2 父の遺言


「父さんが、亡くなりました」


 しゃがみ込み、四つの可憐な花弁を持つ白い高山花を摘んでいたアースィムは、弟の言葉に束の間息を呑み、瞑目してから短く返す。


「そうか」

「兄さんは、壮健そうで安心しました」

「ああ、シハーブも無事に快復して良かったよ」


 どこか他人行儀な会話が、崖下から駆け上る乾いた風に巻き上げられて、太陽が勢いづき始めた午前の空へと散って行く。


 アースィムとシハーブは、氏族の聖地である断崖にて、眼下に広がる一面の砂色を眺めて言葉を交わしている。この近辺で最も標高が高い場所であり、遥か遠方にぼんやりと見える紺碧の海から水分を含んだ風が吹き込むため、集落がある辺りよりも僅かに湿度が高く、枯れ色の草や白い高山花が点々と生えている。


 再会の翌日、聖地へと誘ったのはシハーブだった。古くより、人生の重大な節目には、聖地に詣でることとなっている。砂竜さりゅうの卵を孵す儀式の折はもちろんのこと、族長就任や成人の儀、婚姻や葬儀後にも、水神マージと祖先への報告のために訪れる。


 心地の良い風が吹く場所であるため、用事がなくとも聖地へ向かう者もいる。しかし、前述の通りの高所であり、聖地詣りには時間と労力を要するため、気軽に訪れる場所ではない。


「母さんはどうしているんだ」

「しばらく父さんの側にいたいと」


 想定通りの言葉に、アースィムは何の感慨もなく頷いた。


 父と母は、集落の誰もが認めるほど仲睦まじい夫婦だった。入婿である父よりもむしろ、母の方が夫に依存しており、約四ヶ月前に父とシハーブが相次いで熱病に罹った時、看病のために療養先までついて行くと言って聞かなかった。


 父が遠からず命を落とすことは、その病状から想定済みであり、その後母が戻らないことも予見していたが、そうした事情があったにしても、実父の死の報を受け、涙を流すどころか悲しみの表情一つ浮かばない己の薄情さに嘲笑が漏れる。


 アースィムは物心ついた頃から、将来善良な族長となるべく育った。


 自らのどす黒い感情を押し隠すため、自我を覆う仮面を被って過ごしてきた。やがてそれが癖になり、三年前、父が次期族長にシハーブを指名した時期に、空想上の仮面は完全に肉体と同化して、いかなる時も外せぬものとなった。


 近頃は、天真爛漫なラフィアのおかげで少しずつ塗装が剥がれてきたものの、やはり今この瞬間も、アースィムの表情は月夜の砂丘ほど美しく、冷たい。


 父の死に眉すら動かぬのはきっと仮面のせいだ。父を恨んでいたからでも、薄情な訳でもない。言い訳のように、心中で繰り返した。


「僕がいない四ヶ月間、氏族の皆も変わりなかったですか」

「ああ」


 シハーブの声に物思いから覚め、アースィムは頷いた。先ほど摘んだ白い花を懐に仕舞い、弟に目を向ける。シハーブは兄の顔色を窺ってから続けた。


「婚礼の儀に参加できなかったのは心残りですが、皇女様を無事に氏族にお迎えできて、安心しました。仲も睦まじいようで」

「ありがたいことに」

「安心しました。皇女様が降嫁こうかされるなんて、白の氏族の歴史においても大事件です。他の氏族に対する抑止力になりましょう」


 弟の言葉に、心の隙間に砂塵が入り込んだかのような不快感を覚え、アースィムは口を閉ざした。シハーブの言葉には、誤りも驕りもない。砂漠の忠臣砂竜族といえど、皇族の降嫁を受けることなど滅多にない。皇帝が後宮ハレムに囲っている側女らを高官へ嫁がせることは多くあるものの、皇女となれば話は別なのだ。


 しかし、弟の口振りはラフィアを道具のように扱うものである。当然、シハーブはラフィアという女性のことを何一つ知らない。彼が兄嫁のことを、皇帝から下賜された褒美以上の何者とも思えなくとも不思議はないのだと、理性では理解している。それでも、胸に渦巻く感情が次第に温度を上げ、沸騰し始めるのを止める術はない。


「皇女様の健康はいかがでしょう。以前他氏族に皇女降嫁があった際、慣れない砂漠暮らしのためか、どの皇女も皆、子孫を残すことなく早世されたと聞きます。病の気はありませんか? 懐妊の兆しは? 街で療養している時に、良く効く薬を扱う商人と知り合いました。必要とあれば、彼に頼んで」

「そんなことよりも、本題に入ったらどうだ」


 柔和な表情はそのままに、やや棘のある声音で切り込むアースィム。滅多に怒りを表さない兄の苛立ちを感じ取り、シハーブは飴色の瞳に微かな驚きを滲ませた。


「本題?」

「誤魔化さなくて良いよ。わざわざ聖地に誘ったのには、何か事情があるんだろう」


 シハーブは、兄と良く似た、しかし感情を覆い隠す仮面など持たぬ実直な顔に、引き締まった微笑を浮かべた。


「そうですね。おっしゃる通り、父の死の報告だけでなく遺言を伝えるためにここへ来ました」


 静かに視線を受け止め、アースィムは目顔で言葉を促す。シハーブは続けた。


「父は言いました。シハーブが熱病から快復したのは、過去と現在の全てを知る水神マージの思し召し。やはり白の氏族の繁栄のためにはシハーブが必要だと。つまり、族長代理はもう終わりということです、兄さん」


 シハーブが戻って来れば、それは当然の流れだと思う。しかし。


「遺言が、それなのか?」

「はい。最期まで変わらず厳しい方ですよね。とにかく、どうか安心してください。これからは僕が氏族を導きます。父さんの遺言だからではなく、腹を決めたからです。兄さんはもう、怪我を押して無理をなさる必要はないのです」


 すでに砂に還ったはずの右肘から先が、幻覚の疼痛を訴えた。この怪我が、アースィムを族長から遠ざけたのだ。


 アースィムが腕を失い戦地から戻ったと知った時の父の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。悲しみ、哀れみ、怒り。それらどのような感情よりも色濃く浮かんだのは、失望。嫡子が身体的不自由を抱え、過酷な砂漠で一氏族を率いるためには大き過ぎる不利を抱えたことに対する落胆だったのだ。


 片腕では、駱駝に跨りながら曲刀きょくとうを振るうことができない。それどころか、弓も引けぬこの身体では、皆を養う獲物を狩ることすら叶わない。


 負傷から生まれた高熱に喘ぐ長男を前にし、おまえに族長は任せられぬと父は言った。それは、後継を選ぶ族長としては正しい選択だ。しかしそこに、肉親としての情など一切見えなかった。


 思い出すだけでも無念が込み上げる。だがしかし、失った腕はラフィアとの縁を引き寄せた。そのことだけが、唯一の救いだったのに。もしかするとそれすらも、族長の役目と共に指の間からすり抜けていくのでは。


「ああ、心配なさらないでください」


 シハーブが柔らかく笑む。


「皇女様を奪おうなどとは思っておりません。大切なのは、皇族に連なる方が白の氏族の一人として長く暮らし、血筋を繋ぐこと。兄さんと仲睦まじいのならば、それは僥倖です」


 ラフィアのことを考えていたことに気づいたのだろうか、シハーブは的確に兄の懸念を取り除く。


「さあ兄さん、水神マージに誓いましょう」


 シハーブは肩にかけていた革袋から、銀の杯を取り出した。「立派な族長になる」と誓いの言葉を述べる際に幼少期より使用していた、あの聖杯だ。


 しかし今、これから口にしようとしているのは族長を辞し、弟を補佐するという宣言。なんと皮肉なことだろう。


 これまで、族長になるために生きてきた。それだけが己の存在意義であり目標だった。


 だが、父やシハーブが言うように、不自由な身体では有事の際に対処できず、氏族を危険に晒す可能性が否めない。アースィムの個人的な感情で、皆に不利益を被らせる訳にはいかぬのだ。


 シハーブは、革水筒から聖杯に水を注ぐ。陽光を反射して、水面が金色の光を放っている。


「兄さんからどうぞ」


 差し出された聖杯に手を伸ばす。そう、きっとこれが正しいのだ。ラフィアさえ隣にいてくれるのならば、右腕も族長の地位も、何もいらない。どうせアースィムは、理想的な族長になどなれない……。


『アースィムはとても立派な族長じゃない!』


 不意に、脳内にラフィアの高い声が反響した。赤の集落にて、廃嫡の過去を伝えた際、彼女が発した言葉である。アースィムは打たれたように指先を震わせる。その拍子に掴み損ねた聖杯が、地面に落下して重苦しい音を立てた。


「兄さん?」

「俺は今日まで、この身体でも問題なく族長を務めた」


 聖杯が、斜面を転がって行く。


「シハーブ、おまえに頼らずとも、俺は」

「兄さん、聖杯が!」


 シハーブの上ずった声で我に返り、アースィムは弟の視線を追う。


 聖杯が水を撒き散らしながら転がって、崖の縁へと向かっていた。このままでは、聖杯は遥か下方の砂漠に落下してしまう。そうなれば破損は免れぬだろうし、広大な砂の中から小さな杯一つを探し出すのは困難だ。


 アースィムは砂を蹴り、聖杯を追う。辛うじて指先が取っ手に触れた。危うく落下を阻止して、安堵の息を吐く。一呼吸おいてから、肩越しに振り返り、シハーブに聖杯の無事を告げようとした刹那。


 空気の塊が、アースィムの背中を蹴った。ぐらり、と身体が傾ぎ、咄嗟に手を突こうとしたものの、あいにく片方しかない手は埋まっている。


 なす術もなく、アースィムの身体は宙に投げ出される。次第に斜めになる視界の端で、シハーブが兄の名を叫びながら身を乗り出し、腕を伸ばすのが見えた。


 必死の形相を浮かべる弟。アースィムには、彼の手を掴むことすらできない。空の右袖をシハーブが捉えたが、布地は呆気なく破ける。彼が掴んだのが、衣服ではなく生身の腕であったならば、結末は異なっていただろうに。


 ああ、やはり、片腕では何もできない。氏族どころか、我が身を守ることすら叶わぬのか。


 聖杯を握り締めたまま、アースィムは崖下へと落下した。

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