4 彼女はどこに


精霊ジンってのはそもそも、水蒸気なんだよ」


 簡易天幕の中、心許ない照度の蝋燭を囲み、アースィムとカリーマは本を読み漁っている。


「全ての生物は体内に水を持っている。そういう意味で、皆が水神マージとの繋がりを持っていると言えるけど、精霊は肉体を持たないからこそ、より純粋な水なんだ。で、水ってのは自在に姿を変えられる」


 熱されれば気体に、冷やされれば個体に。四角い器に入れれば四角くなり、砂に撒けば線を描く。


「ここの記述によると精霊は、水に溶けた精神が神性を得た時、生まれるんだってさ」

「神性」

「こっちの一文を見る限り、水に溶けていた強い感情が水蒸気に凝縮することで、精霊になる。そしてその激情が精霊特有の不可思議な力を呼び起こす。あと、面白いのはこれ」


 カリーマが、水辺から立ち昇る靄が描かれたページを指先で叩いた。


「奴ら、極端に湿度が高い場所には近づかないんだってさ。水から生まれたのに何でだろうね。まあ、オアシスとか常識的な規模の水場は彼らの家だから、砂漠に暮らす私達には想像できないくらい水浸しの場所にでも連れ込まないと、嫌がらせにはならないか」


 かつて、精霊は砂漠に多く暮らしていたと聞くが、理由はおそらく、地下に水脈を持ちつつも灼熱の陽光に焼かれて渇く大地が心地良かったのだろう。


「とにかく、精霊は自然発生する存在だ。本来、親も子もないはずなんだけど」

「だけどカリーマ、ラフィアは精霊王せいれいおうの娘だという」

「精霊は水だから、自在に姿を変える。肉体を形作ることもできるのさ。こっちの本にはそういう逸話が載っている」

「では本当に彼女の父親は精霊王なのか」

「皇族じゃなくて残念だったね?」

「皆が何と言おうと、俺にはどちらでも良いことだ」


 氏族にとって、ラフィアが真の皇女であるか否かは、大きな問題なのだろう。しかしアースィムにとって彼女は、長年恋焦がれてきた女性であり大切な妻である以上の何者でもない。


 アースィムは書籍の山から次の本を取り、内容に目を走らせる。


「力の強い精霊は、自らだけでなく、周囲の水を操り、変化させることができるらしい」


 アースィムの言葉に、カリーマが呻く。


「そう、それがあるから、奴の居場所を探すのが難しいんだよね。アースィムが精霊王に捕らわれていた場所は、普通の家だったんだろ」

「ああ。中庭付きの、開放的な邸宅だった。あれが精霊王の力によって水から生み出されたものだとしたら、手掛かりはない」

「しいて言えば、材料となる水がたくさんある場所にあるのかな」


 カリーマの言葉に、アースィムは文字を指で撫でつつ、思考を巡らせた。


 言わずもがな砂漠には水辺が少ないが、規模を問わぬのならば、精霊王が屋敷を構えることができる程度の水場は、数多くある。では、何か他に手がかりになるものはないだろうか。


 再会の日の光景を、脳内で再現する。


 ラフィアは階段を下って来た。出入り口が上にあるとすれば、ある程度の水深がある場所かもしれない。あの時のラフィアは、空色の見慣れぬスカーフを被り、上質な長衣を纏っていた。精霊の力で作り出したのだろうか。


 ……いや、違う。


 あのスカーフには何かに引っ掛けたような穴が空いていた。水から作り出された物が破損するのかはわからぬが、少なくとも、破れてしまったのならば再度作り直すか塞げば良いはずだ。


 もし、彼女が身につけていた物が精霊王の力によって作り出された布ではなかったとしたら、見るからに高価な衣裳は、いったいどこで手に入れたのだろう。答えは明白だった。


「きっと、宮殿のどこかにいるはずだ。ラフィアは、一度後宮ハレムに帰ったはず」

「宮殿? でも、天敵みたいな天竜てんりゅう様のお膝元でしょ」

「精霊王は天竜様を憎んでいる訳ではない。疎ましくは思っているようだったが。とにかく彼は、退屈を紛らわせるための刺激を求めていただけなんだ」


 そう、少し考えればわかることだ。精霊王は、海に飛び込み後宮を去ってから、現在までずっと同じ場所に潜んでいる。


 城門に併設された控室の側。アースィムがラフィアに恋をした、小さな泉。


 アースィムは腰を上げた。


「宮殿に行く」

「え、ちょっとアースィム! そんな簡単に行ける距離じゃないでしょ」

「だけどきっと、ラフィアがそこにいるんだ」

「見当違いだったらどうするのさ」

「その時は」


 目を白黒させているカリーマを肩越しに振り返り、アースィムは言った。


「シハーブに従い氏族を導いて欲しい」


 未だ言いたいことがありそうなカリーマに背を向けて、アースィムは一度自身の天幕へ戻る。旅支度を整え、真っ直ぐに砂竜の囲いへと向かった。


 淡く光る白銀の群れの中からイバの姿を見つけ、鞍を乗せる。


「イバ、一緒に行ってくれるか」


 円らな瞳と見つめ合ってから、アースィムはイバの首筋を軽く叩く。


 相棒の同意を確認した後、鞍に跨ろうとしたアースィム。しかし、持ち上げた右脚に異様な重量感を覚え、動きを止めた。足枷の正体を見下ろして、アースィムは目を丸くする。


「バラー?」


 シハーブの相棒であり、ラフィアが世話をしていた甘えん坊の幼竜ようりゅうバラーが、アースィムのサンダルの端に噛み付いていた。


 腰を屈め、バラーを引き剥がそうとするが、幼いとはいえ砂竜の咬合力は凄まじい。片腕ではバラーの顎に勝てず、アースィムは根負けして膝を突き、幼竜と視線を合わせた。


「どうしたんだ、バラー。悪いが今は遊んであげることは」


 皆まで言う前に、バラーはサンダルを放し、鼻面でしきりに砂を撫で始める。怪訝に思い見守るうちにアースィムの目が次第に見開かれた。砂上に現れたものの全容が明らかになり、脳内で理解の実が結ばれた途端、全身に痺れるような熱いものが迸った。


「……そうか」


 アースィムは束の間、瞼を下ろして感情の砂嵐をやり過ごす。深呼吸をして平静を取り戻すと、バラーの頭を軽く撫でた。


「わかった、ありがとうバラー。そして、ラフィア」


 バラーにとってアースィムは、ラフィアの関心を巡り冷戦を繰り広げた人間である。因縁の相手に気安く触れられて、バラーは心底不本意そうだ。幼竜の不貞腐れた顔を見て小さく笑った後、アースィムは腰を上げ、気を引き締めて相棒に告げた。


「目的地は変更だ。行こう、イバ」


 深夜の砂漠には、肉食獣や猛毒の蠍、はたまた盗賊といった危険が潜んでいる。しかし、今はほんの僅かな時間すら惜しい。


 一人と一頭は、夜色に沈む砂漠へと足を踏み出した。

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