4 シハーブとラフィア②

 まるで砂嵐に中にいるかのように、思考が掻き乱され砂色に包まれている。


「何を言っているの。あなたはアースィムの弟。私にとっても義弟だわ」

「しかし兄は亡くなりました、皇女様」

「もし、本当にアースィムがいなくなってしまったのだとしても、私は後宮ハレムに帰るだけ」

「残念ながらそれは叶いません。失礼を承知で申し上げますが、皇女様は戦乱での兄の働きに報いるため、白の氏族に降嫁したのですよ」

「私が嫁いだのは白の氏族ではない。アースィムよ」

「同じことです」

「全然違う!」


 この頃には、騒ぎを聞きつけた者達が集まり始めていた。


 ラフィアとて、皇族の端くれだ。自らの降嫁が白の氏族にとってどのような意味を持つものなのか、正確に理解している。


 また、寡婦となった兄弟の妻を娶るのは、女性を露頭に迷わせないために古くから慣例化した行為である。シハーブの発言には、何一つ理解に苦しむ点はない。しかし。


 アースィムとよく似た顔を見上げながら、ラフィアは唇を噛む。


 飴色の髪と瞳、よく通った鼻梁に形の良い唇。愛しい夫とほとんど変わらぬ顔立ちなのに、彼の妻となる未来など、想像するだけでも嫌悪が溢れ出す。


 いや、シハーブのことを受け入れ難いのではない、アースィムでなければ、嫌なのだ。


「違うわ、違う」


 頬に涙の筋を光らせて、弱々しく繰り返すラフィアに、哀れみを顔面に張り付かせたシハーブが一歩近づいた。


「皇女様、これは兄の遺言でもあります。アースィムは飛び下りる前に、自分に何かあれば皇女様を娶るようにと言い残しました」


 シハーブの瞳が揺れている。嘘だ、と確信した。彼は、氏族から皇女を逃がさぬため、嘘を吐いている。アースィムの言葉だと言えば、ラフィアが運命を受け入れるとでも思ったのか。


 たとえ弟とはいえ、アースィムを軽んじた言動に、悲しみを突き抜けて怒りが湧き上がった。


「アースィムは、そんなこと言わない」

「言ったのです」

「嘘だわ。アースィムを冒涜しないで」


 ——ラフィアの伴侶であることも、族長であることも、手放すつもりは絶対にありません。


 赤の集落の仄暗い天幕内にて。力強く断言したアースィムの声が、脳裏に蘇る。


 そうだ、アースィムは自ら族長を諦めることはないのだし、ましてやラフィアを他の男に嫁がせるはずなどない。


 ラフィアの両手を包み込む手の締め付けが強まった。両手で、こうも親密に誰かに触れられることなど、もう一生ないと思っていた。


 いくら似ていても、彼はアースィムではない。夫は不器用な片手で、まるで宝物を撫でるようにラフィアを包むのだ。痛みすら覚えるほどの強さで掴むことなどない。これではまるで、獲物を逃がすまいとするようではないか。


「触らないで」


 振り払おうとすれば、いっそう拘束が強まった。その瞬間、全身の毛穴が逆さまになるような嫌悪と怒りが迸り、気づけば叫んでいた。


「放して……、ハイラリーフ!」


 刹那、耳元を突風が駆け抜けた。驚きに目を瞠る間に、極彩色ごくさいしきの鳥がシハーブの顔面を蹴り上げ、天へと舞った。


 突然の出来事に、シハーブは呻いて手を放す。次なる衝撃に備えるため、腕で頭部を庇ったが、再度の攻撃はやって来ない。


 極彩色の鳥は蒼天を旋回し、やがて水蒸気になり風に溶けた。


 束の間の沈黙の後、人垣の間から、ざわりと不安の囁きが這い出した。


「いったい何が」「鳥が水蒸気に?」「そんなことはあり得ない」「しかし精霊ジンならば本体は水蒸気だ」「じゃあ、もしかして皇女様は」


「精霊憑き?」


 誰かが怯えた声を上げたのを最後に、静寂が世界を満たす。


「あ……」


 畏怖に満ちた視線を一身に受け、ラフィアは自らを両腕で抱くようにして、よろめきながら後退る。耳元から、聞き慣れた叱責が飛んだ。


『何やってんのよ。ぼーっとしてないで逃げなさい!』


 声に打たれ、ラフィアは身を翻した。砂に足を取られながら集落の端へと向かい、一目散に駆け抜ける。


 一呼吸おいてから、追手の気配が迫った。


『しょうがないわね、ほら!』


 ラフィアと並走するように、白い虎が現われた。ハイラリーフだ。


 精霊の意図を理解するや否や、ラフィアはその背に飛び乗った。ぐん、と集落の景色が遠くなる。


「ああもう、何が何だか」


 虎の口から発せられたハイラリーフの悪態を聞きながら、ラフィアは疾走する虎の首元にしがみ付く。滂沱ぼうだと流れる涙が風に攫われて、後方の砂地に吸い込まれていった。

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