第16話 柊月、冊封
一段下に立つ文官が、女達の名を朗々と読み上げる。その内容が眠気も相まってまるで経のように聞こえる。昨晩からあれこれ動き回ってろくに寝ていないこともあり、体力も限界であった。
悧珀は欠伸が出るのを噛み殺して、肘掛けに頬杖をついた。
「悧珀様」
真後ろに控えていた
「しゃんとしてくださいませ。妃らに示しがつきません」
咎めるような緑紹の声に、悧珀は僅かに眉を上げて答えた。
緑紹の視線の先には、整然と並ぶ異術妃がいる。
誰も彼も澄ました顔をして並んでいるが、互いを牽制しあっているのが手に取るようにわかる。横の女よりも高い地位を、寵愛を得やすいようにより高い位を。そんな声が聞こえてくるようだ。
術具をつけた悧珀の目を通すと、更に彼女達の異術も透けて見える。水、火、結界術……どれも特筆して珍しい力を持った妃はいない。そもそも、後宮に入るにあたって異術妃は皆、才門を通じて悧珀にのみ異術を明かしている。これは婚姻関係になる夫への術の開示と従属を意味する。今回後宮入りした異術妃に特別な力を持った妃はいなかったと記憶している。
悧珀が視線を巡らすと、
早速女達の静かな権力争いを見せられて、悧珀は辟易していた。
「僕のことを気にする余裕のある妃なんてほとんどいないよ」
悧珀が小声で返すと、緑紹の今日何度目かのため息が聞こえてきた。
悧珀は決して悪い人間ではないのだが、思いやりより先に事実が口に出る性分だ。それ故、何かと周囲とも衝突が多い。緑紹と完全に対立することはないが、ため息をつかれることは多かった。悧珀は頭の回転が早く口も立つので、相手からしてみれば何を考えているかわからない男なのだろう。
陰で『変わり者の第三皇子』などと揶揄されていることも知っているし、あえて否定する気もない。自分でも扱いづらいだろうとの自覚はあるからだ。
諦めたように緑紹が肩を落とした。
「好きにしてください」
「そうするよ。で? 何か用があったんだろう?」
この男はただの説教のためだけに、悧珀に公の場で話しかけるような真似はしない。悧珀が目線で促すと、緑紹が咳払いをして悧珀の耳元に口を寄せた。
「柊月様、お支度整ってございます」
悧珀が頷くと、緑紹は一礼の後、庁堂を後にした。柊月を出迎えに行くのだろう。
――藍柊月。
悧珀はその名を頭の中で繰り返す。
荒れた肌や傷んだ髪、形の揃っていない爪。どこをとっても貴族の娘としては歪だ。歳は十八らしいが、貴族の一般教育は五歳で止まっていると言っていた。幼い頃はあれこれ学ばされていたが、無術者とわかってからは何も教育を受けさせてもらえなかった、と。正真正銘無術者の悧珀ですら、そこまであからさまに差別されることはなかったのだが、彼女の場合は両親が良くなかった。哀れなことだ。
家柄としては申し分ないのだが、そんな彼女が身なりを整えてそれらしくしたところでどこまで通用するか、未知数ではある。藍家は
……まあ、どうでもいいか。
悧珀は独りごちる。
燕子の妃が欲しかった。ただそれだけだ。口でどう言っていようとも、どうせ彼女もすぐにきらびやかな後宮での生活に溺れるようになる。お飾りであれ、
「次に――」
文官の声に、物思いに沈んでいた意識が浮上する。
悧珀が目を上げると、最後の妃、藍桃春の名が呼ばれていた。
「藍桃春様、
妃達が戸惑ったように身じろぎする。藍桃春自身も驚いたように固まっていた。物言たげなざわめきに、小さな呟きが交じる。
「何故? 藍妃様が
今回、良娣はここに集まった妃から誰も選ばれていない。一番立場が上であるはずの藍桃春でさえ、良娣ではなく良媛だ。順当にいけば良娣だと思っていた藍桃春にとっては衝撃だっただろう。
東宮の後宮は、一人の太子妃を頂点に上から良娣二人、良媛六人、承徽十人、昭訓十六人、奉儀二十四人を定員に構成されるのが常の習いである。皆一様に何故、といった表情で悧珀を見上げている。
「良娣は既に決めている」
悧珀がそう告げると、妃らは互いに顔を見合わせた。悧珀はちらと庁堂後ろの扉に目をやると、その視線につられて数名の妃が後ろを向いた。
重い衣擦れの音とともに一人の女性が姿を現す。女が伏し目がちにゆっくりと歩を進める度に、白藍の
「まあ、どなたでしょう?」
「お綺麗な方」
妃達の囁き声の中、女が静静と悧珀の前に跪く。歩揺が涼やかな高い音を立てる。
悧珀が口を開こうとしたそのとき、藍桃春が小さく声を上げた。
「そんな……お姉様!?」
俯いていた女の肩がびくりと揺れた。
* * *
『俯きがちに、目線は数歩先を見るように。手は腹の前で組んで袖から決して出さない。ゆっくりと歩いて、裾を踏まないように』
緑紹に言われた通りにしてここまで来たのだが、果たして私はうまくやれているのだろうか。
『貴女様は少々がさつでいらっしゃるので、喋るとボロが出ます。燕子として箔をつけるためにも、この場は品よく大人しく。悧珀様の言葉に、かしこまりましたと答える以外は口を開かず黙っていてください』
頭の中の緑紹が私をつつく。わかっています、何も言わないし黙ってやり過ごします。裾を踏みそうでずっと胃が痛いし、頭が重すぎて強制的に俯きがちになってしまうので、言われずとも何もできそうにない。
それでも桃春の声に反応しそうになったが、黙って無視をする。殿下が対応してくれるだろう。
ちらと視線を上げると、殿下と目があった。じっと見られて無言で視線を外される。何も言うなの意だろうか。
「藍妃様を突き落としたあの侍女?まさか」
「でも藍家の一姫様だったのでしょう?」
「おかしくはない話ですけど、でも……」
妃がざわざわと騒ぎ出す。私は殿下の前に跪いたままだ。
傍から見た私、ずっと微動だにせずただ俯いていているだけで、結構滑稽なのではないだろうか。
「殿下、一体どういうことですか?姉が、良娣?」
桃春の声がする。私から顔は見えないが声からして怒っている。
「姉は捕まったはずでは!? しかも異術も持たないのに良娣だなんて、おこがましいにも程がありますわ! お姉様! どうせ殿下に取り入って媚を売ったのでしょう!?」
緑紹に言われた通り、私は喋らず無言を貫く。無視されたと思った桃春の語気が荒くなる。
「図星なのでしょう!? だから言い返せないんだわ!」
息巻く桃春に殿下の冷ややかな目が向く。
「藍柊月の嫌疑は既に晴れている。僕は燕子たる彼女が妃に相応しいと思い、後宮に入れることにした。誰をどの位に選ぶかを一介の妃に口を出される覚えはないね」
殿下から若干の苛立ちを感じる。椅子の肘掛けを長い人差し指がコツコツと叩いているのが見えた。
「燕子……? 燕子って、稀者? 姉が? ふふっ、まさか」
「僕の言葉を疑うと?」
「本当に嘘ですわ! わたくしもお父様もお母様も、姉が無術者だと知っています! ありえないです! 殿下、本当にこの女に騙されていますわ!!」
桃春の高い声が庁堂に響く。他の異術妃数名も桃春を擁護して私を非難し始める。
私はというと。
ずっと同じ姿勢で座っているせいで足が痺れてきていた。私の中ではこの場とは別に、早く終わってほしい、立ち上がりたい、と戦いが始まっていた。
殿下が衆目を見渡し、よく通る低音が騒音を一蹴した。
「彼女は間違いなく燕子。本人も私も認めている」
「嘘よ!」
「既に才門の楔も身に着けている。この意味がわかるだろう?」
愕然としたように桃春が動きを止めた。
「そんな……本当に……?」
殿下は立ち上がると、愕然としたような桃春に追い打ちをかけるように私の首元を晒した。
「なっ……!?」
思わず声を出して首元を押さえた私の手に殿下の手が重なる。
『少し我慢して』
手が重なったことで頭の中に彼の声が響く。殿下は私の覗見術を、声を出さずにやりとりする便利な道具だと思ってはいないだろうか。
「藍妃よ、これ以上彼女を否定する発言は僕への侮辱ともとるよ?」
ぐっと桃春が言葉に詰まった。
「藍柊月は良娣としてこれから
妃達が息を呑む音がする。
良娣よりも高い地位。太子妃以外に他ならない。私に難癖つけるなら、それ相応の覚悟をしろよという殿下の脅しだ。
「――藍柊月」
殿下の声に私はゆっくりと顔を上げた。同じ姿勢でいた痺れから足の感覚がない。今立てと言われたら、どうしよう。
「そなたをと良娣とす」
「かしこまりました」
最初に緑紹に言われた通り、きちんと頭を下げる。ゆっくりと顔を上げると、殿下と視線がかち合った。目だけで、他の妃達が座っている後ろに下がれと合図される。
そうしたい。そうしたい、のだが。私は立てなかった。服の重み、足の痺れ。過度の緊張もあったかもしれない。足に力が入らなかった。
「……どうしたのかな」
動かない私に痺れを切らしたのか、周囲に聞こえない程度の小声で殿下が問うてくる。
「た、立てません……」
足が痺れて、とはこんな真面目な場面でさすがに言えない。足の感覚がなくてとにかく痛い。可能なら床に寝転びたい。冷や汗も出てきた。
小声で返すと殿下が私と背後の妃らを交互に見た後、ため息をついた。
「そのままでいいから」
「え?」
ぐいと殿下に腕を引かれる。勢いのまま立ち上がると、そのまま腰と脚に手を添えられた。なんだと思う間もなく、無言で抱え上げられた。
背中と膝裏に殿下の手。所謂、横抱きだ。
びっくりして声が出そうになるのを、既の所で抑えた。ただ、太腿に当たる殿下の手がちょうど一番痺れているところに直撃して、うぐっと呻いてしまった。
降ろしてと言いたいが、余計なことを喋るなと言われたことや、もし降ろされたとしても立てずに無様に床に寝転ぶ羽目になることを想像してしまって、されるがままになった。
「妃は体調が思わしくないようだ。今日はこれで失礼するよ」
殿下が私を抱えたまま歩き出すと、妃達が一斉に殿下に跪礼をする。その中で、ひとり桃春が呆然と座り込んでいた。
信じられないようなものを見る目をして、私のことを見ていた。
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