第46話 檻




 琉杏るあん玉鈴ぎょくりんの件を聞いた悧珀りはくは、ふむと自身の顎を撫でた。


「災難だったね。明睿めいえいが居室に残ってくれていて不幸中の幸いだった」


 確かに、明睿が私に付き添って瑞香宮に来ていればどうなっていたかわからない。別の女官や警邏に忍び込んだことが見つかってもっと騒ぎになっていたかもしれない。

 悧珀は私をじっと見つめると、いきなりむぎゅと私の頬を掴んだ。


「ひきなり、なにほ」


 うまく喋れない私だが、悧珀の手が触れたことで彼の脳内が流れ込んでくる。

 

柊月しゅうげつ、君はもっと警戒しないといけないよ。友の言葉だからすぐに信じたんだろうけど、普段から明睿と阿子あこしか側近につけていない君のもとに、そう簡単に他者を入れるわけがないだろう』


 じとりとした目に私はうっと言葉に詰まる。

 

「もうひわけありまへん……」


『まあ、窓から勝手に出入りしている僕が言っても説得力はないだろうけど……君が心配なんだよ』


 私の頬を掴んでいた手が離れていく。

 

 不謹慎ながら心配してもらえているという事実に少し気分が浮ついた。が、すぐに頭を振る。自惚れるな私。温かい寝具、温かい食事、優しい言葉。それを貰えるだけで私は十分すぎるほど恵まれている。他に何を望むのか。…………いや、本当は何を望んでいるのだろう、私は。


「柊月? 大丈夫? 動きが止まってるけど」


 悧珀が顔を覗き込んでくる。私は反射的に一歩下がった。


「だ、大丈夫です」


「そう? ならいいんだけど」


 悧珀は私から受け取った小瓶を手の中で転がす。手のひらにすっぽりと収まるくらいのそれの中には、黒い液体がほんの少しだけ入っている。

 中を確認した悧珀曰く、これは附子花トリカブトの根から抽出した液体とのことだ。附子花といえばほんの数滴で象をも殺すことができる猛毒だ。暗殺によく使われるありきたりなものだよ、と悧珀はさらりと宣うが、そんな恐ろしいものを桃春に盛られかけたのかと思うとぞっとする。

 

「まさかこんな絶好の時分で藍妃が仕掛けてきてくれるとは思わなかったな」


 上機嫌な悧珀の物言いに、私は眉を寄せる。

 

「そのままの意味だよ。玉妃のこともある、うまく利用してやらないとね。ああ、君の友人達についてはうまくやるから心配しなくていいよ」


 多くを語らない悧珀に私はついていけない。

 さっき悧珀は瑶と二人で何を話したのだろう。戻ってきてから機嫌のいい悧珀を見ていると、多分キレイな話をしていたのではないだろう。あの二人のことだ、裏のある話をしていたに違いない。知りたいが、勝手に覗き見るのは憚られる。二人があえて私を退席させたのだ、無遠慮に見るのは失礼だ。

 

 悧珀はことりと小瓶を卓子に置いた。


「そういえば柊月、玉妃に熱烈に好きだなんだと言われていたのに随分と平然としていたね」


「あれはあまりに勢いがありすぎて受け入れてしまったといいますか……」


「僕のアレは流したのにね?」


 ぐぐぐと悧珀が顔を近づけてきたので、私はまた数歩後ろに下がった。


「僕としてはあんな小娘に負けるのは癪なんだけど」


「私は悧珀のことも好きですよ」


「“も”? その好きは僕が言ったものとは違う気がするだけど」


 近い、近いのですが。眼前一杯の美男子は私の許容量を超えている。


「わ、私をからかうのも大概にしてください」


「おや。思ったよりいい反応が貰えて嬉しいよ」


 悧珀の胸元を押すと、すぐに離れていってくれた。


「多少の意識を僕に向けてくれているようで安心したよ」


 悧珀が自身の頬を指でつつく。


「真っ赤だよ」


 視界の端に見えた鏡台に、遠巻きながら私と悧珀が映り込んでいた。視界の端で捉えた私は、言われた通り真っ赤になっていた。私をにまにまと覗き込んでくる悧珀にぐぐと言葉に詰まる。


「私をからかって楽しいですか」


「からかっていないし、僕の言葉も態度も嘘はないよ。ほら」


 なんとなしといった風に手を取られた。


「こういうやり方は君の好みではないと思って避けてたんだけど」


 頭の中に悧珀の声が流れ込んでくる。

 

「今は別にと焦っていなかったんだけどね、玉妃のような押しの強い面倒な輩が現れたら、柊月は押し切られてしまいそうな気がして。早々に君を捕まえておかないとなと思ったんだ。どう? 金瑶と僕ならどちらの方が“重い”だろうね?」


 頭に流し込まれる悧珀の言葉は、文字通り、蜂蜜を溶かし込んだような甘い言葉。

 思わず変なと声が出た。 

 先の告白じみたやりとりが飯事ままごとに感じる。人間的に好きなんですね、などと抜かした自分はあまりに間抜けだった。

 本気でどうしたらいいかわからなくなってしまう。

 どうしたらいいかわからないのは、悧珀の態度にではなく、私がそれをほんのり嬉しく思ってしまったことだ。本当に、ほんの少し、だけだけど!

 誰に言うわけでもないのに自分で言い訳をしてしまう。

  

「それで、今夜はここに泊まるつもりで来たんだけど」


「……!今日のところはお引取りを!」


 急いで手を振り払って五歩以上距離をとる。

 無理です。この人と今晩同室は無理です。


 悧珀が堪えきれずに吹き出した。


「大丈夫だよ。取って食いやしないから」


「わかってますけど!今日は!お引取りを!!」


「あははは、わかったよ。これは僕の気持ちの押し売りだって理解はしてるから。状況も落ち着いた頃にでも柊月の気持ちを聞かせてもらおうかな」


 私の気持ち。

 改めてそう言われると心臓が跳ねる。 

 恋情も劣情も私にはよくわからない。これまでは今日明日を生きるので精一杯だったので、知る機会もなかった。今の気持ちもどう言葉にしていいかもわからない。でも、嫌な感情でないことは確かで。

 この先に私も知らない感情があるのなら、それを知るのも悪くないのかもしれないと思った。

 

「ああ柊月、最後に帰る前にいくつか聞いておきたいことがあるんだけど」


 聞きたいことという単語に身構える。今度は何。


「柊月は以前君を蔑ろにし続けてきたご両親や藍桃春が嫌いだと言った。今もそれは変わらない?」


 思ってもみない質問に思考が一瞬止まる。

 悧珀が卓子から小瓶を拾う音で私は顔を上げた。

 

「いきなり、ですね」


「責めているわけじゃなくて、ただの質問。柊月の気持ちが知りたいだけだよ。好きか嫌いかだけでもいい」


 悧珀の試すような視線を受け、私は過去の色々を思い出す。結論はすぐに出た。


「……嫌いです。関わり合いになりたくないくらいには」


 美貌の皇太子はにんまりと笑った。


「その言葉が聞けてよかった。じゃあ、またね。今度はこちらに泊まらせてもらうよ」


 ひらりと手を振って悧珀は桂花宮をあとにした。

 残された私は、色んな圧から開放されてしなしなとその場にしゃがみこんだのだった。




 

 

「金をたかる両親に、命を脅かす妹。なかなかに厄介だ」


 悧珀は鼻歌でも歌い出しそうなほど軽い足取りで走廊を進んでいく。柊月の桂花宮は極少数の信のおける官のみ配置されている。故に人も少なく、すれ違う人もいない。

 後宮の奥に位置している桂花宮から外廷に出るには、唯一外と繋がる令明門れいめいもんを出なければならない。しかし、悧珀の足は門とは反対の更に奥に向かう。後宮の奥の奥、ほとんど人の出入りを許していない最奥へと足を運ぶ。


 門番も要らぬほど頑丈に施錠された門を開けて潜ると、緑紹がひとり待っていた。


「お早いお戻りでしたね。もう少しゆっくり過ごされてから戻られるかと思っていましたのに」


「そうしたいところだったけど、こちらの方を先に片付けないとね」


 悧珀は目の前の扉を開ける。座敷牢の並ぶ通路を見渡し、手前の牢で蹲る二つの影に目を落とす。

 二人は悧珀と目が合うと、肩を震わせて頭を下げた。


王琉杏おうるあん趙玉鈴ちょうぎょくりんといったかな」


「ええ、二人共に藍桃春の侍女になります。柊月様のかつての同僚であり、友人でもあると」


「成る程ね」


 悧珀は牢の前に膝をつくと、鉄格子の隙間から手を差し入れた。その手には小瓶が握られている。


「君達、これの出処を教えてくれないかな。何故柊月に毒を盛ろうとしていたのかも。正直に話してくれたら罪も軽減しよう。藍桃春のもとから離れたいんだろう?」


 悧珀の人外じみた容貌が牢の薄明かりの中でより凄みを増す。

 

「後顧の憂いはすっぱり断たないとね。一緒に雑草刈りといこうじゃないか。ね?」


 幼子に言い聞かせるような調子でふわりと微笑む悧珀に、琉杏と玉鈴は震えた。

 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る