9 素敵な精霊と取引を
さやさやと水面が揺れている。その側ではナツメヤシの葉が風に煽られて擦れる音がする。
天幕の中、膝を抱えて座り込む。アースィムの帰りを待ち続けて、すでに半刻は過ぎただろう。不安を抱えじっと息を潜める時間は、異様に時の流れが遅く感じるものである。
とうとう忍耐の限界を迎えたラフィアは、天幕から顔を出して周囲の様子を窺った。まるで門衛のように砂上に伏せていたイバの真っ黒な瞳と視線が重なった。
イバは相棒であるアースィムにいたく懐いており、彼らの間に割り込むようにして現れたラフィアに対しては良い感情を抱いていないようである。
とはいえ、ラフィアに砂をかけたり唾を吐いたりするほどではない。ラフィアの方も、イバの態度はさほど気に留めていないので、いつも心赴くままイバを撫でては嫌な顔をされていた。
この時も、
特段、強い感情を抱いてはいないのだろう。砂竜の体内を流れる水からは、何の思いも流れ込んでは来なかった。それでは、水そのものならばどうだろう。
ラフィアは首を巡らせて星影に煌めくオアシスのさざ波に視線を向けた。
「ちょっとくらい、良いわよね」
水場は天幕のすぐ裏手にあるのだ。アースィムは「絶対にそこから動いてはなりません」と言い残したが、ほんの数歩の距離なのだから、動いたうちには入らないだろう。
ラフィアは天幕から這い出て、水辺へと歩み寄る。その後を、
「あなたも水の眷属だから、何か感じるのかしら」
呟いて、濡れた手でイバの額辺りを撫でてやる。最初こそ逃れようとしたものの、愛撫の心地良さには抗えなかったのか、やがて目を細め、まるで猫が喉を鳴らすような仕草をした。安らいだ様子であり、アースィムが言うような不穏はほんの僅かたりとも感じられない。そしてそれは、オアシスの水が纏う空気も同様である。
再び両手を水中に浸し、ねっとりと皮膚に纏わりつく水の感触に意識を集中させる。目を閉じて、水に呼びかける。もしかすると
小さな人工の井戸や汲み置かれた生活用水とは異なり、ある程度の規模がある自然の水には、精霊が住まうことがある。
精霊があまねく世界を知っているのは、水の性質によるものだろう。
水は蒸発して天におわす水神マージの
そんな精神の内、何等かの事情により神性を得た者は、水蒸気を経て精霊になるという。
一般の人間は、人や獣に化けた精霊を見分けることができないが、近頃はめっきり数を減らしたとはいえ、人間の輪の中で暮らしている個体もいる。民には知られていないことだが、マルシブ帝国初代皇帝も精霊の血を引いていた。だからこそ建国の折、水神の使徒である
つまりその末裔であるラフィアも、遠いものの精霊の血を引いている。代を重ねる毎に薄まり続けた精霊の血は、ラフィアの兄弟姉妹や父皇帝には、目立った特殊な力をもたらさなかった。だがしかし、なぜかラフィアだけは幼少期から精霊を見分けることができたし、水場にひっそりと隠れ住む精霊に呼びかけることも可能としていた。
母は純血の人間であったので、ラフィアのこの能力を先祖返りだと言い、初代天竜帝の血を色濃く受け継ぐ証だと称賛した。
一方で、いらぬ権力闘争を生まないように、水と語らうこの能力は後宮内の誰にも明かしてはならぬのだと、ラフィアに厳命した。
母は、遥か東方で生まれ世界中を旅して回る踊り子だった。ある時宮殿で興業をし、皇帝に
その時にはすでに世継ぎとなる皇太子がいたし、後宮の序列で上位となる夫人の枠も四人分全て埋まっていた。
皇帝の寵愛を受けたとて、母は後宮の規律を乱すことなく、愛妾の一人として慎まやかに暮らし、ラフィアを生んだ。そして、皇子ではなく皇女を生んだ他の
「お母様の言いつけがあるから、これは人前ではやってはいけないことなのだけれど、イバは水の眷属だから、別に良いわよね」
その言いつけを守った結果、「訳もなく水辺を眺めて独り言を漏らす変わり者皇女」の称号を得てしまったのだが、母の選択は正しいと思う。自由を愛するラフィアは、権力闘争など好まない。
ラフィアは水中をかき混ぜる。
「誰も住んでいないのかしら。綺麗な水辺だから、素敵な精霊が住んでいると思ったのだけれど。ああ、出てきてくれないかしら。素敵な精霊さん」
――もう、騒がしいわねえ。
ふわり、と風が吹き、ラフィアの淡い色合いの髪を揺らす。ラフィアは瞼を上げて、水面から立ち昇る水蒸気を見つめた。
灼熱の陽光が地上から水分を連れ去る日中ならばともかく、今は夜。常であれば夜間にここまで多量の蒸気が上がることはないだろう。これは自然の現象ではない。しかし、ラフィアにとってはおなじみの光景だった。
「やっぱり住んでいたのね、素敵な精霊!」
「何よ、あからさまに媚を売るじゃない。それよりあんた、ここがあたしの家だって知っているのに、挨拶もなしに天幕を張ったってわけ?」
「ごめんなさい、人間の前でこれはやらないようにしているのよ。だから、一人になるまで挨拶できなかったの」
精霊はふうんと唸り、顎に指を当ててラフィアの鼻先に顔を寄せた。匂い立つような美貌が接近し、ラフィアは思わず一歩身を引いた。
「精霊の血を引いていることを旦那に隠しているの? 隠し事のある夫婦は上手く行かないわよ」
「それがなくても、アースィムとは上手く行かないわ。それに私は先祖返りだから、精霊の血はとっても薄いし」
「へえ……?」
精霊は目を丸くして、何か言いたそうにしたのだが、悠長に世間話をする気分ではない。ラフィアは早速本題に切り込む。
「それより、お願いがあるの。夫……アースィムが帰って来ないのよ。水脈を辿って、何が起こっているのか見て来てくれない?」
「何であたしがそんなことを」
「お願い! 綺麗な首飾りをあげるから」
「砂竜族が持っている品なんて、どうせ粗悪品でしょ」
「いいえ、本物の宝玉よ」
「様子見て来るだけで宝玉!? あんたいったいどんな金銭感覚してんのよ」
「足りないかしら? 後宮品質よ。私は天竜帝の第八皇女ラフィア。集落に戻れば、降嫁の時に持って来た装身具がたくさんあるわ」
「皇女ラフィア?」
精霊は驚きの声を上げ、それから合点がいったというように頷いた。
「あなたが噂に聞く変わり者皇女なのね。どうりで」
「私を知っているの?」
「水脈がある場所に人脈あり。精霊の情報網を甘く見ないことね。でもそうね、あなたになら協力してあげてもいいわ」
「本当?」
「……改めて見ると、そっくりな色ね」
「え?」
「何でもないわ。謝礼は青玉が欲しい」
ラフィアの目を覗き込みながら言った精霊に、躊躇なく頷く。
「耳飾りでも良い? あなたに似合いそうなものがあるわよ」
「じゃ、それでお願い」
言うや否や、女の姿は再び霧になり、途端に周囲が静かになる。イバが身じろぎをして、水を飲み始めた。
それからしばらくも経たないうちに突然白い靄が
「見て来たけど、ちょっと複雑ねえ」
何やら気遣わし気な眼差しである。
「複雑?」
「何というか、危険だということはないのだけれど……あ!」
精霊は突如として叫び、砂丘の間を指差した。
「来るわ、敵襲!」
「え⁉」
「ということでさようならっ! 耳飾り、待ってるから」
「え、ちょっと!」
引き留めようと手を伸ばすのだが、精霊の姿はすでに消えている。文字通り霞を掴んだラフィアは状況が理解できぬまま砂丘に目を凝らす。
闇の中にぼんやりと、光を放つ朱色の塊が複数浮かんでいる。
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