第9話 こちょこちょ
「落ちたけど……あのテスト難しかったらしいし」
「彩加ちゃんが──塾のクラス落ちた、ってすごい嫌そうな顔で話してたけど、言い訳みたいに、みんな落ちた、って言ってたわ」
「でも、落ちんと残ってた奴らもおるもんな」
裕人のその言葉は朋之には痛かったようで。
気まずそうな顔をしていると美歌がアシスタントに連れられてやって来て、どこに行くか迷った末に美咲の隣へ行った。そして朋之の顔を見て美咲に聞いた。
「ママぁ……パパ、なんでへんなかおしてんの?」
「……ほんまやな。あ、美歌」
美咲が美歌に小声で何かを言うと、美歌はニヤニヤしながら朋之に近づいた。
「えへへ……」
「ん? ──こら!」
「こちょこちょ! ははは! こちょこちょ!」
美歌は朋之を思い切りくすぐりに行った。もちろんすぐに止められたけれど、美歌はそれでも朋之が笑顔になって満足したらしい。美咲が美歌に言ったのは、『パパにこちょこちょしたらもとに戻るよ』だ。
「相変わらず、仲
「大倉君とこもちゃうん? 江井中で知ってる中で珍しくバツついてない人なんやけど」
美咲は朋之とは再婚同士だった。朋之は会社の社長の娘と結婚していたけれど、金銭感覚が違いすぎて離婚を決意した。美咲がHarmonieに入った後の事で、その頃から朋之は美咲と過ごす時間を増やした──もちろん、良好だった美咲と当時の夫の関係を壊すつもりはなかったし、美咲も朋之の気持ちを知りながら距離をおいていた。ちなみに朋之は社長との関係が悪くなることはなく、今も同じ会社で働いている。
美咲の立場が悪くなったのは、朋之と歩いているところを親戚に見られてからだった。Harmonieの忘年会の帰りで当時の夫は信じてくれていたけれど、義両親はしばらく疑っていたし、親戚は最後まで信じてくれなかった。そんな美咲が不憫に思えたようで、美歌が生まれてから夫のほうから離婚の話が出た。関係は良好だったので美咲はなかなか承諾できず、美歌を連れて実家に戻り塞ぎ込んでいた。朋之がHarmonieの連絡がてら訪ねてくるようになり、その頃から美歌は朋之のことがお気に入りだった。
「そうやなぁ、俺は何もないな……。美歌ちゃんにまだ言ってないんやろ? 前の旦那のこと」
「うん。もうそろそろ言わなあかんとは思ってんやけど……」
美歌はくすぐるのをやめて朋之の膝に座り、幼稚園での思い出や小学校で何をしたいかを話していた。両親の影響か音楽は好きになったようで、音楽の授業が楽しみだと言っている。
「そうそう、篠山先生が担任になるらしくて」
「えっ、マジで?」
えいこんとHarmonieの合同練習に行ったある日、篠山がこっそり教えてくれた。だから音楽の授業以外にも音楽に関わる時間は増えそうだ。
Hair Make HIROもいつまでも暇というわけではないので、予約客が来る前に三人は店を出た。
駐車場に停めていた車に乗って、近くにある朋之の実家に行った。特に用事はないけれど、昼食を一緒に食べる予定にしていた。
朋之の両親は美咲の両親と同年代で、まだまだ元気なので美歌とも遊んでくれた。翌朝には体が痛くなると言いながらも、嫌な顔をしないので非常に有り難かった。
「美歌ちゃん、はい、プレゼント」
「なぁに?」
義母が美歌に大きな袋を渡した。開けてみると、美歌が大好きなキャラクターのぬいぐるみだった。
「やったぁ! おばあちゃん、ありがとう!」
「卒園と入学のお祝い」
「すみません、いつもありがとうございます」
義両親は本当に、美歌を可愛がってくれている。美咲が朋之と結婚の挨拶に来たときに〝子供がいるのは嫌がられないか〟と心配したけれど、二人とも再婚の上に朋之には子供がいなかったので逆に喜んでもらえた。美歌は生まれた頃から朋之がお気に入りだったと言うと、母親の遺伝か、と笑っていた。
美咲の実家には次の機会に行くことにして、三人は夕方に家に戻った。美歌は夕食を食べたあと、もらったぬいぐるみを抱えたまま眠ってしまった。
「美歌……どんな子になるかな」
美咲が言うと、朋之はしばらく美歌を見てから美咲の顔を見た。
「前からやけど、だいぶ似てきてるで?」
「いや、顔じゃなくて」
「似たような感じになるんちゃう? 美咲と」
だったらどんな感じだろうかと美咲は子供の頃を振り返る。だいたい常に身近にピアノがあって、勉強はまぁ──普通だった。小学生の頃は上位にいた気がするけれど、中学に入ってから落ちた時期もある。
「塾行きたいって言うかな?」
「どうやろなぁ。行きたいって言ったらそれで良いし、俺も中学くらいまでなら教えられると思うわ」
「ふぅん……じゃあ、お願いしとこ」
「ええ? 中学くらいやったら、いけるやろ? 塾でも
確かにそんなときもあったけれど。
美咲の成績は教科によってばらつきがあったし、不安定な時期だったのもあって浮き沈みも激しかった。テストの成績が良かったことは何度かあったけれど、クラスが上になったことはない。卒業前に公立高校入試対策で一番上のクラスになったときは、授業を聞いているだけで精一杯だった。
「そういや、おったな」
「うん……あんまり覚えてないけど……私立に合格してたから、余裕かまして無茶したわ……周りの顔見て、頭良い人だらけで怖かったもん」
彩加も成績は良かったけれど、彼女は私立に専願だったので受験勉強は既に終えていた。私立専願組を集めて、高校一年の予習をしていた。
「塾か……懐かしいな。あのとき──はは、最初、こいつほんまに選Aか? ってちょっと疑ったからな」
それは美咲が塾に入った初日のことだろう。
「あれは、緊張してたから……」
頬を膨らませる美咲を見て朋之は笑う。美咲はよく年齢よりも若く見られるけれど、幼い頃から変わっていないと自分でも思う。朋之にも美咲は中学の頃と同じように見えているのだろうか。
「まぁ、だから余計、気になりだしたんやけどな」
「ん? どういうこと?」
「勉強できるんかできへんのか、どっちやねんって感じやったけど──ピアノだけは真剣やったからな」
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