【ひとくち随想録】江戸川のほとりで、コンパクトに暮らしてみたけどだめだった

森 澪音

大学を卒業した私は、都内の専門学校へ通い商業デザインを中心に学んでいた。

 うまくいかない日は何をしてもうまくいかないというので、私はそれを打破しようともがいた日がある。夏を感じる広告デザインについて分析するという課題が出されたので、午前は授業のない金曜の朝を狙い、私は江戸川ほとりのアパートに鍵をかけた。電車の中吊り広告を撮るためである。

 最寄り駅への通学路は既にごった返しており、駅構内は金曜日を除く平日と同じ混み具合だった。このとき私は電車の中で果たして写真を撮る余裕があるのかと危ぶんだ。


 総武線の朝は格闘ゲームだと言われるので、私はせかせかと歩く人々の余裕の無さを改札の奥から感じた。事実、電車では案の定少し疲れた会社員勤め風の大人たちに挟まれるが、今日私が挟まったのは電車のドアだった。乗りたい気持ちは皆平等であろうから、私は次の駅で乗る人びとのために乗りかけた電車を譲った。


 せせらぎ通りを歩いていると、自動販売機が私を捉えた。人家の集まる住宅街のためか狭い場所を利用して薄型の自販機だった。大学時代は田畑の広がる寒村に住んでいたので、このような自販機には珍しさを感じ、私はしばらくその機械を眺めていた。真横から見れば各飲料5、6本程度しか在庫を貯められないのではと思う程だった。何か買おうかと考えたものの、日々の潤しはスーパーで購入した2Lで150円の麦茶程度であり、自販機から自宅までもさほど離れておらず買うのをやめた。でも、費用対効果ばかり考える買い物は本当に楽しいのだろうか。苦学生なりの知恵を奮い如何に金銭を消費せず栄養を摂取しつつ、まともな満腹感を得られるのか。それは確かに楽しさはあるものの、守銭奴を強いられていることに対する悲壮感をしみじみと思うほどの心の余裕はなかった。

 結局、数枚の硬貨を入れるとレモン入りの曹達水のボタンを押した。取り出し口に重厚な音が響き、缶入りのレモン曹達水が顔を覗かせた。私はそれを拾い上げると胸の前にあてた。青と水色のパッケージの冷たい缶は、薄手のブラウスを通して涼しさを伝えてきた。私は家に帰るのを待ち切れず、歩きながら缶の口を開封した。曹達水は缶に水滴を無数に滴らせ、差し下す初夏の日を浴びて汗をかいているように見えた。お腹が弱い私は一口ひとくち含むように飲んだ。数ヶ月ぶりの炭酸にむせ返りそうな思いもあったが鼻から抜けるレモンの華やかな香りは何にも代え難く、初夏のわんぱくな日差しの下、束の間の休息を噛み締めた。銭湯の入り口横の腰掛にもたれ掛かると、往来の少ないアスファルトの遠く向こうから体育の授業中であろう学生の掛け声が聞こえてくるのだった。灰皿の横でピースを一本吸い切ると、日傘を開いて帰り道を歩き始めた。

 路地の日陰にサンダルの乾いた音がこだましてゆく。


 部屋に戻り解説動画の原稿を進めたあと、表現力を高めるべく、大学時代古書店から取り寄せた学術書を読み始めたが、昨夜の睡眠不足のため間もなく頭痛を覚え布団に潜った。

 どれほど眠ったのかがわからないが窓の向こうが暗くなっていたため、しまった寝過ごした、布団から降りようと試みるものの両脚が動かせない。足が攣った感触もなく、腕を伸ばそうという意志と同じく腕は動くため夢ではないだろうと推測した。考えられるのは金縛りくらいだと思った。

 私は霊的な話は興味があるものの全く信用していない。エンターテインメントのひとつとして楽しんでいる。そんな私に遂に金縛りが訪れたかと半ば興奮気味に足元へ目をやった。

 聞いた話によれば白い服を着た黒髪の霊が馬乗りになっているはずだと暗闇の中で目を凝らした。しかしそこにあったのは昼に読みかけた分厚い学術書だった。

 時間を確認すれば午前1時。今から明け方まで眠ろうと思ったものの、金縛りを期待して交感神経が解放されてしまったために一向に眠れない。


 そもそも私に霊は見えないことを思い出した。ひょっとしたら向こうからやって来てくれたのかもしれないという淡い期待はあっけなくはずれた。更に帰りのタクシー代などを請求されたら困りものだ。こうした貧乏学生の元ではなく、もっと爽やかな若者たちの元へ霊は集まるのだろうと話は丸く収まった。

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