第23話 悪意



 

「貴方は容姿も勉学も貴方は頭一つ抜きん出て優れてる。将来はきっと、人の上に立ってこの国を背負うことになるわ」


 まだ幼い自分に目線を合わせるようにして、生母が膝をつく。


「だからこそ、無術者であることが悔やまれるわ。私がこの国の人間じゃないばっかりに……ごめんなさいね、悧珀りはく


 悧珀の生母、美燦びさん妃は悧珀と同じ琥珀色の瞳に目に涙を浮かべる。


「心無いことを言われることがあると思う。皇子の立場に擦り寄ってくる輩もいると思う。でも、忘れないで。私は貴方の味方。いつでも悧珀の味方よ」


 後宮一の美貌と謳われる西胡の姫は、悧珀の頭をそっと抱きしめた。悧珀も母の胴に手を回すと、その背にあばらが浮いていることに気づく。

 この前抱きついたときよりも、母は更に痩せている。

 悧珀は唇を噛んだ。皇子間の跡目争いが母にいらぬ心労を負わせ、病弱な身体を蝕んでいるのだ。

 自分の存在が、母の命を削っている。

 幼い悧珀はきつく母の服を握った。


「これから貴方には、私以外にも味方がたくさんできるわ。貴方のことを愛して、寄り添って、皇子という立場でなく、悧珀自身を愛してくれる人がね」


 美燦はふわりと笑う。


「人に優しくしてね。たくさん笑って。ご飯もいっぱい食べて、たくさん寝て。たまには本ばっかりじゃなく、外で走り回りなさいね。いい、悧珀?」


「はい、母上」


「いい子ね」


 美燦は悧珀の頭をひとつ撫でて、抱きしめていた腕を離した。


「大好きよ」


 そう言って笑顔いっぱいに悧珀の頬に接吻を落とした母は、三日後に亡くなった。

 

 そして遺された四歳の悧珀は、後宮で独りぽっちになった。

 無術者と謗られ、味方のいない後宮で独り。他の皇子に暗殺されかけること幾度。少しずつ仲間を増やし、ただの皇子から皇太子へと登りつめた今でも、孤独であることに変わりはなかった。

  

 








「……なんで今こんな夢をみるんだか」


 悧珀が長榻から身体を起こすと、眼尻からぽたりと雫が落ちた。はあとため息をついて髪をかき回す。

 硬い榻で寝たせいで背中が痛い。だから夢見も悪かったのだろう。


「お起きになられましたか」


 近くで緑紹りょくしょうの声がした。首を回すと、奥の卓で筆を走らす緑紹がいた。


「仮眠を取りたいから起こすなとのご命令でしたのでそっとしておりしたが、随分寝苦しそうでしたよ」


「あぁ、眠りが浅かったのかもね」


 さり気なく自身の袖で顔を拭うと、悧珀は背伸びをした。


「今日燕妃えんひは何をしてる?」


 咄嗟に口に出たのは燕妃のことだった。夢のせいか、後宮の情景が頭に浮かんだのだ。


「今日も明睿めいえいの指導を受けて桂花宮けいかきゅうに籠もっておられるかと」


 淡々と書類の確認をしていた緑紹りょくしょうが、はたと顔を上げる。


「……まさか今から後宮に行かれるので?」


 緑紹がじとりと卓の書類と悧珀を交互に見る。この仕事量を置いて行くのかという目だ。

 皇太子の仕事は多岐にわたる。床に伏せがちな現皇帝に代わって行う決裁もあれば、皇太子として行う視察や自分の領地の政務もある。悧珀の仕事量は膨大なのだ。

 悧珀は気怠げに伸びをすると榻に投げていた上衣を掴む。


「息抜きの散歩ついでに顔を出すだけだよ。夜に行くより昼の今行った方が滞在が短くて済むだろう」


「仮眠をとられたのも息抜きだったのでは?」


「夢見が悪くてね、息抜きにならなかったんだよ」


 既に決めた悧珀はひらりと手を振ると、緑紹のため息を背に自室を抜け出た。柊月しゅうげつと会って何をしたいわけでもないが、なんとなく足が向いた。


 奥まった執務室を抜けると、昼日中の人がひしめく外廷を抜ける。背中に羨望、敬愛に混じって嫉妬や嫉みを含んだじっとりとした視線を感じる。悧珀は冷めた目で彼らの横を通り過ぎていった。

 

 後宮へ向かう道すがら、悧珀はどうしても夢の中の美燦の弱々しい姿を思い出してしまう。

 

 決して人を悪く言わず、いつもふわふわと笑い、誰にでも優しかった母親。女同士の醜い争いに疲弊し、皇子の跡目争いで息子が傷付くのに心を痛め続けていた。

 後宮のような魔窟は、母の性格に合わなかった。物心ついたときから、母はずっと床に伏せていた。


 権力絡みの関係なんてろくなものじゃない。 

 悧珀は独りごちる。


 母が言っていた通り、悧珀を取り巻く環境は昔に比べて大きく変化した。皇家である以上人の視線に晒される立場だということは自覚しているが、悪意を投げつけられるのはいつだってげんなりする。彼らにとって悧珀は“皇太子”であって、悧珀という“人間”ではないのだ。


 どんなに笑顔で周りに優しくしても、周りは悧珀の粗を探してあれこれ言う。

 そんな人間関係に辟易した結果、悧珀は母の教えを全て放棄した。言いたいことを言い、誰も彼もに優しさを振り撒かない、やりたいようにする。そんな人間になった。すると、変わり者だの冷淡な人だのと決めつけられるようになった。

 

 ああ、なんだ。そういうことか。

 

 悧珀は鼻で笑った。

 結局のところ、人は相手に理想を求める。理想の皇子像から外れてしまうと、何であれ悪く言われてしまうのだ。百人いれば百通りの理想像がある。全ての人の理想になど、自分はなれない。なら、相手の顔色を伺う人生より好きに生きた方がずっといい。

 

 悧珀は二十三にして達観していた。

  

 後宮へ繋がる令明門りょうめいもんを潜ると、園林ていえんに出た。悧珀はできる限り人の少ない道を使い、桂花宮の門に向かっていると、宮の近くの建物の陰から甲高い数名の人の話し声がした。


「藍柊月って本当に異術妃なのかしらぁ」


 柊月、という単語に思わず足を止めた。悧珀は声の出処を探る。走廊から出て建物を回り込むと、いくらか離れたところに女官らが数名たむろしていた。服装からして、何処かの妃の侍女だろう。

 


燕子えんしだか知らないけど、ぽっと出で突然良娣りょうていだなんて言われても、ねぇ?」


「そうよぉ。藍柊月が本当に稀物マレモノかも怪しいわよ。藍家の術者は桃春様だけって話だったのに?」


「ならぁ、房事がうまいんじゃない〜?閨で殿下を射止めて、無理矢理異術妃にしてもらった、とか?」


 やだ〜卑猥〜と女官達が小突き合う。

 悧珀はあまりに下品な内容に呆れ、建物の物陰から様子を伺う。


「桂花宮に籠もりっきりで出てこなくて、悧珀殿下にしかお会いにならないそうだし、案外間違いじゃないかも? 私の主人の妃もそう言ってる」


「綺麗に産まれて身分も良くて苦労も知らず、男の上で腰降ってるだけで良娣になれるって、幸せ〜羨ましい〜」


 女官達が、ゲラゲラと笑う。

 そのうちの一人が手持ちの箱から何かを取り出した。


「ねぇ、今ちょうど桂花宮に尚服しょうふくから服を仕立てに女官出入りしてるみたいだし、ちょっとイタズラしない?」


「何するの?」


「桂花宮に持ちこまれる織物に針を入れるのよ」


 そう言って指で摘んでいるのは、人差し指の長さほどの長針だった。

 

 悧珀は眉を顰める。口だけでなく実害も出す気か。

 悧珀はため息を落とすと、建物から姿を現した。顔を突き合わせて話す彼女は悧珀の存在に気づかない。

  

「後宮の洗礼ってやつよね? いいんじゃない?」


「バレないかしら……?」


「バレないわよぉ。バレても尚服の落ち度になるわ」


「へぇ、何がバレないの?」


 足音もなく女官達の後ろに立った悧珀は、にこりと微笑む。勢いよく振り返った彼女達は、悧珀を認めると真っ青になった。


「で、殿下……! 何故こちらに……!」


「僕が後宮にいてはおかしい?」


「そういうわけでは……!」


 下草に頭を擦り付けるように女官らが頭を垂れる。先程までの勢いが嘘のようだ。


「燕妃について荒唐無稽なことを並べて、挙げ句傷つけようとするなんて、妄想も大概にしなよ」


 完璧な角度で悧珀の口角が弧を描く。


「君達、服装からして侍女だろう? 締めてる帯で何処の宮の所属なのかわかるよ」


 つと悧珀の長い人差し指が女官の帯を指し示す。地面で縮こまる彼女達の肩が跳ねる。


「侍女の不始末は主人の不始末。君達の主人の妃にこのことを報告した上で、君らと妃にも処分を下す。良娣を害そうとしたんだ、文句はないよね?」


 返事はない。文句があっても侍女の立場で皇太子に物申せるわけがないのだ。

 悧珀は温度のない目で彼女達を見下ろすと、踵を返した。そして建物の陰に声をかける。

 

「明睿、処分しておいて」


 陰から女官姿の明睿が姿を現す。明睿も桂花宮に微かに聞こえていた女官らの声を聞きつけてやってきたのだが、悧珀が出て行ったのを見て様子を見ていたのだ。


「かしこまりました」

 

 明睿とすれ違う悧珀の表情は底冷えするほど冷たい。昔から敵とみなした人間に対して悧珀は驚くほど非情だ。女官らは御愁傷様としか言いようがない。

 

 睿明はこちらを怯えたように見上げる女官らに近づくと、慣れた様子で締め上げていく。小さくあがる悲鳴を背後に悧珀は自分の宮へ戻るべく来た道を引き返していく。

 柊月の顔を見に来たつもりだったが、興が削げた。やらねばならない仕事もできてしまったので、柊月のもとへ行くのはまたにしよう。


 悧珀は先程のやりとりを思い出す。

 根も葉もない噂や些細な悪意が、ああやって束になって人の心を傷つける刃となるのか。

 美燦もきっとこんな取るに足らない奴等の餌食になって命を落としたのだろう。そして、柊月も同じように標的にされてしまう。


『燕子だけが取り柄の女と思われたくないので』


 そう言ってのけた柊月は、言葉通り必死に取り組んでくれている。

 その努力やこれまでの彼女の苦しみを土足で踏み躙られたような気がして、悧珀は知らず拳を握った。

  


 

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