12 アースィムの心②
「……え?」
思わず、怒りも忘れて顔を上げる。困惑に染まる飴色の瞳がほんの近くからこちらを見つめている。ラフィアは居心地の悪さを覚えて
「い、今さら何の言い訳なの」
「言い訳ではありません。事実です。もっとも、そんな身の程知らずで愚かな願いを口にしたのは、もう何年も前のことですが」
アースィムは嘆息してから、続ける。
「俺は長子ですから、幼少期から時折、父に連れられて宮殿へ拝謁に伺いました。陛下や各氏族長が
中庭の池のほとりは、水と会話をする変わり者皇女ラフィアの定位置でもある。さすがに四六時中居座っている訳ではないものの、アースィムはたまたま毎回ラフィアの姿を目撃していたのだろう。
「蒼天から降り注ぐ日差しを浴びて煌めく水面。その側で微笑みを浮かべる美しい少女。あなたの、乳白を帯びた絹糸のような髪が風に揺れて輝く様を、何度も何度も見つめました。そして、時が過ぎる毎に成長し美しさを増す皇女を見守りました。会話をしたことがないにもかかわらず、気づけばあなたの虜になっていたのです。それは誰の目にも明らかだったのでしょう。冷やかし半分で、『お前が帝国のお役に立つ日が来れば、ラフィア皇女が降嫁するだろう』と皆から言われました。現に父と陛下の間では、冗談交じりにそのような話が進んでいたようです。ですが」
アースィムは淡々と言葉を紡ぐ。
「幼い頃の俺は知らなかったのです。過去、砂竜族に降嫁した皇女様方が、誰一人として幸せになっていないことを」
「え?」
「砂漠は帝都よりもずっと過酷です。皇女様方は心を病んだり、身体を壊したりして皆、
「……だから、私が自分から望んで
アースィムは首肯する。ラフィアは茫然としつつ、眼前にある柔和な顔を見つめて言う。
「私のことが嫌いではないの?」
「嫌うはずがありません」
「それなのに、どうして一緒にいてはくれないの?」
想定外の反応だったのだろう。アースィムは言葉に詰まり、僅かに身を引いた。ラフィアは、千々に裂かれた自身の心を拾い集めつつも、思考の整理が出来ぬまま、思いの丈を吐露した。
「戻りたくないわ。狭苦しい後宮で、小さな池に住む
もし他の皇女と同じように、帝都の外に広い世界があるということなど知らず、籠の鳥として生まれ育ったのであれば。ラフィアはきっと、何ら不満を抱かなかっただろう。
だがラフィアは、世界中を循環し過去と現在の全てを知る水神の眷属と語らうことで、世界の美しさや広大さ、もちろん過酷さをも知ってしまった。自由に流れ旅していた水を、後宮という小さな瓶に閉じ込めるなど、非道な行いだ。
「ここにいさせて。できることならば、集落の皆と仲良くなりたい。カリーマと変な素材で製薬を試したいし、いつかは相棒の砂竜が欲しい。それに」
自分でも驚くほどに、素直な言葉が溢れ出す。
「アースィムと、心の通った夫婦になりたいの」
アースィムが息を吞む。驚愕に見開かれた瞳が、星影に浮かび上がっている。しかし彼は、束の間の驚きが過ぎ去ると自嘲の笑みを浮かべた。
「あなたを怖がらせようとして、小細工をしたのに?」
「もう二度としないなら許すわ」
「俺なんかではあなたに見合いません。田舎者ですし、蓄財もありません」
アースィムは空の右袖を持ち上げる。
「手もありませんしね」
「関係ないわ。それに、今さら何を言っても無駄よ。これはもう、皇帝に定められた婚姻なの。私は絶対に後宮には戻らない。皇女である私がそう望むのだから、離縁なんてできないわ。それなら、仲良く過ごした方がお互い気分が良いはずでしょ。私のことが嫌いじゃないのなら、なおさらよ!」
聞く者によっては傲慢にも響く皇女らしい言葉に打たれ、アースィムは何度か瞬きを繰り返す。しばらく見つめ合った後、アースィムは何かの枷が外れたように、笑い声を零し肩を竦めた。
「あなたは面白い人ですね」
「変わり者だから嫌いになった?」
「いいえ、関係ありません」
先ほどのラフィアの言葉をなぞるように返答し、アースィムは腰を上げて軽く尻の砂を払う。その手のひらを自身の衣服で拭い、なおもしゃがみ込んだままのラフィアに手を差し伸べた。
「さあ、今夜はそろそろ休んだ方が良い。一度集落に戻って、仕切り直してまた新婚旅行に行きましょう。……皇女様?」
怪訝そうに呼びかけられて、ラフィアは自分が、アースィムの顔を間抜け面で見上げていたことに気づく。
まるで夢のようだった。アースィムの顔から取り繕った仮面が消え、心の奥から滲み出るような笑みを浮かべている。ラフィアは身体中が熱くなるのを感じ、アースィムへ向けて伸ばした腕を宙で
「皇女様」
「ラフィアよ」
ラフィアは頬を赤らめながら、出来るだけ澄ました表情で言った。
「皇女じゃないわ。名前で呼んで」
「わかりました……ラフィア、さあ手を」
差し出された、案外無骨な印象の手のひらに指先を重ねる。確かな体温に手のひらが包まれると、身体の芯に火が灯ったかのように満たされた心地になる。
「ねえねえ、もう一回呼んで!」
「どうしたんですか、ラフィア」
二人は肩を並べてオアシスの水際を通り抜け、まだ見ぬ未来へと一歩足を進めた。
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