6 怪しげな本ほど楽しいものはない

 砂漠の遊牧民集落で、簡単な縫合以外の外科的処置は困難だ。適切な器具もなければ、薬剤もない。カリーマら医術師にはもちろん、医学の知識はあるものの、集落で行うのは厳密に言えば薬師や産婆の仕事である。


 変わり者皇女の世話を半ば押し付けられた医術師カリーマは、最初こそ不満を露わにしていたものの、案外役立つラフィアのことを、次第に可愛がるようになっていた。


 特に、物言わぬ砂竜さりゅうの心を言い当てることで的確な治療に大いに貢献したため、日中はラフィアを常に伴い集落を歩くようになった。


 当然、ラフィアが砂竜の感情をどのようにして感知しているのかは誰も知らない。体内を流れる水から感情を理解しているなど、説明したところで誰一人として信じないだろう。彼らはラフィアの特殊な能力を、後宮ハレムで受けた教育と、飼っていた愛犬へのたぐいまれなる洞察眼のおかげだと理解しているようである。


 いつしか、「皇女は愛犬家である。動物の扱いに慣れているため糞を素手で触るし、獣を愛し過ぎて夜な夜な砂竜の匂いを嗅ぎに来るのだ」という勘違いが集落中に定着した。


 ここでも、変わり者皇女が誕生してしまったのである。


 とはいえ、近くで見守っているカリーマならば、的確すぎるほどに砂竜の心を語るラフィアを訝しむこともあっただろう。だがしかし、彼女はほとんど他人に興味がないので、表立って追及することもない。


 まずもって、当のカリーマも変わり者であったのだ。


 就寝の時間を忘れ薬学書を読みふけり、体調不良の砂竜に与える薬砂やくさを削りながら片手間に食事をとる。かと思えば急に、彼女を支える何かが崩壊したかのように、患者の世話を放り出して丸一日深い眠りに落ちることもある。


 集落の住民の中には、カリーマの奇怪な行動を見て、「精霊ジンに憑かれている」と揶揄する者もいるが、ラフィアから見ればそれはただの誹謗中傷だ。精霊は本来自由気ままなもので、そうそう人には憑かない。


 精霊は聖なる水が蒸発する際の水蒸気から生まれ、水辺を中心に活動をする。中には人間の生活に興味を持ち共に暮らすことを選ぶ者もいるが、彼らは人に憑くのではなく、人に化けて暮らす。


 また、どうしても気に入った人間がいる場合には誘惑して伴侶になるか、憑くとしてもその人間の所有物、それも装飾品など美的価値の高いに品に憑依する。美麗な装身具には興味がないカリーマが、近辺に精霊を侍らせているはずがない。


 カリーマ自身が人間に化けた精霊だと言うならば、彼らの憶測もわからなくはない。だが、ラフィアが見る限りカリーマは正真正銘純血の人間であった。


 さて、この日もカリーマは、多忙を極めていた。


 片手で分厚い書物を読み、もう片方の手でパンを食み、なんと足の指で挽き具を掴み薬研やげんで石をすっている。カリーマは、朝日と共にやって来たラフィアへちらりと視線を向け、短く挨拶を寄越す。


 ラフィアは慌てて、カリーマの足から薬研を奪い取る。


「言ってくれたなら、最初から私が薬砂を作ったのに」


 カリーマは弟子の言葉に首を傾けて、パンを咀嚼しながら言った。


「あれ、皇女様は今日から、ご先祖様への挨拶を兼ねて氏族の聖地に新婚旅行でしょ」

「日差しが落ち着いてから出発するのよ。そうそう、あのね、アースィムにお願いをして、硫黄が取れる場所にも寄ってもらうことにしたの。もしかしたら砂竜の薬になるかも知れないってこの前の本に書いてあったでしょう」

「おお! 本当に!?」


 口からパン屑を飛ばしつつ、カリーマが身を乗り出す。


「それなら皇女様、他にもお願いしたいものがあるんですが」


 カリーマは平べったいパンの残りを捏ねるようにして丸め、口に押し込んでから、物置のような天幕内に積み上がる書物の山を漁った。


 乱雑に積まれていた紙の束は、無残にも引っ繰り返されて、まるで絨毯の代わりに本が敷かれているかのような光景が広がった。


「ほら、これです。古代の樹木の化石である珪化木けいかぼく、巨大な古代竜の骨、鳥の卵が閉じ込められた琥珀、夜よりも真っ黒な暗黒物質の塊、それと」

「待って、カリーマ。本当にこれが薬になるの? おかしな魔術でも始めるみたいよ」

「それならそれで面白そうじゃないですか。知的好奇心がくすぐられますねえ。皇女様もわくわくするでしょ」

「ええ……とても!」


 二人は絨毯の上に開いた本を囲み、楽し気な会話を繰り広げる。そのページには呪術の材料じみた物体の挿絵と、おどろおどろしい文字が並んでいる。誰もが奇妙がるであろう怪しげな書物を覗き込みながら、潜めた笑い声を上げる二人は、傍から見れば不気味な様子に違いない。


 案の定、近くを通りかかった者らは、カリーマの天幕を迂回して通り過ぎた。


 それでもラフィアは、どこか満たされた思いを感じていた。師弟関係にあるとはいえ、ラフィアにとってカリーマは、生まれて初めてできた、気心の知れた友人ともいえる。二人は変わり者同士。絆を深めるのは必然だったのだろう。


「カリーマ、良い物見つけて来るから、楽しみにしていて!」

「ええ。……って、新婚旅行ですよね」

「うん?」


 無邪気な顔で首を傾けるラフィアに、カリーマは束の間呆れの眼差しを送り、溜息を吐いて首を振った。

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