第12話 顔合わせの宴(後編)




 それまで表情に変化のなかった皇太子の眉がぴくりと動いた。

 ゆるゆると開かれる目。明らかに驚いている。

 彼の視線の動きに気づいていない様子で、桃春とうしゅんが涙を拭いながら上目遣いで皇太子を見上げる。桃春迫真の演技だ。口元を隠すような仕草すら儚く見える。桃春を助けた衛兵らが頬を染めて桃春を見ていた。


「殿下、あの子にも何か事情があったのかもしれません。どうか温情を――」

 

 しかし、そんな桃春の涙ながらの奏上が終わるより前に、突如皇太子がひらりと舟上から池の畔に跳び移った。視線は私に向いたままだ。

 桃春が間近に立つ皇太子を見上げ、髪を撫でつけながら頬を染めた。


「あの、殿下……?」

 

「君の侍女は、あそこで座っている彼女?」

 

「は、はい」

 

「そうか、名は?」


 皇太子の問いに桃春は目を輝かせた。水に落ちて化粧やなりは少々崩れているが、普通の男性なら虜になるであろう蕩けるような笑みで礼をする。


「はい……! 私は藍桃春と――」

 

「違うよ。侍女の名だよ」

 

「………………え?」


 皇太子は万福礼の姿勢のまま固まった桃春の横を通り過ぎる。ずんずんと近づいてくる皇太子に、私は膝をついたまま数歩後退った。


「探したよ」


 ……探した? 私を?

 

 目の前の皇太子は緩く口角を上げると、座り込む私の前に膝をついた。周囲が一等ざわめく。


「ずっと探していた。まさかこんなところにいるとは思いもしなかったな。道理であの緑紹りょくしょうが見つけられないわけだ」

 

「あの……」


 ふいと殿下が私の耳元に口を寄せる。

 

「あのときは手荒な真似をして悪かったね。改めて名を聞こう、燕子えんしよ」


 周りには聞こえないくらいの音量で。

 燕子、と。


 エンシ? ……………………まさか。そんな。

 

 皇太子の袖から覗く手を見ると、左手の甲に薄っすらと傷跡が残っていた。もしやこれは私が簪で突き刺した傷?

 

 今まで桃春の策略に怯えて震えていたが、今度は別の震えがのぼってくる。

 あの日の人攫い男は、目の前の男――皇太子で、私はこの男に術を知られている可能性がある……?皇族相手に異能などありませんと知らぬ存ぜぬでシラを切り通せる自信はない。このままでは私のらん家を出てひとり田舎暮らし計画が頓挫してしまう。


 自分の顔が引き攣るのを感じる。皇太子は不思議そうに私の顔を覗き込む。


「名がない訳じゃないだろう?」

 

「いえ、あの、その」

 

「ん?」

 

「ら、藍柊月しゅうげつと申します、殿下……」


 偽名はここでは通用しない。正直に答えることにした。周りがざわめく。皇太子も訝しむように眉を寄せた。


「藍? あの藍家?」

 

「はい」

 

「じゃあそこにいるのは君の妹?」

 

「…………はい」


 妙に間の空いた私の返事。皇太子はちらりと桃春を見やる。

 

「ふうん……」

 

 考えた風であったがゆっくりと頷くと、私に手を差し出した。


「手を貸そう」


 恐る恐る手を出すと、一回り大きな手が私の手を握る。そのままぐいと引き上げられて立たされた。見た目の線の細さの割に力が強い。


『燕子なら誰でもよかったんだけど、訳アリとはまた面倒だな……』


 接触したことにより皇太子の心の声が漏れ聞こえてくる。見上げた先の顔は涼し気だが、色々と思案しているようだ。

 誰でもよかったのに引き当てたのが私だったのは、殿下にとっても想定外だったのだろう。それはわかるのだが、勝手に関わってきたのに面倒がられるのは腹が立つ。そっちが勝手に! 私を燕子と呼んで! こんな衆目に晒す形で大事おおごとっぽくして!!

 

 私を立たせると殿下の手は離れていった。横に立つと何時ぞやのように甘い香りが鼻腔をくすぐった。ああ、これはあの日も嗅いだ匂いだ。

 

 あのときは思い至らなかったが、これはこの園林ていえんに充満している蝋梅ろうばいの香りだ。蝋梅の甘い匂いに殿下自身の香の香りの白檀びゃくだんが混ざっている。独特な香だ。一般庶民、ましてや人攫いをするような貧しい身分の人間が纏わせる香りではない。

 あのときの人攫い男は皇太子で間違いないと突きつけられている気がして胃が痛んだ。


「殿下!」


 私達の様子を見ていた桃春が他の妃に支えられてこちらにやってきた。桃春が私を睨む。


「柊月は確かにわたくしの姉です。でも、酷い女なのです! 自分に異術が発現しなかったことを根に持って、わたくしの異術を羨んで嫌がらせばかりしてくるんです! 見かねた両親に勘当されたところを私が面倒みていたところです……!」


 私ってそういう設定だったんだ、知らなかった。

 

 私は初めて聞く自分の生い立ちに、立場を忘れて普通に感心してしまった。

 

 桃春を支える異術妃達も私のことを険しい顔で睨めつける。


「藍妃様の優しさにつけ込んでおきながら随分としおらしい態度ですわね!」

 

「まさか藍妃様の姉君とは思いませんでしたけれど、勘当されても面倒をみてくださる藍妃さまになんて仕打ちをされるんですか!?」


 この異術妃達の中で私は完全にクロのようだ。ここまで盲目的に桃春を信じられる彼女達もすごいと思う。

 

「私はやっていません」


 念のために反論しておく。

 

「まあ、非道ひどい!」

 

 すぐに桃春の取り巻き数名から罵声がとんでくる。それ以外の異術妃達は黙って遠くから私達の様子を窺っていた。

 

 とんだ茶番だ。

 

 でっちあげもでっちあげだが、殿下の手前、反論したくとも反論できない。

 私を無術者だと思っている桃春と、異術があることを知っている殿下。ここでその話にまで飛び火すると泥沼化するおそれがある。面倒なことになった。

 

 よって、私はこの場では黙秘することにした。

 そんな私をちらりと見やり、殿下は目を細めた。


「無術者? 彼女が?」


「そうです! 姉は生まれてからずっと無術者ですわ!」


 私が何も言わないことをいいことに、桃春が捲し立てる。お願いこれ以上何も言わないで。


「ふうん、なるほど」


 殿下は呟くと私の肩を掴んだ。ぐいと引き寄せられて殿下の胸板に顔が突っ込んだ。桃春の目尻が更にきつくなる。


「嫌疑が晴れるまで、彼女の身柄はこちらで押さえる。場所を移して話を聞きたい。……緑紹」

 

「はい、ここに」

 

「連れて行け」


 殿下の後ろから身なりのいい中性的な優男が姿を表す。見目は線の細い男性だが、ここは後宮だ、男はいない。先程の衛兵ですら宦官だ。おそらく緑紹と呼ばれた彼も宦官かんがんだろう。

 男は私の腕を取った。


「こちらにどうぞ」


 逃げるなという意思を感じる。ここは状況的にも大人しくついていくのがよさそうだ。

 殿下は桃春を振り返る。

 

「そこの池に落ちた妃。名は……」


「藍桃春」


 緑紹様が殿下に耳打ちしているのが聞こえた。さっき桃春が自己紹介しかけていたのだが、殿下は聞いていなかったようだ。


「ああ、桃春だったね。君は部屋へ下がりなさい」


「ですが、殿下!」

 

「いいから、僕が下がれと言ってるんだ」


 殿下の温度のない目が桃春を射抜く。美人の真顔ほど怖いものはない。容姿が頭一つ抜けていい殿下の凄みは尚更だ。

 

 桃春は一瞬たじろぐと、わかりましたと言って頭を下げた。


 殿下の琥珀のようにも見える瞳が私を見下ろす。

 

「ではまた後程」

 

 軽い身のこなしで再び舟へと飛び移る。殿下を乗せた舟はゆっくりと岸から離れていく。

 私はそれを見送り、針のむしろのような視線の中、宴の席を後にした。


 

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