包んでおり、彼女の大人びた雰囲気と幼い身体のアンバランスな魅力を醸し出していた。アリスはメイド服を思わせるフリルのついたグリーンのワンピースタイプの水着に、なぜかヘッドドレスを付けていた。


「なんでヘッドドレスを外さないんだ?」


「メイドですから!」


 えっへんと薄い胸を張るアリス。そこに彼女なりの譲れない矜持があるらしい。しかし、そんなアリスに先に声をかけたことに、マリアは少しだけ頬を膨らませた。


「なんだいアリスばかり。ぼくにはなにもないのかい?」


「あー……」


 女性を褒める、ということにはあまり回らない頭を回転させながら、アルファは悩んだ末にマリアの頭に手を置いた。


「か……かわいいぞ」


「そ、そうか……」


 マリアはうつむき、へへへっと笑いながら顔を伏せた。そして急に走り出すと、海に飛び込み……。おぼれた。


「ごぼぼぼぼぼぼ!!」


「奥様!」


「まったくなにやってるんだか……」


 そう言いながらもすぐにパーカーを脱ぎ捨て、砂浜をかけるアルファ。そのまま海に飛び込むと、暴れるマリアを押さえつけるように抱きしめ、すぐに砂浜に上がる。


「ぷは……! はあはあ!」


「大丈夫か?」


 砂浜にマリアを座らせながら、アルファは尋ねる。


「あ、ああ……。しかし海というのは身体の自由が利かなくなるんだね。しかもしょっぱいし」


「そういうことは視えないんだな」


「海で遊ぶのは視えたけど、おぼれているとは思わなかった。それに味は視ていてもわからないんだ」


 一瞬しょんぼりとしたものの、海への好奇心は止められないらしく、マリアは右手でパシャパシャと海水に触る。


「奥様! ご無事でよかったです」


 アリスも駆けつけてきて、マリアの様子を見るとほっと一息ついた。


「とりあえずおまえたち2人とも泳げないんだから、足がつくところで遊べよ」


 そういってパラソルの下に帰ろうとするアルファの両腕を、マリアとアリスはがしっとつかんだ。マリアが右腕、アリスが左腕にしがみつき、その慎ましやかなふくらみを腕に押し付ける。アルファの感想としては、アリスの方が若干柔らかさで優っていた。


「どこへいくんだい? 旦那様」


「一緒にあそびましょうよ、閣下」


 アルファは仕方なく、2人とボール遊びに興じることになった。


◆◆◆


「あれ? 雨、ですか?」


 アリスの額に一滴の水滴が落ち、アルファたちは空を見上げる。それからすぐにぽつぽつと水滴は増え、やがて本格的な雨になっていった。


「わわわ! 閣下、奥様! 早く戻りましょう!」


「ああ。アリス、お前はマリアを風呂に入れてくれ、僕はその間にパラソルとかを……」


 海から上がり、砂浜を走るアルファたち。アルファはマリアたちを先に行かせてパラソルとシートを片付けようとしたところで急に動きを止め、海を振り返った。


(精霊たちが騒いでいる……?)


「どうした? アルファ」


 屋敷の前でマリアは、動きを止めたアルファにそう声をかける。


「いや……」


 なんでもないという言葉をアルファは飲み込みつつ、パラソルをたたみ始める。


(なんだかいやな予感がするな……)


 アルファの予感は、よく当たる。


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