10 イバが恐れるものは

「こんな場所で一人、何をしているんだい、お嬢さん」


 いかにも悪人風の笑みを浮かべる三人の男に囲まれた。ラフィアは砂竜イバにしがみ付き、状況把握を試みる。


 白銀の鱗からはやはり、何の感情も流れ込んで来ない。砂竜のつぶらな瞳を覗いて見ても、微かな警戒が浮かぶだけ。


 精霊ジンは消えてしまったし、オアシスの水も静かである。もし、この場所で流血沙汰にでもなれば、せっかく水底が見えるほど澄んでいる水が鮮血で汚れてしまうだろう。にもかかわらず、自らの住処を守る素振りもなく不干渉を決め込む精霊の様子にもどこか違和感を覚えた。


 ラフィアは険しい表情で思案して、一人で結論を出して頷いた。もしやこの男らは、とても弱いので、砂竜に少し脅されれば逃げ去って行くようなたぐいの人間なのではなかろうか。ゆえに、イバも精霊も危機感を抱いていないのだ。


 盗賊に襲われて、勇敢に戦い悪人を懲らしめるのは、古今東西のどこの物語でも王道だ。きっとこの場も、何とか丸く収まるに違いない。味方には、水神の眷属である砂竜がおり、もしかすると精霊も助力してくれるかもしれない。


 まさに楽観的思考である。後宮ハレムという、厳重に警護された温室で生まれ育ったラフィアは、危機感に疎いのだ。


「どうしたんだ、怖くて声も出ないのかい」

「いいえ、全然」


 反射的に答えてしまい、慌てて口元を押さえるが、飛び出した言葉は口内に戻せない。


 小娘に侮られ、即座に激昂するかと思いきや、男らは束の間、虚を衝かれたかのような表情で押し黙る。想定外の反応を怪訝に思い、ラフィアが小さく首を傾ける頃には、不埒者も気を取り直したらしく、大仰おおぎょうな動きで腰から曲刀きょくとうを引き抜いた。


「自分の立場がわかっていないようだな」


 松明たいまつの赤に照らされて、刃が剣呑な鈍色に煌めく。ラフィアの頭頂を両断できるような角度で掲げられた凶器。禍々しい光を目にしてようやく、ラフィアは己の身に降りかからんとする惨劇に理解が及ぶ。


 これは、現実世界の出来事だ。後宮の中庭、池のほとりで幾度も精霊に語り聞かせてもらった英雄譚ではない。名もなき勇敢な若者の武勇伝ですらない。


 ラフィアはただの世間知らずで非力な娘であり、武装した男らに抵抗するすべなど持ち合わせてはいないのだ。


 曲刀が振り上げられる。次の瞬間にはきっと、鋭利な切先が肌を裂き肉を断ち骨を砕くだろう。その様が鮮明に脳裏に浮かび、ラフィアは戦慄した。イバに縋る腕に力が籠る。


「や……」


 思わず漏れ出た弱々しい声。だがそれは、突然発せられたイバの咆哮に掻き消された。同時に、触れ合った肌を通じ、激情が流れ込む。


 あまりの濁流に押し流されて、気を失うかと危ぶむほどだ。


 この身が及ばぬ強烈な水流に吞まれ、恐怖し絶望し悲嘆に暮れる。イバの内側に秘められていた激情に当てられて、ラフィアの世界は暗転し、続いて色のない幻覚を見た。


 ……視界が高い。砂竜、おそらくイバの目線である。草がまばらな大地の上に、事切れた駱駝や人、砂竜がまでもが伏している。戦場だ。


 惨劇の間を縫い、イバは走る。背中には大切な存在を乗せていて、彼を守るため敵の攻撃を躱しながら死屍累々の中を駆け抜ける。


 迫り来る白刃が恐ろしい。いつどこから飛来するかわからぬ弓矢が精神を疲弊させる。この身体は鱗という生来の鎧に包まれているため、刃物など恐れるに足らない。だがしかし、背に跨る相棒は、賢いが、か弱い。イバは彼のために自らを盾にして、勝ち目のない戦場を離脱しようと試みる。しかし。


 手綱は、あらぬ方向へと引かれ、イバは抵抗を覚えつつも指示に従い血なまぐさい一画へと逆戻りする。


 向かう先では、一目見て高貴な者だとわかる派手な装いの男が、敵に囲まれていた。天竜の徽章を認めた。皇族だ。


 イバは敵陣に突進する。間一髪、皇族の男は敵の刃を逃れるが、追撃は止まない。馬に跨る敵の正面に躍り出て、盾となる。イバの背に鈍い衝撃が押し寄せる。鞍上の相棒が、応戦しているのだ。


 曲刀と曲刀が幾度も剣戟を交わしている。その度にイバは四肢に力を込めて、鞍上の人物のために安定した足場を提供しようと注力した。


 そして。


 ひと際大きな衝撃があり、大切な彼の呻きが鼓膜を刺す。背中に生温かいものが滴り落ちる。一面灰色の世界。色はないが、理解する。それは紛れもなく鮮血である。止めどなく流れ出す相棒の命の雫を感じ、イバは絶叫して震え、眼前の敵を蹂躙する……。


「大丈夫、大丈夫よ。落ち着いて!」


 何かが弾けるような衝撃と共に幻覚から目覚めたラフィアは、渾身の力でイバを抱き締めた。しかし、虚しくも砂竜は腕を抜け出して三人組へと襲い掛かる。


「うわっ⁉」


 不意を衝かれた男を押し倒し、牙を剥く。絶対絶命の男の顔が引き攣る。


 次に起こるであろう凄惨な事態を思い浮かべ目を閉じようとしたラフィアの耳に、砂竜に組み敷かれた不埒者が発する予想だにしない声が届いた。


「やめろ、!」


 なぜ、その名を知っているのだろう。名を呼ばれたイバは敵を噛み砕こうと口を開いたまま、一瞬躊躇する。


 ただでさえ理解が追い付かぬのに、続いて割り込んだ別の声にラフィアの思考はいよいよ停止した。


「イバ、やめなさい」


 夜風を引き連れて、駱駝に乗った青年が現れる。甘みのある低い声は聞き慣れたもの。ラフィアは彼の名を呼んだ。


「アースィム?」


 彼はなぜか、妻を襲おうとしていた男らを背で守るようにし、イバの前に立ちふさがる。だが、恐怖で我を忘れたイバは、アースィムに飛び掛かる。


 イバに爪牙そうがを向けられるなど、想像すらしたことすらないのだろう。アースィムは目を剥き、咄嗟に動けない。


 驚愕から醒め、おおよその事態を把握したラフィアは彼らの方へと駆け寄りながら叫んだ。


「イバ、大丈夫。アースィムはもう、誰にも傷つけられないわ」


 声は届いたはずなのだが、イバは動きを止めない。アースィムが乗った駱駝は怯え、悲鳴を上げて後退あとずさる。


「イバ!」


 ラフィアは再度呼び、白銀の鱗に飛びつくようにして抱き着いた。


 未だ激しい水流が渦巻いている。暴れるイバにしがみ付くような恰好になりながら、ラフィアはアースィムに鋭い視線を送った。


「何をしているの! イバを宥めて」

「イバを……」

「可哀想に、この子は怯えているのよ。三年前の戦場で、大切なアースィムが、馬に乗った敵の曲刀に斬られて怪我をしたあの日から、刃を見るのが恐ろしいのだわ」


 先ほど脳内に流れ込んできた映像は、イバとアースィムが参戦した戦いの光景だろう。幻覚の最後に滴った血液はおそらく、アースィムが右腕を失った際に流れたものだ。


「イバ、大丈夫。大丈夫だから落ち着いて。このままだとあなたがアースィムに怪我をさせてしまう。見て、彼は元気だわ。だからどうか落ち着いて」


 全体重をかけてイバを抑え込もうと試みる。背や首を撫で、耳元に語りかければやっと、白銀の鱗の内側で渦巻く水の騒めきが乾いた土に吸い込まれるように消えて行く。


 やがてイバはその場で蹲り、哀れみを誘う鳴き声を上げ始めた。


 先日、砂竜の囲いの中で朝を迎えた際、乗り手を恋しがり早朝に突如叫び始めた幼竜ようりゅうを彷彿とさせる悲愴な声であった。

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